プロローグ ファンタジーの種子(1)
そこは、世界から隔絶された柿枝兄弟だけの小さな聖域だった。
夏の終わりを告げる、どこか物憂げで柔らかな陽光が、格子状の窓から床の上へと斜めに差し込んでいる。埃の粒子が光の帯の中で静かに踊るその部屋は、一見すればどこにでもある、裕福な家庭の男兄弟の子供部屋だった。
床には色褪せた特撮ヒーローのフィギュアが転がり、壁際には乱雑に崩れたプラスチック製のブロックが山を作っている。
しかし、その無邪気な記号の隙間を埋めるようにして存在しているのは、小学生の日常にはあまりにも不釣り合いな、悍ましいほどの知性の痕跡だった。
ブロックの山のすぐ隣には、ラテン語の学名が並ぶ分厚い合成生物学の専門書や、有機化学の構造式がびっしりと書き殴られたルーズリーフが、まるで教科書のように当然の顔をして積まれている。学習机の上では、まだ幼い悠一が、大人用のコードエディタの黒い画面に向かい、C言語のソースコードを冷徹な指先で叩き込んでいた。
「兄さん、このページの翻訳、これで合ってる?」
背後から、鈴を転がしたような澄んだ声が響く。悠一がキーボードを叩く手を止め、わずかに首を巡らせると、そこには床に膝をつき、自分の体躯ほどもある英語の論文を真剣な目で見つめる弟・改二の姿があった。
改二は、生まれつき周囲の誰もが振り返るような端正な顔立ちをしていたが、その本質は容姿などではなく、ガラス細工のように純粋で真面目な魂にあった。歳の離れた兄の難解な遊びに文句ひとつ言わず、むしろ兄の役に立てることを純粋な喜びとして、健気にその手伝いを買って出ている。周囲の大人たちから「本当に優しくて良い子ね」と無条件の愛を注がれて育った改二には、他者を疑うという機能が、その精神の遺伝子レベルで欠落しているかのようだった。
「どれ、見せてみろ。……ふん、構文の解釈が甘いな。このコンテキストにおける『自己組織化』は、静的な結合ではなく動的なリライトを指している。お前は国語の成績は良い癖に、技術英語の論理的翻訳のセンスだけは壊滅的だな」
悠一は、小学生のそれとは思えないやたらと背伸びをした、冷淡で容赦のない言葉を突き返す。自分の圧倒的な天才性を隠そうともせず、あえて冷徹に振る舞うのは、彼の傲慢さの現れだった。だが、そんな兄のトゲのある言葉に対しても、改二は決して気を悪くすることはなかった。「そっか、リライトかぁ。兄さんはやっぱり凄いね」と、まるで神様を仰ぎ見るような純粋な憧れを瞳に宿し、嬉しそうに白い歯を見せて笑うのだ。
悠一は「やれやれ」と小さくため息をつき、再び画面に向き直ろうとした。その時、静かな部屋の空気を破るように、開け放たれた窓の外から、ひときわ元気で快活な少女の声が飛び込んできた。
「改二くーん! 天気がいいから、公園で遊ぼう! 早く出てきてー!」
庭の向こう、生垣の生い茂る小道の先から、手を振っているのは、幼馴染の長谷川愛莉という女の子だった。ひまわりが咲いたかのような、まばゆい笑顔。
その声を聞いた瞬間、改二の顔がぱっと華やいだ。彼は論文を丁寧に床へ置くと、弾んだ足取りで窓辺へと駆け寄り、白い木枠の窓から身を乗り出して、誰よりも優しく誠実な笑顔を返した。
「ごめんね! 今は、兄さんの新しい本を読むのを手伝ってるんだ。これが終わったら、僕から呼びに行くから、もう少しだけ待っててくれる?」
「えー、またお勉強? 改二くんはいつも真面目だねえ。たまにはお外で走り回らなきゃダメだよ?」
愛莉は少しだけ不満そうに、ふくれたように唇を尖らせてみせた。だが、その瞳の奥には、どんな時でも約束を破らず、自分に対して誠実であり続ける改二への、深い信頼と好意がはっきりと灯っていた。
愛莉はしばらく改二の顔をじっと見つめていたが、やがて悪戯っぽく、けれどその頬を林檎のようにポッと赤く染めて、窓の上の改二に向かって大声で叫んだ。
「でも、いいよ! 私、将来は改二くんのお嫁さんになるって決めてるんだから! それくらい、いくらでも待ってあげる!」
「えっ……お、お嫁さん……っ!?」
不意に投げつけられた純白の告白に、改二は言葉を失い、耳の付け根まで真っ赤にしてその場に固まってしまった。
そんな弟の初々しい反応が可笑しかったのか、愛莉は弾けたように笑うと、「約束だからねー!」と何度も嬉しそうに頷きながら、軽やかな足取りで小道を駆け去っていった。
窓辺に残された改二は、熱くなった頬を小さな両手で押さえながら、彼女が去った緑の風景を、いつまでも、いつまでも愛おしそうに見つめていた。
その様子をデスクの椅子から冷ややかに眺めていた悠一は、鼻を鳴らしてキーボードへと指を戻す。
(お嫁さん、ね。くだらないおままごとだ)
脳内ではそう切り捨てながらも、悠一の胸の奥には、不思議と不快ではない、奇妙な温かさが居座っていた。
パタパタと小走りで窓を閉め切った改二は、しばらくの間、ガラス越しに遠ざかっていく幼馴染の姿を名残惜しそうに眺めていた。
その耳たぶはまだ朱を帯びたままだったが、やがて思い出したように「あ」と声を上げ、部屋の隅にある小さな簡易キッチンへと向かった。
それは、研究に没頭すると部屋から一歩も出なくなる悠一のために、両親が特例で子供部屋に設置してくれたものだった。まだ少年の小さな背中が、手慣れない様子でコーヒーミルを回し始める。ゴリゴリと硬い豆が砕ける不規則な音が、静かな聖域に響き渡った。
悠一は、キーボードを叩く指の速度を一切落とさないまま、視線だけをわずかに動かして弟の後頭部を睨みつけた。
「おい、改二。またそれを作る気か。時間の無駄だと言っているだろう。私の作業効率を低下させたいのなら、もっと別のエレガントな手段を選べ」
口から出るのは、やたらと冷徹で論理的なトーンの毒舌だった。自分の圧倒的な頭の良さを隠そうともせず、周囲の大人たちを煙に巻いてきた傲慢な知性が、剥き出しの言葉となって弟に突き刺さる。だが、改二は慣れっこだというように、ミルを回す手を止めずに振り返った。
「だって、兄さんは集中するとすぐお昼ご飯を食べるのを忘れちゃうでしょう? 栄養補給にはならないかもしれないけど、ちょっとしたリフレッシュにはなるよ」
そう言って笑う改二の手元から、やがてお湯が注がれる頼りない音が聞こえ、部屋の中に独特の香ばしい匂いが漂い始めた。しかし、その匂いはどこか焦げ臭く、お世辞にも上質な珈琲のそれとは言えなかった。
改二は、自分の手のひらよりも一回り大きなマグカップを両手で慎重に包み込み、デスクの上の、ルーズリーフの山とキーボードのわずかな隙間へとそっと滑り込ませた。
「はい、兄さん。改二特製、お疲れ様コーヒーだよ」
悠一は叩いていたキーボードから完全に手を離すと、湯気の立つマグカップをひったくるようにして持ち上げた。一口、その黒い液体を口に含んだ瞬間、悠一の眉間には、まるで劇薬でも飲まされたかのような深い溝が刻まれた。
「やはりな。相変わらず抽出温度の管理が杜撰だ。お前は沸騰したての熱湯をそのまま注いだだろう。珈琲豆を熱で過剰に破壊しすぎている。そのせいで揮発性の香気成分が飛び、雑味と過剰なタンニンばかりが溶け出しているぞ。要するに、これは不味い。お前には可溶性成分の比率を正しく計算する才能が欠如している。こんなものを嬉々として差し出すお前の味覚を疑うな」
一息に並べ立てられた容赦のないロジック。普通の子供なら泣き出してもおかしくないほどの冷酷な査定だった。しかし、悠一はその不味いコーヒーを、言葉とは裏腹に、最後の一滴まで喉を鳴らして愛おしそうに飲み干した。不器用で、ねじ曲がっていて、けれどこれが悠一なりの、世界でたった一人の弟に対する最大級の甘えであり、不遜な愛情の表現だった。
改二は叱られた犬のようになるどころか、「へへっ、やっぱりダメかぁ」と嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
空になったマグカップを受け取りながら、改二の瞳には、自分の不手際を科学的根拠で論破してくれた兄への、絶対的な信頼がキラキラと輝いている。
「兄さんは本当に何でも知ってるね。次はもっと温度を測って、ちゃんと計算して淹れてみるよ」
改二はマグカップを片付けると、今度は部屋の壁に備え付けられた大きなホワイトボードの前へと歩み寄った。そこは普段、悠一が複雑なプログラミングのフローチャートや、遺伝子の配列モデルを書き殴るための場所だったが、今の改二の手には、色鮮やかなマーカーが握られていた。
キュッ、キュッと小気味よい音を立てて改二が描き始めたのは、先ほど窓の外で約束を交わした愛莉の姿――ではなく、彼女が大好きだと言っていた、お気に入りのアニメに登場する、尖った耳を持った美しい『エルフ』の落書きだった。
拙いながらも、どこか温かみのあるタッチで描かれたキャラクター。改二はその横に、小学生の可愛らしい筆跡でいくつかの矢印と、いくつかの細胞らしき丸い図形を描き足していった。
悠一は、空になった机の上でペンを回しながら、その背中を退屈そうに眺めていた。
「今度はなんだ。お前のおままごとの付き合いは、さっきの泥水一杯分でとうに限界を迎えているのだが」
悠一の冷めた声に、改二はホワイトボードに向かったまま、何気ない、本当にただの思いつきを口にするようなトーンで、けれどその小さな声を弾ませて言った。
「ねえ、兄さん。細胞の奥にある情報――兄さんがいつも画面でカタカタ弄っているプログラムみたいなやつを、もっと簡単に書き換えることができたらさ。僕たちも、あの子も、このエルフみたいに病気も怪我もしない、最強の体になれるのかな?」
それは、あまりにも無垢で、あまりにも早すぎた、世界の理をひっくり返す発想の特異点の萌芽だった。
「馬鹿を言うな、アニメの見すぎだ」
悠一は鼻で笑い、弄んでいたペンを指先で回した。
病気も怪我もしない体。永遠の命。おとぎ話の絵本や、出来損ないのファンタジーアニメが手垢まみれになるほど繰り返してきた、退屈極まりない妄想だ。
神が設計したこの人間の肉体というシステムは、DNAのコピーエラーや外的な要因によって、常にすり減り、崩壊するようにあらかじめプログラミングされている。それを一介の小学生が、ホワイトボードの落書きの延長でひっくり返せるはずがなかった。
そう、切り捨てるはずだった。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。
ぜひ本編もよろしくお願いします。 →◆本編『天国の嘘』◆




