第三十三話 清流の逆入
悠一は歪んだ唇の端を吊り上げ、車椅子のコントロールレバーを押し込んだ。静かに無人のホールを後にし、薄暗い廊下を進んで、あの鋼鉄の扉――『処置ルームA』へと向かった。
電子ロックがタケルのハッキングによってガバガバに解錠された扉を、悠一は静かに押し開けた。
部屋の中央、円筒形の大きなスキャナー装置。
そこには、糸の切れた人形のようにぐったりと横たわるサクラを、必死の形相で抱き起こそうとしている天見託次の姿があった。そしてその手前、剥き出しのコンソールパネルに自作のデバイスを直結させ、鬼気迫る速度でキーボードを叩きつけていたタケルが、弾かれたように振り返り、こちらを鋭い眼光で睨みつけてきた。
「再会を邪魔して済まないね。だが、幕引きにはまだ少し早い」
悠一は、車椅子の手すりをひび割れた指先で握り直し、低く澄んだ声を響かせた。天見は敵意を剥き出しにして立ち塞がり、タケルは自分の中にオーバーライドされた柚木の残滓を疼かせながら、目の前の怪物の正体を問うた。
悠一は、ただ淡々と語り始めた。
メディアの向こう側で慈愛を振りまいていた総理大臣『柿枝改二』は、二十年前にあの豚どもの安っぽい陰謀によってすでに死んでいること。今ここにいる自分は、その時に殺された弟のクローン体に、死に損なった兄の意識を無理やり流し込んだだけの化け物、初代研究所長・柿枝悠一その人であるという最悪の真実を。
そして、この伊豆のスマートシティも、世界中の特権階級が群がるヘブンも、すべては奴らを引き寄せ、逃げ場を失わせて皆殺しにするための究極の肥育場に過ぎないという、二十年間の復讐の全容を、凍りついた声で告げた。
天見の顔は恐怖と正気ではないものへの生理的な嫌悪感で歪み、タケルは激しい吐き気に襲われながら、冷酷に見下ろしてくる悠一へ、軽蔑の眼差しを向けた。
「狂ってる……あんた、そんな姿で、なおも他者の脳を抉って器を求めるっていうのか……!」
「復讐なら、もう完成しているよ。社会的抹殺と物理的抹殺だ。……さあ、行きなさい。君たちは、死にゆくこの都市から脱出する権利がある」
用済みの餌となったサクラを連れて、このまま地下シェルターへ逃げろと、悠一は冷淡に追放を告げた。だが、タケルだけは違った。彼は震える一歩を力強く踏み出し、悠一の虚無の瞳を真っ直ぐに射抜いて、吠えたのだ。
「アンタの復讐に、関係ない奴らを巻き込むな。デジタルだろうが肉体だろうが、生きてる奴には、その先を選ぶ権利があるはずだ! 俺たちが名前をもらったのが希望だって言うなら、その希望をここで切り捨てて逃げるなんて、それこそ里村さんたちの願いを裏切ることになるだろ!」
――ドクン、と。
「面白い。ならば、その希望とやらが、私の二十年の絶望にどこまで抗えるか……見せてもらおうか」
タケルのその青臭く、愚直で、どこまでも熱い叫びが処置室の壁に反響した瞬間。
細胞レベルで内側から腐り落ち、とうの昔に完全な絶対零度の氷と化していたはずの悠一の胸の奥底で、死んだはずの柿枝悠一という人間の魂が、小さく、しかし耳を聾するほどの激しさで共鳴した。
悠一の網膜のノイズの向こう、コンソールの蒼白い光に照らされたタケルの姿に、いくつもの幻影が重なり合って視界へ濁流のように流れ込んできた。
――かつて古い研究室の片隅で、徹夜のデスマーチの最中、不格好なエナジードリンクのピラミッドを作りながら「科学で人を救うんだ」と輝かしい理想を語り合っていた、最高の親友『里村清一』の姿を。
――「兄さん」と不器用な笑顔を浮かべ、自分のために淹れてくれた、あの不味くて、けれど世界で一番愛おしかったコーヒーの匂いとともに佇む『弟・改二』の姿を。
――そして何より、十年前の伊豆の海岸線で、自身の魂を転送させながらも、最期までエンジニアとしての誇りを捨てず、未来へバトンを繋いで沈んでいった柚木と佐伯を。
彼らの遺したすべての熱量が、今、目の前の『タケル』という一つのカタチとなって、怒りとともに激しく沸騰している。
(ああ……。俺が世界を呪う過程で、とっくに摩耗して失ってしまったはずの光が、希望が……まだこんなところに、こんなにも瑞々しく、熱く生きていたのか)
悠一は、ひび割れ、奇妙な灰色斑点の浮かび上がった自らの右手の甲を見つめ、静かに笑った。
その時だった。それまで沈黙を守っていた天見託次が、静かに、しかし鋼のような重みを持って口を開いた。里村先生の真の遺産――人間の全意識を半永久的に保存する『コアカプセル技術』のすべては、失敗作と偽られていた自分自身の脳内にこそ、暗号化されて隠されているのだ、と。
天見が脳内にコアカプセルを隠していると明かした、その瞬間。
悠一の脳内で、二十年間バラバラだった最後のパズルのピースが、凄まじい速度で噛み合わさっていった。
かつての親友である里村清一が、自分すらも騙し抜くための、あまりにも見事なブラフを仕組んでいたのだ。「プロトタイプ01は失敗作だ」というあの言葉すらも、すべては強欲な狼どもの目から真実を遠ざけるための欺瞞。天見託次という男の存在そのものが、世界で最も強固な隠匿ストレージだった。
二十年間、ゲームマスターとして世界を欺き、すべてを見切っていたつもりだった自分が、最後の最後で、とっくに死んだ親友の掌の上で踊らされていた。
その真実に気づいた瞬間、悠一の胸を去来したのは、怒りでも絶望でもなかった。敗北感を遥かに超越した、技術者としての圧倒的な感嘆。そして、己の死角を突いてみせた親友への、尽きない親愛。それらが狂おしく混ざり合い、悠一は額に手を当て、天を仰ぐと、腹の底から、抑えきれない歓喜の笑いを漏らした。
「ふっ、ははははは! 流石だな、里村……! 最後の最後で、お前という男は……!」
喉の奥からせり上がる乾いた笑い声を無機質な処置室に響かせながら、悠一の瞳には、世界を呪う狂気とは異なる、かつて研究に没頭していた頃の純粋な技術者としての輝きが、微かに、けれど眩く蘇っていた。自分の復讐のプログラムはすでに確定している。この後、世界は勝手に心中を遂げる。その盤面はもう変わらない。
だが、もし。
この泥沼の破滅が約束された世界の中で、里村たちが最後に夢見た『本当の救済』を、この新しい世代の技術者たちが成し遂げられるというのなら。
「君たちがこの狂った世界を救い、その先に未来があると信じるなら、勝手にしたまえ。やれるものなら……やってみるといい」
悠一は崩壊しかけた指先を踊らせるように手元のコンソールを操作し、二つの正確な座標データをタケルの端末へと転送した。
「御殿場と裾野にある、元トヨタの工場跡地だ。あそこなら資材も設備も十分にある。自衛隊の防衛ラインを突破する認証キーも、今この瞬間に無効化してやった。……行きなさい。世界を救う箱舟を造りたければ、そこへ」
これは、目の前の敵対者に対する安い情けなどでは断じてなかった。
ただの一人の技術者として、自分を置いて先へ進んでいく、新世代の可能性という名のバグが、どこまでこの世界を書き換えられるのかを見てみたいという、二十年ぶりの、純粋な祈りだった。
「さあ、急ぎたまえ。この偽りの『天国』が、本当の地獄に変わる前に」
フォォォンッ!! と、全固体電池から供給される膨大な電力をインホイールモーターが爆発的なトルクへと変換し、質量兵器と化したハイエースEVが、迎賓館の瓦礫を蹴散らしながら修善寺の深い闇の中へと消え去っていった。
その後ろ姿を、悠一は処置ルームの冷たいパノラマウィンドウのガラス越しに、静かに見送った。テールランプの赤い残光が霧の彼方へと完全に吸い込まれたとき、悠一はゆっくりと車椅子の向きを変えた。
もう、この現実世界に思い残すことは、何一つとしてない。悠一は再び、静まり返った無人の大ホールへと戻ってきた。
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