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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
最終章 復讐の果てと地獄の救済

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最終話 不器用な男

 秘匿コンソールの前に座る柿枝悠一の肉体は、すでに自力で指一本動かすことすらできなくなっていた。細胞のテロメア崩壊は末梢神経を完全に破壊し、心臓の鼓動だけが、壊れかけたプログラムのように不規則な鼓動を刻んでいる。ひび割れた皮膚の隙間から、灰色の粉のようなものがポロポロと床のシャンパンの海へと落ちていく。右目から溢れ出た血の涙は首筋を伝い、完全に黒い染みとなって固まっていた。


「悠一! 悠一、しっかりしろ!!」


 静寂を切り裂いて、ホールの奥から一人の男が遮蔽の壁を突き破るようにして駆け込んできた。世間から身を隠し、主治医として悠一を支えてきた長泉良朗だった。


 彼は、スマートシティの崩壊とガス充満の警報を検知し、親友の元へと走ったのだ。

 長泉は、床の硝子片が靴底を突き破るのも構わずに悠一の車椅子へ飛びつき、その首筋の生体ポートへ必死の形相で医療用アクセスチップを突き刺した。


「浸潤が延髄に達している……クソッ、心停止シークエンスが始まってるじゃないか! なぜ、なぜここまで自分を追い込んだ!」


 長泉の手は激しく震えていた。彼は携帯型の生体メンテナンス装置をコンソールに叩きつけ、薬液の強制注入プロトコルを立ち上げようと、血の滲むような指先でキーボードを叩いた。これまで数え切れないほどの命を救ってきたその神の指先が、今はただ一人の、地獄へ堕ちていこうとする親友の時間を一日でも、一秒でも長く引き延ばすためだけに、狂ったように動き続ける。


「もう……いい、良朗……」


 ひび割れた薄い唇から、微かな、掠れきった声が漏れた。

 悠一は、長泉の必死な手を、残されたわずかな力で、そっと押し戻した。その手の甲の皮膚はすでに感覚を失い、冷たい大理石のような温度をしていた。


「無駄だ……。システムはすでに、完全な終了コードを……実行した。ハードウェアの寿命だ。お前のその指先でも……繋ぎ止められない……」

「黙れ! 私は医者だ、長泉の医療の誇りだ! お前を死なせるわけにいかない、まだ何も聞いていない、なぜ一人でこんな地獄を背負ったんだ!」


 長泉の瞳から大粒の涙が溢れ落ち、悠一のひび割れた手の甲を濡らした。


 悠一は、そんな親友の悲痛な姿を、網膜の光が消えかけ、混濁していく視界の中でじっと見つめていた。その瞳には、かつて総理大臣の仮面の下に隠していた冷酷な敵意も、世界を呪う狂気も、もう欠片も残っていなかった。あるのは、ただ一緒に終わりの見えないデスマーチを戦い抜いた、あの頃の、純粋な技術者の親友としての眼差しだけだった。


「良朗……最後まで、すまなかったな……」


 悠一の口から、掠れた、けれど芯のある言葉が紡がれた。


 それは、この十年間、彼を世界で一番安全な檻の中に監禁し、社会的に消滅させてまで自分の専属主治医として縛り付けてきた、身勝手な暴虐に対する、心からの謝罪だった。

 野に放っておけば、笹山や高井戸の豚どもに必ず目をつけられ、里村と同じように跡形もなく殺される。だからこそ、自分の目の届く場所へ拉致に近い形で幽閉し、何が何でも死なせずに生かそうとした。その狂気にも似た過保護の束縛が、悠一の死を以て、ようやく解き放たれる。


「お前は……今日から、自由だ。裾野にいる天見たちのところへ……未来へ、行け……」

「悠一……お前は、お前はどうなるんだよ!」


 長泉の叫び。だが、悠一はもう答えるだけの呼吸を維持できなかった。

 悠一は、動かなくなった左手を最後の力で胸元へと滑り込ませ、スーツの内ポケットから、古びた一枚のプラスチックカードのような写真を取り出した。

 長年の摩耗で四隅が擦り切れたその写真には、二十年以上前、政治の泥沼に呑み込まれる前の、純粋に科学の未来を信じて笑い合っていた頃の弟・改二の姿が写っていた。不味いコーヒーを淹れて笑う、あの日々。


 悠一は、写真の中の弟の笑顔に向けて、ひどく不器用で、ひどく優しい笑みを浮かべた。パノラマウィンドウの向こうで、地熱プラントの最終爆発が起こり、夜空が真っ白な閃光で埋め尽くされる。その圧倒的な光が室内に差し込み、悠一の朽ちゆく体を包み込んでいく中で、彼の心臓は静かに、その最後の拍動を停止した。


 眼鏡の奥の瞳から光が消え、柿枝悠一という二十年間の亡霊は、写真の弟に微笑みかけたまま、静かにその息を引き取ったのだった。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

エピローグがありますが、物語はここで終わりです。


ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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