第三十話 毒蔓の落葉
シリコンデジタルイクイップメント(SDE)社の強固なクラウドインフラを基盤とし、日本サイバトロニクスとインドのグラモハ社の手によって、世界中へ『ヘブン』のシステムがデプロイされていく。深刻な高齢化とそれによる医療崩壊、さらには局地的な食糧危機に喘ぐ世界各国にとって、それは現実の苦痛を消し去る救済の楽園に他ならなかった。だがその実態は、柿枝悠一が設計した、ボタン一つで特権階級を論理的に、あるいは物理的に消去できる世界規模の死の檻の輸出だった。
総理大臣としての果てしない公務を完璧にこなす傍ら、悠一は十年の歳月をかけ、世界中の檻の中に囲い込んだ権力者たちが決して手を取り合わないよう、水面下で見えない情報操作を敢行し続けた。
執務机の上の電卓型テンキーデバイスをブラインドタッチで叩き、鈴木の諜報部隊すら感知できない極秘のサイバー工作スクリプトを、大国の首脳や多国籍企業の幹部たちの端末へ向けて走らせる。ある国には隣国の軍備増強の偽情報を掴ませ、ある特権階級には同盟者の裏切りのログを流し込む。彼らが互いを仮想敵国として疑心暗鬼に陥り、孤立を深めていくよう、じわじわと精神的な毒を回していくのだ。すべては、いずれ彼ら自身の手で互いの核のボタンを押し合わせ、この歪んだ世界ごと共倒れさせるための、凄惨な土壌作りだった。
だが、世界に撒き散らした罠がもうすぐ完成するというその全盛期において、悠一の足元は静かに崩れ始めていた。
「――浸潤が、神経系まで達している。これ以上のログ解析や深夜の並列ハッキングは自殺行為だぞ、悠一」
官邸地下の密室。診察台の上に横たわる悠一の首の後ろに、神の指先を持つ主治医・長泉良朗が、生体メンテナンス用のアクセスチップを突き刺していた。
モニターに映し出される悠一の生体データは、赤色で警告を鳴らしている。二十年前の検証実験で作成され、弟・改二に似た彼のクローン体は、限界を超えた過負荷によって、細胞レベルでの崩壊――すなわち朽ち始めのフェーズを迎えていた。指先は時折思い通りに動かず、視界の端には常にデッドパケットのようなノイズがちらついている。
「分かっている……。だが、あと少しだ」
悠一は、自身の網膜に投影された世界地図の光点を見つめたまま、絞り出すような声で言った。
「あと少し、あと少しだけこの肉体を保たせてくれ、良朗。世界に張り巡らせた蜘蛛の巣が、完全に閉じ合わさるその瞬間まででいい」
良朗は悲痛な面持ちで、朽ちゆく親友の体にメンテナンスコードを打ち込み続けた。その指が、一瞬だけキーボードの上で止まる。良朗は絞り出すように、ずっと胸に燻っていた問いを投げかけた。
「悠一。お前は笹山や高井戸、世界中の強欲な権力者たちを道連れにするつもりだろう。だが、ヘブンに囚われた何億もの善良な市民まで巻き添えになる。復讐のために、彼らの命まで奪うというのか」
親友の血の通った静かな弾劾。しかし、悠一は感情の消え失せた絶対零度の瞳をゆっくりと良朗へ向け、冷酷にその言葉を切り捨てた。
「善良な市民、か。……良朗、お前は忘れたのか。二十年前、私の弟が、あの豚どもに嵌められて無実の罪を着せられた時、世界はどう動いた? 奴ら善良な市民とやらは、弟の根も葉もないゴシップに嬉々として群がり、デマを膨らませ、寄ってたかって彼を貶めて楽しんだ。……奴らも、笹山たちと同類だよ」
世界そのものが共犯者だ。ならば、そのすべてを屠る屠殺場を用意して何が悪い。
悠一の歪んだ正義は、もう誰にも止められなかった。
同時に、悠一にはこの十年間、何があっても死守しなければならない絶対の防衛ラインがあった。世界中の権力者たち、あるいは焦燥を募らせる笹山智行が血眼になって行方を追っている『不老不死の真のドキュメント』。
今の段階で、あの世界の権力者どもにそれがあらすじ通りに渡ってしまうことだけは、万が一にも避けねばならなかった。もし本物のドキュメントが奴らの手に渡れば、罠が完成する前に計画の前提が崩れてしまう。
悠一の真の狙いは、核を押し合わせることを最終手段としつつも、まずは彼らに「不老不死の器に移るため」として自ら現実の肉体を捨てさせ、そのままヘブンのシステム――すなわち逃げられない死の檻の中へと閉じ込めることにあった。本物の不老不死を匂わせる設計図は、奴らを吊り上げるための最高級の「撒き餌」に過ぎない。
世界に散りばめた罠が完全に完成し、奴らを一網打尽にするその瞬間までは、この設計図を世界の誰の目にも触れさせず、隠し通さなければならないのだ。最後の最後で、強欲な権力者どもを一人たりとも取り零すことなく、全てあの檻の中にかき集めて圧殺するために。
悠一は、独自のインフラ監視網の果てに、そのデータの正確な在処をとうの昔に突き止めていた。設計図は、天見が連れて逃げたプロトタイプ03・サクラの脳内データ領域に、暗号化されて眠っている。
サクラと天見は、この十年間、長泉総合病院の最深部にずっと身を潜めていた。悠一にとっては、彼らの居場所が自分の管理下で完全に固定されている方が好都合だった。総理大臣の権限とサイバー検閲網を駆使し、笹山の伸ばしてくる汚い手から、その座標を隠し通し続けてきたのだ。
悠一は、病院の隔離セクターから送られてくるサクラのバイタルデータを網膜のARグラスで見下ろし、暗闇の中で静かに嗤う。画面の向こうでは、天見が娘となったサクラを守るため、そしてその脳内に恐るべきドキュメントが隠されていることを隠蔽するために、必死の形相でコードを書き換え、何重ものプロテクトをかけ続けている姿があった。
「あいつは愛ゆえに、絶対に中身を開けさせない。誰よりも安全で、最高に無料の金庫だ」
天見の「娘を死なせたくない」という無償の家族愛、その泥臭くも強固な保護本能すらも、悠一はドキュメントを世界から完全に隠匿するための『絶対的なセキュリティシステム』として利用していた。愛すらも冷徹なロジックの一部として盤面に組み込むその手腕は、天才技術者としての頂点であり、同時に人間としての完全な決別を意味していた。
一方で、あの夜、古いトラックによって連れ去られたプロトタイプ02の行方だけは、十年の歳月が流れてなお、悠一の検索エンジンに牙を剥き続けていた。
時折、世界のどこかの閉域網で、悠一のクローラーを弾き返す、異常なほど洗練された守護プログラムの残響が検知される。それはかつて世田谷の夜に政府の検閲網をねじ切った、あの謎のハッカーの筆跡に酷似していた。
(まだ燻っているバグがいるな……。だが、それも檻の噛み合わせの内だ)
弟・改二の仮面を被った復讐鬼は、細胞の崩壊に抗いながら、冷たい深海のような孤独の底で、復讐の盤面が動き出すその時を待ち続けるのだった。
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