第三十五話 覇道の遺言
そして、その巨大な破滅の濁流は、この伊豆の地をも呑み込もうとしていた。
迎賓館の豪奢なホールを飛び出し、勝利の美酒に酔いしれながらスマートシティの中心部へと戻ったばかりの笹山茂治と笹山智行は、突如として全端末に弾け飛んだ世界の崩壊ニュースと、全世界の裏ルートからの非難の猛嵐に、完全に精神を破壊されていた。
「な……なんだこれは! 誰がこのデータを流した! 柿枝のアカウントは完全に消したはずだろう!?」
新総理となった茂治は、手にした管理端末を血が出るほど強く握りしめ、絶叫した。だが、端末の画面はすでに彼らの操作を受け付けず、真っ赤なエラーログと、全世界で同時に発射された大陸間弾道ミサイルの放物線データだけをスクロールさせている。
「社長! プラントが……伊豆地熱エネルギープラントの安全弁が完全にロックされ、圧力値が臨界を迎えています!」
秘書官の悲鳴のような報告と同時に、ズズズ……と伊豆半島の全域を、不気味な地鳴りと激しい縦揺れが襲った。
「ば、馬鹿な……! 我々がこの国の頂点に立ったんだぞ! どうしてこうなった!? 世界の富はすべて俺たちの手の中に――」
智行が資産と利権の数字が並ぶモニターにしがみつき、発狂したように喚き散らす。
だが、その強欲な叫びをかき消すように、私邸のパノラマウィンドウの向こう、スマートシティの中心部から凄まじい白煙が立ち上った。地熱プラントの安全弁強制解放に伴う、人工連動水蒸気爆発。大室山と天城山の深部から呼び覚まされた地獄の噴煙が、街を一瞬にして包み込んでいく。
しかし、それは十年前のような災害を騙った偽装ではなかった。悠一の手によってあらかじめパイプラインにフル充填されていた最期の毒――高濃度の硫化水素を含む火山性ガスが、目に見えない死の霧となって、逃げ場のないスマートシティの全域へと、怒涛の勢いで吹き荒れたのだ。
「が、はっ……あ、ああ……っ!」
室内の空気が一瞬にして死のガスへと置き換わり、茂治は喉をかきむしりながら床へのたうち回った。網膜のスクリーンの向こうで、社会的抹殺を突きつけられ、物理的な死の檻へと変貌していく自らの楽園。
智行は、無価値な記号へと成り下がった暗号資産の残高画面を見つめたまま、血を吐いて無様に白目を剥き、窒息死していった。自分たちが世界の王座だと信じていた場所で、彼らはただの家畜のように、最も惨めに駆除されていった。
――ガガッ、ジジジ……。
伊豆の要塞の隅。
悠一の秘匿コンソールに映し出されていた笹山一族の、そして世界中の権力者たちの無様な死に顔のフィードが、核の電磁パルスと通信線の物理的切断によって、一つ、また一つと激しいノイズとともにブラックアウトしていく。
画面は次々と漆黒の静寂へと沈み、世界が音を立てて死に絶えていく様子を、悠一は車椅子の上から、ただじっと見つめ続けていた。
何億という人間を欺き、世界を業火で焼き尽くした。二十年越しの復讐のシークエンス。チェックメイトが完全に証明されたその瞬間。
悠一の心の中に訪れたのは、狂喜でも、達成感でも、歪んだ正義の悦楽でもなかった。
それは、ただ、どこまでも深く、どこまでも冷たい、底知れぬほどの虚無感だった。
耳鳴りすら吸い込まれそうな静寂の中、モニターの青白い光だけが、悠一のひび割れ、崩壊していく顔を虚しく照らしている。世界を丸ごと屠るための巨大なシステムを完成させ、すべての駒を奈落へと叩き落としたゲームマスターは、今や誰もいないがらんどうの劇場に取り残された、ただの孤独な観客に過ぎなかった。
「終わったよ、改二」
悠一は、動かなくなった首をゆっくりと傾け、誰もいない暗闇に向かって、ひどく掠れた声で呟いた。
復讐という名の、果てしない、果てしない二十年間のデスマーチ。その終わりを告げるシステムログを見つめながら、彼は自分の胸の奥底から、張り詰めていたすべての緊張が融けていくのを感じていた。もう、これ以上、改二の仮面を修復する必要はない。もう、毎夜自分の細胞が内側から腐り落ちていく音に怯えながら、豚どもを呪うコードを打ち続ける必要もないのだ。
「ああ……これでやっと、お前のところへ逝ける」
悠一の唇から、二十年ぶりに、重すぎる鉄の鎧をすべて下ろしたかのような、ひどく穏やかで、深い、安堵の息がこぼれ落ちた。彼の視界は急速に暗転し始めていたが、その胸中には、凍てついた地獄の底でようやく手に入れた、微かな平穏の兆しが、静かに広がり始めていた。
世界が音を立てて自滅していくログの向こうで、伊豆の要塞の電力系統もまた、地熱プラントの崩壊に巻き込まれて致命的な電圧降下を始めていた。ホールの天井に張り巡らされた瀟洒なLED照明がバチバチと不吉な火花を散らし、次々と消灯していく。窓の外から押し寄せる圧倒的な白煙と、夜空を真っ赤に染め上げる火山性ガスの不気味な残光だけが、暗闇に沈んだ広大な空間を地獄の絵絵画のように浮かび上がらせていた。
チカチカと不安定に明滅を繰り返す秘匿コンソールのメインモニターに、突如として緊急割り込み通信のシグナルが走った。発信元は、電磁パルスと暴動の嵐に揉まれる自衛隊座間駐屯地。
画面が強制的に切り替わり、そこに映し出されたのは、完全武装で部隊を率いている鈴木諜報部長の姿だった。
背景には慌ただしく行き交う残存部隊の影と、鳴り響く空襲警報のサイレン。世界が崩壊していく未曾有のパニックの渦中にありながら、国家の猟犬たる男の瞳だけは、凍りついたような冷徹さを維持していた。鈴木は通信用モニター越しに、寿命の限界を迎え、車椅子に深く沈み込んでいる悠一の姿をじっと見据え、低く硬い声を響かせた。
『――総理、いえ、柿枝先生。世界は完全に終わります。もはや国家というシステムそのものが消滅しました。私はこれから残存部隊を率いて、最終防衛ラインへと向かいます』
自らの職務を最期まで全うせんとする鈴木の報告。それを聞きながら、悠一は歪んだ唇の端から微かに息を漏らした。
「ああ……ご苦労だったな、鈴木君。君には感謝しているよ」
悠一の口元から、黒い血がツーッと一筋流れ落ちる。
「鈴木君……最後に、私から一つだけ、頼みがある」
『頼み、ですか。私にお出しになる命令は、とうに終わったはずですが』
画面越しの鈴木は眉を微かにひそめ、冷淡に突き放すように言った。自分たちをチェスの駒のように冷酷に使い潰し、この世界の破滅を仕組んだ悪魔とも言わんばかりに。
「命令ではない。一人の人間としての……身勝手なお願いだ」
悠一は溢れ出る血を吐きながらも、その顔に穏やかで、悲しげな人間としての表情を浮かべた。それは、総理大臣「柿枝改二」の仮面でも、復讐に狂った天才「悠一」の冷徹な仮面でもない、ただのひどく不器用な一人の男の素顔だった。
「私の個人的な復讐に付き合わせてしまった、何の罪の無い人々の魂を……あの施設で彼らが懸命に救おうとしている。……だから、守ってやってくれないか?」
その言葉に、鈴木は大きく目を見開き、そして深く、深くため息をついた。
「ずりぃよ、あんた。俺の立場を知ってて」
鈴木は忌々しげに頭を掻きむしり、肩をすくめた。だが、その瞳には、国家という檻から解き放たれ、自らの意志で戦場を選び取った男の、獰猛で不敵な笑みが浮かんでいた。
『勘違いしないでいただきたい。私は国家保安の任を帯びた諜報部長として、国家の最高機密であるあの施設を死守しに行くだけです。……貴方の安いお涙頂戴に付き合う義理は、ありませんよ』
「ふっ、ははは。そうか、そうか。実に頼もしいな……」
プツン、と通信が切れ、モニターが完全に沈黙する。相棒への最後のバトンを渡し終えたかのように、ホールの中には再び濃密な死の静寂が降りてきた。
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