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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
最終章 復讐の果てと地獄の救済

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第三十一話 柿枝改二の抹殺

 国営迎賓館になる予定だったその邸宅は、今や外界の光をすべて拒絶する、黒い大理石の要塞と化していた。伊豆高原の険しい崖の上にそびえ立つモダンな建築。鋭角的なフォルムが夜の森を威圧し、壁一面のパノラマウィンドウの向こうには、燦然と輝く伊豆次世代スマートシティの夜景が、まるで巨大な電子の回路基板のように広がっている。

 だが、その豪奢を極めた広大なホールを支配しているのは、張り詰めた死の気配だった。


 ホールの中心、月光とLEDの薄青い光が交錯する境界に、一台の車椅子が静かに佇んでいた。車椅子に深く身を預けているのは、第百八代内閣総理大臣・柿枝改二――その皮を被った柿枝悠一だ。

 仕立ての良いチャコールグレーの最高級スーツを纏っているが、その器はすでに崩壊の極限を迎えていた。二十年前に里村清一と共に作り上げた弟に似たクローン体は、限界サイクルをとうに過ぎ、細胞のテロメアが急速に自壊を始めている。

 照明に照らされた首筋や手の甲の皮膚は、古い壁紙が剥がれ落ちるように無残にひび割れ、奇妙な灰色の斑点が死斑のように浮かび上がっていた。時折、神経の浸潤による激痛が走り、右目の端からは、拭われることのない一筋の黒い血が、乾いた皮膚を伝ってツーッと流れ落ちている。


 もはや、この肉体で公衆の前に立つことは物理的に不可能だった。そのため、世間に対しては、「柿枝総理は肉体という最後の人類的な制約から解放され、自らの意志でメタバース『ヘブン』へ完全移行した」と公式にアナウンスされていた。

 現実世界における柿枝改二という政治家は、デジタルの世界から国政を司っているというのが、表向きのストーリーだった。この伊豆の要塞に籠もっているのは、ただ朽ち果てるのを待つだけの肉体の出涸らしである。


 静寂を破ったのは、重厚な装飾扉が乱暴に開け放たれる金属音だった。

 ホールの贅沢な絨毯を踏みしめて現れたのは、数名の取り巻きを引き連れた二人の男。一人は、この国の政界の裏を牛耳る官房長官・笹山茂治。そしてもう一人は、その息子であり、日本サイバトロニクスを完全に掌握したと確信しているCEO・笹山智行だった。


 二人の瞳には、底なしの強欲さと、権力の頂点を極めた者特有の下卑た全能感がギラギラと燃え盛っている。


 笹山茂治は、車椅子の上でぴくりとも動かない悠一の前にゆっくりと歩み寄ると、懐から一枚の書面を冷酷に突きつけた。すでに用意されていたかのような、隙のない総理大臣辞任届だ。


「柿枝総理。いや、柿枝。君が潔く身を引くなら、君の余生だけは保障してやろう。どうだ? 賢明な判断を期待するよ」 


 この十年、国家予算を私的に流用してきた証拠を盾にした、蛇のように粘り気のある脅迫。それに対し、悠一は感情の消え失せた虚無の瞳のまま、「受け入れよう」とあまりにも呆気ない降伏の言葉を口にした。悠一は震えを装った手でペンを取り、辞任届に署名する。


「笹山君。君が望む総理大臣の椅子だ。存分に、その重さを味わうといい」

「……っ、ふん。賢明な判断だ」


 笹山茂治は奪い取るように署名済みの書面を掴み、息子のCEOと顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべた。自分たちが勝ったのだと、この国の頂点に立ったのだと、誰もが確信した瞬間だった。


 己の完全なる勝利を確信し、下卑た笑みを浮かべた笹山智行が、パノラマウィンドウへと傲慢な足取りで歩み寄る。眼下に広がるスマートシティの夜景を見下ろしながら、彼は多幸感に包まれた声で高笑いを上げた。


「いやあ、実に素晴らしい眺めだ。この伊豆の楽園も、ヘブンの利権も、すべては我々笹山一族のものとなったのだからな!」


 新総理となった笹山茂治は、車椅子の上で微動だにしない悠一の前にゆっくりと歩み寄った。その手に持ったタブレット型のヘブン管理端末を、これ見よがしに悠一の眼前に突きつける。


「柿枝、貴様は実によくやってくれたよ。君のその神がかったカリスマ性のおかげで、国民という名の衆愚どもは何の疑いも持たずに『ヘブン』という名の屠殺場へ自ら進んで飛び込んでくれた。法を曲げ、倫理を捨て、この世界規模の搾取スキームを完成させられたのは、すべて君を神輿として担ぎ続けてきたからだ」


 笹山茂治の口元が、蛇のように残忍に歪んだ。


「だが、夢を見る時間は終わりだ。君がかつて我々に約束した『不老不死の真のドキュメント』は、死人の感傷のようなくだらないビデオだったが、ロジックの根幹はすべて我々の手の中にある。つまり、国民から搾取すれば良いだけだ。……そして、君という神輿は、もう一銭の価値もないゴミクズになったということだ」


 笹山茂治の指先が、管理端末の画面を冷酷にタップしていく。画面上で、赤く明滅する一つのシステムプロファイルが呼び出された。


『アカウント名:柿枝改二(管理者権限)』


「君は世間的には、すでにヘブンへ完全移行した最高尊厳ということになっている。ならば、その魂をシステムから完全にデリートしても、現実の国民は誰も気づきはしない。……柿枝、貴様は『ヘブン』からも永久追放だ。今、この瞬間に貴様の存在のすべてをこの世から抹殺してやる」


 ターン、と軽い操作音がホールに響いた。


 それは、ヘブンのマスターサーバ内に存在する『柿枝改二』のアカウント、およびその全アクセス権限の完全な消去を意味していた。世間的にはヘブンの中で永遠に生きているはずの総理の魂を、デジタルの奈落へと叩き落とす操作。

 現実世界の肉体が崩壊し、公衆の前へ二度と出られない悠一にとって、このアカウントの削除は、自身の社会的・論理的な存在そのものを消し去る――すなわち、誰にも暴かれることのない合法的な殺人の執行に他ならなかった。


「これで終わりだ、柿枝。いや、死に損ないの化け物くん。余生をその車椅子の上で、せいぜい惨めに呪いながら過ごすことだな」


 笹山智行が、嘲笑と共にシャンパングラスを悠一の足元へと投げ捨てた。クリスタルガラスが床の大理石に激突して甲高い音を立てて砕け散り、黄金色の液体が悠一の崩壊しかけた靴を汚していく。


「さあ皆、帰るぞ! 我々にはまだ、世界中から集まる天文学的な富と、伊豆の天国のような楽園が待っているのだからな!」


 新総理とCEO、そして品性のない笑い声を上げる取り巻きたちは、満足げに背を向け、重厚な扉の向こうへと去っていった。自らが世界の王に君臨したのだと、この地球上のすべての利権を手に入れたのだと、誰もが微塵の疑いも持たずに確信した、まさに愚者の絶頂の瞬間だった。


 ドン、と重厚な防音扉が完全に閉まり、足音が廊下の向こうへと消え去った。

 ホールに残されたのは、耳が痛くなるほどの圧倒的な静寂と、床の大理石に不様に飛び散った最高級シャンパンの、甘ったるく、どこかえた匂いだけだった。砕け散ったクリスタルガラスの破片が、月光を浴びて無数の針のように冷たくきらめいている。


 車椅子の上で、柿枝悠一はゆっくりと深く息を吐き出した。

 張り詰めていた内圧が抜けると同時に、せきを切ったように凄まじい激痛が全身の神経を駆け抜けた。呼吸をするたびに気管支が内側から焼けるように熱く、肺胞が繊維レベルで微細に爆ぜるような感覚がある。右目の端から流れる黒い血は、すでに顎のラインにまで達し、冷えて固まりつつあった。首筋や手の甲のひび割れた皮膚からは、自身のクローン細胞が砂の城のように崩壊していく、ミリミリという無機質な自壊の音が幻聴となって脳裏に響き渡る。


「が、はっ……」


 不意に込み上げた激痛に、悠一は小さく血を吐いた。スーツの胸元が赤黒く染まる。視界の端には、まるで壊れかけた液晶モニターのように、激しいデッドパケットの砂嵐が混ざり始めていた。脳の並列処理能力は確実に低下し、思考の輪郭が強烈な目眩めまいによって歪みそうになる。


 だが、彼の精神のコアにある青白い炎だけは、この肉体の死を前にして、かつてないほど激しく、狂おしく燃え上がっていた。


「さあ、お祝いをしようじゃないか。この世界の新しい『終わりの始まり』に」


 悠一は驚異的な執念で動かなくなった右手の指先をレバーへと進め、車椅子を起動した。モーターの静かな駆動音だけがホールの空間に響く。彼が向かったのは、部屋の最も暗い隅、豪奢な絵画の裏に隠された、外界のあらゆる検閲網から完全に独立した自分専用の秘匿コンソールだった。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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