第三十二話 ゲームマスターの帰還
大理石の床に這うように残されたシャンパンの海を車椅子の車輪で踏みにじり、悠一はコンソールの前へと辿り着いた。
液晶画面を見上げる。そこには、先ほど笹山茂治が手元の端末で実行した処理のログが、冷徹な文字列となってスクロールしていた。
『管理者権限:アカウント「柿枝改二」を削除しました。すべてのアクセス権限は無効化されました』
その文字列を見つめながら、悠一は乾いた喉の奥でクスクスと笑った。
笹山たちは、これですべての勝負がついたと確信している。神輿としての柿枝改二をシステムから消去し、不老不死の聖典を手に入れたと勘違いし、自らがこの国の、いや世界の新たな神に就任したのだと、狂喜乱舞しながらスマートシティの中心部へと凱旋していった。
だが、彼らは何一つ理解していなかった。
技術者という人種の執念の深さを。そして、柿枝悠一という男が、この二十年間、どのような地獄の中で牙を研ぎ続けてきたのかを。
「改二……」
悠一は、システムから完全に抹消された弟の名前を、愛おしそうに、そして酷く哀しげに呟いた。
二十年前、あの強欲な政界の豚どもに嵌められ、泥水を啜らされ、無実の罪を着せられて自ら命を絶つしかなかった、純粋で、優しすぎた自慢の弟。悠一は弟の無念を晴らすためだけに、人間としての心を捨て、弟のクローン体に自らの意識を移し、その皮を被って『柿枝改二』という偽物のカリスマを演じ続けてきた。
政治の泥沼に塗れ、豚どもを檻の中に誘い込むための醜悪な仮面。世界中の権力者から、そして何億もの衆愚から、怨嗟と欺瞞の象徴として呼ばれ続けた改二という名前。
それが今、笹山たちの傲慢な手によって、システムから完全に消去されたのだ。
剥ぎ取られたのは、二十年間自分を縛り付け、弟の肉体を乗り物として使い潰してきた呪いの仮面だった。ヘブンが改二の消滅を告げたその瞬間、悠一は、自分の魂が引き裂かれた皮膚の奥から、本物の姿を取り戻して起き上がるのを感じていた。
消されたのは弟の皮だ。その下に残されているのは、二十年間、暗いシステムの底に潜み続け、世界を滅ぼすためのプログラムを狂気的に組み上げてきた本物の亡霊――初代研究所長、柿枝悠一の魂に他ならない。
「ただいま、悠一。……長かったな、本当に」
悠一は、自身の本当の名前を自身の喉で呼び、血塗られた指先をコンソールのキーボードへと添えた。
彼の手が動く。それは長年使い古されたテンキーデバイスをブラインドタッチするような、流れるように滑らかで、寸分の無駄もない技術者の動作だった。一打、一打、キーを叩くたびに、硬質な打鍵音が静まり返ったホールにカチッ、カチッと鳴り響く。
タイピングの衝撃が走るたび、崩壊しかけた指先から強烈な激痛が脳髄へと突き刺さる。だが、悠一はその痛みを極上の快楽であるかのように受け止め、笑みを深めていった。
画面が切り替わり、漆黒のターミナル画面が立ち上がる。白く無機質なカーソルが、最深部の入力を促して明滅していた。
悠一は、笹山たちが後から構築した軍事級のセキュリティ、日本サイバトロニクス社が誇る超並列AIクラスターの防壁を、ハッキングすることすらしなかった。そんな小細工は必要ない。彼はただ、二十年以上もの間、誰の目にも触れぬようデータベースの最暗部に放置され、しかし絶対的な権限を維持し続けていた『真の最高権限』のIDを、正規のルートから堂々と打ち込んでいった。
『ログインID:Yuichi_Kakieda(柿枝悠一)』
『パスワード :************』
最後のアスタリスクが入力され、悠一が静かにエンターキーを押し込む。
その瞬間、システムは一ミリ秒の遅滞もなく、主の帰還に反応した。
『パスワード:認証完了』
『お帰りなさい、所長』
青白いモニターの光が、悠一の顔に深く刻まれた死の影と、絶対的な狂気を湛えた美しい笑みを鮮烈に照らし出した。
侵入でも、クラッキングでもない。システムはただ、この壮大な屠殺場の真の設計者であり、マスターである柿枝悠一を、二十年という空白の時間を超えて、至高の座へと迎え入れたのだ。
「ああ、ただいま。二十年ぶりだな。この時を……この瞬間を、私はずっと待ち望んでいたよ」
悠一は、まるで長年離れていた恋人に語りかけるかのような、至高の慈愛に満ちた声音で呟いた。その声の響きは、限界を迎えた肉体の掠れを完全に凌駕し、ホール全体の空気を震わせるほどの圧倒的な熱量を帯びていた。
システムは彼に完全に服従し、世界中に張り巡らされた死の回路が、その全容をモニターへと曝け出していく。
クアッドの同盟網、ファイブアイズの諜報閉域網、深刻な高齢化に喘ぎ、人間をデータに変換して口減らしをしようと群がったEU諸国の国家サーバ、そして利権を貪るためにODA予算へハイエナのように群がったグローバルサウスの振興国。世界中の特権階級が、自ら首を突っ込んで祝杯を挙げている『ヘブン』という名の巨大な檻。
「さあ、始めよう。私からすべてを奪い、弟を殺したこの醜悪な世界に、最悪の真実という名の引報を渡してやろう」
保身と疑心暗鬼に狂った権力者どもを奈落の底へ突き落とすための、最終確定コマンド。悠一がその送信キーへと、血塗られた指先を厳かに振り下ろそうとした、まさにその刹那だった。
――ピピッ、ピピピピピピピピッ!
静まり返ったホールの隅で、秘匿コンソールの画面の端が、引き裂かれるような赤い警告アラートで激しく弾け飛んだ。
『警告:正面ゲート、物理的突破を検知。同時にローカルネットワークへの不正アクセスを確認』
「……なんだと?」
悠一の指先が、送信キーの数ミリ上空でぴたりと止まった。思考の並列処理の隙間を突かれた不可解さに、彼は鋭い視線をコンソールのサイドモニターへと転向させ、敷地内の監視カメラフィードを強制呼び出しした。
歪んだ画面の向こう、夜の霧に包まれた迎賓館の強固な鉄門が、凄まじい質量による一撃で文字通り粉砕され、火花を散らして吹き飛ぶ光景が映し出された。
白煙とタイヤの焼ける匂いを撒き散らしながら、闇の中から無音の弾丸のように突入してきたのは、塗装の剥げかけた一台の漆黒のハイエースEVだった。
それだけではない。悠一が完璧に調律し、二十年間誰も侵入することすらできなかったはずの私邸のセキュリティシステムが、今、外壁の通信ハブを通じて、驚異的な速度で内側から書き換えられつつあった。荒々しく、セオリーをあざ笑うかのように獰猛でありながら、その実、一分の無駄もない洗練を極めたコードの筆跡。
(このクラッキングの筆跡……。世田谷のアジトから、鈴木の目を盗んで逃げ延びたあのプロトタイプ02――タケルか)
悠一の氷のように冷徹な瞳に、微かな、しかし決定的な驚愕が走った。そして、あの巨大な巨体を四輪のインホイールモーターの限界トルクで狂気的に操り、修善寺のワインディングを駆け上がってきた無茶な運転のテレメトリ。
(天見託次。お前が、それを運転しているのか)
悠一の胸の奥底を、奇妙な、とうの昔に忘却したはずの懐かしさが不意に一撫でしていった。
先ほど、笹山たちが用済みとして脳の記憶を抉り取られたサクラの抜け殻だけが転がっているはずの『処置ルームA』。
奴らは、システムにすべてを奪われ、干からびて死にゆくこの伊豆の要塞へ、あの子の命を救い出すためだけに、剥き出しの生身の肉体で飛び込んできたのだ。
(面白い。世界をシャットダウンする前に、少しだけ、送信を待ってやろう)
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