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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第一章 光なき研究室で芽生える希望

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第三話 名称論争

 午前四時。すべての基本環境定義のインポートが完了し、悠一がプロジェクトのマスターデータをメインサーバに保存しようとした、その瞬間のことだった。

キーボードに向かった悠一が、ディレクトリ名として『プロジェクト:クローン』と打ち込もうとした瞬間――カツン、と、里村の細い指先が、悠一のキーボードのエンターキーを物理的にロックした。


「なんの真似だ、里村。俺の指の運動エネルギーを無駄に消費させるな」


 悠一が冷徹な視線を向けると、里村はこれまでにないほど険しく、そして本気で憤慨した表情で悠一を睨みつけていた。


「先輩。今、その品性の欠片もない指先が打ち込もうとした、その呪われた文字列はなんですか。クローン? 冗談でしょう。今すぐその下劣で前時代的なネーミングをデリートしてください。私のソースコードが汚染されます」

「下劣だと?」


 悠一の瞳に、傲慢な努力の天才としての火が灯った。


「お前の頭のメモリはすでにカフェインで飽和して機能停止しているようだな。これは柿枝兄弟のDNAをベースにし、人間の発生プロセスを完全にシミュレートして肉体を現実化したものだ。生物学的な定義において、これをクローンと呼ばずして何と呼ぶ。お前こそ自分の幼稚なネーミングセンスを脳内からデリートしろ」

「違います! 決定的に違いますよ先輩!」


 里村は立ち上がり、エナジードリンクの缶ピラミッドを器用に避けながら、激しい身振り手振りで捲し立てた。


「私たちは、ただのデッドコピーを作っているんじゃない! 人間の不完全なDNA構造をベースにしながらも、その中心核にはナノグラフェンによる演算回路を組み込み、外的干渉に対してリアルタイムで自己組織化する環境適応能力を一からプログラミングしてインポートしたんです! 発生のプロセスは模倣しましたが、その中身は神の設計を完全に上書きした、まったく新しい生命のパラダイムだ。これはもはや人間ではなく、我々の知性が造り出した『ホムンクルス』と呼ぶべきです!」

「馬鹿を言うな」


 悠一は冷酷な鼻笑いと共に、里村の工学的な主張を真っ向から切り捨てた。


「どれだけ環境定義を最適化しようが、基礎となる塩基配列の九十九パーセントは既存の人間のデータだ。OSを少しバージョンアップしたからといって、ハードウェアの連続性を無視して新しい個体名を名乗るなど、エンジニアとしての論理的破綻も甚だしい。どこまで行ってもこれは人間の複製――クローンだ」

「その一パーセントの環境定義が、全体のシステムを完全に支配していると言っているんです!」


 里村はデスクをバンと叩いた。その衝撃で、缶ピラミッドの頂点にあるレッドブルの缶がわずかに揺れ、里村は「あ、危ない」と一瞬だけ素に戻って缶の位置をミリ単位で微調整した。そして、再び怒濤の勢いで悠一に詰め寄る。


「いいですか先輩! 例えば、マザーボードとCPUが同じだからといって、リナックスをインストールしたマシンを『ウィンドウズのクローン』と呼ぶ馬鹿がこの世にいますか!? いませんよね!? それは完全に別個の、独立したシステム――すなわちホムンクルスです! 先輩は生物学の古いドグマにとらわれすぎて、システム全体のアーキテクチャの本質が見えていない。あぁ、嘆かわしい! 努力の天才も、ネーミングにおいてはただの老害だ!」

「誰が老害だ、この空き缶ピラミッド職人が」


 悠一は立ち上がり、里村の胸ぐらを掴むかのように、その長身で圧をかけた。


「ならば聞くが、お前の言う『ホムンクルス』という前時代的な錬金術の単語には、一体どれほどの科学的妥当性があるんだ。そんなファンタジー小説の残骸のような名前をマスターディレクトリに冠してみろ、世界の学術界から失笑を買うぞ。お前がファンタジーじみた発想の天才である弟を求めてここに来たのは知っているが、自分のネーミングセンスまでファンタジーに染めるのはやめろ」

「これはファンタジーではなく、思想の問題です! 私たちが作ったのは、肉体の奴隷ではなく、魂の入れ物なんです。クローンなんていう血生臭い言葉で、この美しい配列を呼びたくはない!」

「言葉の美しさでシステムが動くなら、今すぐポエムでも打ち込んでシミュレーションを回してみろ!」


 二人の天才の罵り合いは、夜の静まり返った研究棟に激しく響き渡っていた。


 外から見れば、世界を一変させるほどの偉大な発明を前にして、若者二人が「ファイル名をどうするか」という、ただそれだけの問題で、まるで子供のようにお互いの専門知識を総動員して、大真面目に殺し合いのトーンで揉めているという、極めて滑稽で、奇妙な光景だった。


 しかし、彼らにとってはこれ以上なく本気だった。互いの才能を最高に認め合い、この狂気的なデスマーチを生き抜いた唯一無二のバディになったからこそ、この名称定義の部分だけは、一ミリたりとも絶対に譲ることができなかったのだ。


「いいだろう、里村。そこまで言うなら、お前のそのホムンクルス理論の脆弱性を、今からソースコードの依存関係から一本残らず論破してやる。席を空けろ」

「望むところです、柿枝先輩! 私の缶ピラミッドの美しさに匹敵するほどの完全なロジックで、あなたの前時代的なクローン信仰を完全にコンパイルし直してあげますよ!」

「ふん、大きく出たな。ただ細胞を発生させるだけで新しい命だと抜かすなら……だったら、お前の言う環境適応型で、病気もしない、怪我も自己修復するような最強の器をこの手で作ってみせろ! そうしたら、そのふざけたホムンクルスという名前を認めてやる!」


 叫んだ直後、悠一は自分の口から出た言葉に微かに息を呑んだ。


(病気も怪我もしない最強の器、だと?)


 それはかつて、実家の子供部屋で弟の改二が無邪気に夢見た、あのアニメの『エルフ』の妄想そのものだった。ファンタジーなどと見下しておきながら、誰よりもそのおとぎ話を現実に引き摺り下ろそうと執念を燃やしている自分自身の矛盾。それを、売り言葉に買い言葉とはいえ、この後輩の前で無意識に露呈してしまったのだ。


 だが、里村はその悠一の一瞬の動揺に気づくことなく、むしろ最高難易度のシステム要件を突きつけられたことに、狂気的なまでの笑みを浮かべた。


「――言いましたね、先輩。その言葉、ログに保存しましたからね! 数億の細胞の自律修復アルゴリズム……私がこの手で組み上げて、あなたに絶対にホムンクルスだと認めさせてやりますよ!!」


 夜明け前の最も深い闇の中、二人の天才は再びキーボードの前に陣取り、今度はプログラムの修正ではなく、互いのプライドを懸けた名称論争という名の、果てしない、けれど最高に熱い、青春の空中戦へと突入していった。


 窓の外の夜空が、濃紺からゆっくりと淡い群青色へと融けていく。

 東の地平線から差し込み始めた朝焼けの光は、徹夜の熱狂に浮かされていた研究室の輪郭を、冷徹な静けさとともに白々と照らし出していった。


 あれほど激しく火花を散らしていた二人の声は、いつの間にか途絶えていた。


 悠一は椅子の背もたれに深く身体を預け、乾いた両手で顔を覆っている。そのすぐ隣では、里村がデスクに突っ伏したまま、規則正しい寝息を立てていた。彼の頭のすぐ横には、一晩の激闘の戦果であるエナジードリンクの缶ピラミッドが、朝の光を浴びて怪しく、けれど黄金比を保ったまま屹立している。


 結局、二人の名称論争は決着がつかなかった。


 人間の発生プロセスをなぞった複製物としてのクローンか、神の設計を上書きした新たな人造生命としてのホムンクルスか。互いのプライドと哲学を限界までぶつけ合い、ソースコードの海で言葉の弾丸を撃ち合い続けた結果、両者の体力と気力が同時に限界を迎えたのだ。


「ふん、馬鹿馬鹿しい」


 悠一は顔から手を離し、誰に向けるでもなく小さく自嘲を漏らした。


 ひどく喉が渇いていた。いつもなら、この極限状態の疲労の中では、部屋の隅からパタパタと小走りで近づいてくる弟の気配があったはずだった。そして、あの計算の欠片もない、熱湯をそのまま注いだだけの不味いコーヒーを差し出してくるのだ。

 今、あの簡易キッチンには誰もいない。ただ冷え切ったステンレスの沈黙があるだけだ。悠一は無意識のうちに、その存在しない不味さを己の喉が強く渇望していることに気づき、胸の奥に灯った仄暗い痛みに奥歯を噛み締めた。


 悠一は重い身体を引きずるようにして立ち上がり、部屋の奥に佇む培養槽へと歩み寄った。淡いエメラルドグリーンの培養液の中では、里村のトップダウン同期制御によって生み出された器が、静かに、緩やかに揺れていた。

 それは、ただの肉の塊ではない。骨格も、筋肉も、神経ネットワークも、すべてが完全に調和を保って組み上がっている。何より異質なのは、その中央に浮かぶ顔だった。


 柿枝兄弟のDNAをベースに発生をシミュレートしたその肉体は、仄かに改二の面影を宿し、同時に悠一自身の輪郭をも内包していた。まだ個としての境界線が定まっていない、滑らかで、驚くほど端正な、白紙の顔。


 悠一は、冷たい培養槽のガラスにそっと手のひらを当てた。ガラス越しに伝わってくる微かな振動は、この肉体が確かに刻んでいる鼓動の証明だった。


(これが……俺たちの作った、新しい命の形か)


 その白紙の顔を見つめていると、悠一の胸の奥に、名状しがたい奇妙な予感が沸き起こってきた。なぜだろうか。この、まだ誰のものでもない空っぽの肉体が、いつか自分たち兄弟の運命を決定的に変えるものになるような、そんな昏い確信が、冷たいガラスを通じて脳髄へと流れ込んでくるのだ。


「先輩。ホムンクルスを、そんな悪魔みたいな目で見つめないでください」


 背後から、衣擦れの音とともに、眠気の残る掠れた声が響いた。里村がいつの間にか目を覚まし、眼鏡をかけ直しながら悠一の背中を睨みつけていた。

 彼はまだ完全に覚醒していない足取りで培養槽へ近づくと、悠一の隣に並び、頑なな口調で言葉を重ねた。


「私は、絶対にこれをクローンとは呼びませんからね。どれだけ先輩が論理を捏ね繰り回そうと、これは私たちの知性が神の手から奪い取った、唯一無二の、気高い人造人間、ホムンクルスです。……いつかこの器が、世界を救うことになる。私はそう信じています」


 里村の言葉には、どこか祈るような響きがあった。悠一はそれに対し、鼻を鳴らすだけで反論はしなかった。ただ、未完の論争の残響だけが、二人の間に静かに横たわっていた。


「呼び方など、後回しだ。里村、お前のその気高い人造人間のバイタルデータを見ろ。……コンソールを確認しろ」


 悠一の冷徹な指摘に、里村はすぐに表情を引き締め、メインマシンの前へと戻った。モニターに表示されたグラフを一瞥した瞬間、里村の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。


「え? そんな、馬鹿な。エラーの出力はゼロのはずです。プログラムの同期制御も、確実にマッピングされているのに……」


 エメラルドグリーンの画面の片隅で、生命維持のインジケーターが、じわじわと不穏な右肩下がりの数値を刻んでいた。


 工学的なバグはない。ナノグラフェンの回路も正常に電気信号を伝達している。肉体の構造としては完成しているはずなのに――この肉体は、自発的に生きようとしていなかった。


 細胞が自己組織化を終えた瞬間から、まるで静かな諦念を受け入れたかのように、末端の神経から徐々に、微細な細胞死が始まりつつあったのだ。


「構造は完璧だ。なのに、なぜ生物として定着しない……?」


 悠一は、モニターの数値を睨みつけながら奥歯を鳴らした。

 自分たちの持つ情報工学と合成生物学のロジックだけでは、この肉体に生命の連続性を固定することができない。発生のレールを敷くことはできても、そのレールの上を肉体が自律して走り続けるための、決定的な何かが欠落しているのだ。


 里村は、ガタガタとキーボードを叩いて原因を突き止めようとしたが、やがて力なくその手を止めた。


「分かりました。これは、工学の問題じゃない。生体そのものが起こしている、未知の拒絶反応……臨床的な生理バグです。私たちはシステムを組むプロフェッショナルですが、生きた肉体の現場で何が起きているかという、医学の知見が圧倒的に足りない」


 里村は悔しそうに唇を噛み、朝焼けの光を見つめた。

 限界だった。二人の頭脳をもってしても、この「生命の壁」だけは突破できない。


 だが、悠一は諦めるような男ではなかった。彼の傲慢な知性は、すでにこのバグを叩き潰すための、新たなリソースの検索を始めていた。


「里村。この大学の医学部に、一人、異質な論文を上げ続けている狂人がいるのを知っているか」


 悠一の言葉に、里村は弾かれたように顔を上げた。


「医学部……? いえ、私は他学部の動向までは」

「解剖学教室の籍でありながら、生体組織の変異と、細胞の定着維持に関する拒絶反応の制御において、異次元の臨床レポートを提出している男がいる。上層部からは『倫理観の欠如した異端児』として目を付けられているようだが、あいつの構築している生理学のロジックは、俺たちのこのバグを予見している」


 悠一の瞳の奥に、冷徹な、けれど確かな新しい猟犬の光が灯る。


「名前は、長泉良朗ナガイイズミ ヨシロウ。……工学の枠を飛び越えて、この肉体に本物の『生』を定着させるには、あの男の、現場の医学の頭脳が必要だ」

「長泉、良朗……」


 里村はその名前を、自身の記憶に深く刻み込むようにして呟いた。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。

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