第二十九話 強欲な世界
総理大臣執務室の重厚な空気は、ここ数日間、異なる言語の熱気と狡猾な欲望によって絶え間なくかき乱されていた。
大室山と天城山の同時水蒸気爆発という未曾有の災害を大義名分とした伊豆半島の完全封鎖措置。火山性ガスの充満を騙ったその嘘は、デジタルの海に一瞬だけ漏れかけた『ヘブンの嘘』を圧殺し、世間の目を引きつけることに成功した。
だが、国内のバグを力技で揉み消した悠一の前に次に現れたのは、国家という単位すら生ぬるい、世界規模の強欲な豚どもの群れだった。
「総理、クアッド(日米豪印戦略対話)の各国特使、およびファイブアイズの諜報同盟諸国から臨時の共同要請が届いています。……彼らの狙いは一貫して、我が国の『ヘブン構想』における情報共有ルートの独占です」
外務事務次官が、額に汗をにじませながらタブレットの資料を差し出す。悠一は「改二」の端正な仮面を決して崩すことなく、淡々と書類を受け取った。
「官房長官、外務省の言いなりになるな。彼らの要請が、我が国の主権をどこまで侵害しているか、精査した上で次の答弁を作れ」
「は、ハッ」
周囲の官僚たちが慌ただしく退室していく。一人残された悠一は、椅子の背もたれに深く体を預け、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
特注のARグラスが網膜に直接投影するのは、外交文書の美辞麗句を剥ぎ取った、諸外国の醜悪なまでの利害テレメトリだ。
クアッドやファイブアイズといった最高峰の同盟国ネットワークは、ヘブンがもたらす天文学的な市民データ、すなわち『人間の意識そのものの統制権』を自らの防衛システムに組み込もうと血眼になっていた。さらに、深刻な高齢化とそれに伴う致命的な食糧危機、医療崩壊の限界に喘いでいたEU諸国は、ヘブン構想を『究極の解決策』として熱望していた。
人間を肉体から切り離し、メタバースの仮想空間に完全移行させれば、現実の介護病床も、莫大な小麦も牛の肉も、一切不要になるからだ。それは人道支援の皮を被った、凄惨な口減らしのシステムだった。
また、インフラの近代化を一足飛びに成し遂げようとするグローバルサウスの振興国たちも、この巨大な利権の分け前に預かろうと、日本のODA予算をハイエナのように凝視していた。
「そういえば、シリコンバレーからの『主賓』が、そろそろ地下の秘密会議室に到着する頃だな」
悠一が何気なく呟いた「そういえば」というフレーズ。それがウェイクアップワードとなり、観葉植物の陰に仕込まれた高感度スマートスピーカーが密かに起動する。ARグラスの視界が即座に切り替わり、官邸地下の極秘会議室のセキュリティログが網膜に展開された。
部屋の円卓で悠一を待っていたのは、世界のITインフラを事実上牛耳る超巨大企業『シリコンデジタルイクイップメント社(SDE社)』の最高経営責任者と、大国の意思を代弁する傲慢な特使、そして日本サイバトロニクス社長・笹山智行、裏で糸を引く高井戸の老獪な姿だった。
悠一が室内に足を踏み入れると、米国特使は極めて紳士的な、しかし蛇のように冷徹な微笑を浮かべて本題を切り出してきた。
「柿枝総理、我が国をはじめとするファイブアイズ各国、およびEUの指導者たちは、貴国のヘブン構想の先進性を高く評価している。深刻な人口問題に対する、これ以上ない福音だ。……だが、一国で管理するには、このシステムはあまりにも膨大で危険すぎる」
特使は手元の資料をトントンと叩いた。
「セキュリティと国際的な安定性の観点から、ヘブンの根幹を成す『メタデータ領域』および意識のバックアップサーバは、すべて我が国の誇るSDE社のクラウドへと完全移行していただきたい。それが国際社会の総意だ」
それは、同盟という名の合法的な略奪であり、実質的な経済植民地化の通告だった。さらに、SDE社のCEOが冷酷な追撃をかける。
「我が社は今後の世界展開を見据え、サハラ砂漠の広大な土地を開拓し、太陽光発電と直結した超巨大データセンター群を増設する計画を進めている。このインフラ構築に関わる費用、および毎年のプラットフォーム利用料は、すべて日本政府に『国際貢献の枠組み』として全額負担していただきたい」
サハラ砂漠の開拓費用まで日本に持たせ、ヘブンが世界中から吸い上げる富の環流システムを、大国とSDE社が根こそぎ横取りする構造。そのあまりにも理不尽な要求に、同席していた外務官僚たちの顔が恐怖で強張る。拒絶すれば、国際協定の力で「日本の総理の首などすぐにすげ替えられる」という無言の圧力が、部屋の酸素を奪っていく。
だが、その絶望的な沈黙を切り裂いたのは、怒りの声ではなかった。
日本サイバトロニクス社長、笹山智行の目が、ギラギラとした強欲な光を放って醜く輝いたのだ。
「総理! 国難とも言えるこの世界展開の大役、ぜひ我が日本サイバトロニクスにお任せいただきたい!」
笹山智行は大国の脅迫に怯えるどころか、これを「政府の天文学的な予算を合法的に自社へ流し込む、生涯最大のチャンス」と捉えていた。彼は興奮で鼻息を荒くしながら、悠一へ向けて身を乗り出した。
「SDE社の堅牢なインフラを最大限に活かすためにも、ヘブンのシステム拡張、および各国リージョンへのデプロイ実務は、全て我が社と、我が社が提携しているインドの『グラモハ社』に一任していただきたいのです! 我が国の技術的優位性を守るためにも、開発の主導権だけは他国に渡してはなりません!」
グラモハ――それは、笹山智行の祖父・笹山巌が興した、里村の技術を合法的に奪うための現地企業だった。今はそこに高井戸も役員として名を連ねている。
笹山智行は大国への対抗を大義名分に掲げながら、日本政府から算出されるであろうサハラ砂漠開拓を含む兆単位のシステム拡張予算を自社とグラモハで丸抱えし、身内で完全に山分けしようという、浅はかで凄まじい算段を企てていたのだ。
大国の略奪と、身内の社長の底なしの強欲さ。その二重の豚の連鎖を前に、悠一はデスクの下で、電卓にしか見えないテンキーデバイスにそっと左手を添えた。数字を試算するような自然な動作で、特定のキーの組み合わせをブラインドタッチで素早く叩き込む。
ARグラスの画面で、SDE社のサーバ仕様と、笹山智行のグラモハ経由のマネーロンダリング計画書が、冷徹な確定データとして処理されていく。
(クク、本当に救いようのない豚だな、智行。自分から進んで罠を広げにいくか)
悠一の胸の奥底で、暗黒の歓喜が静かに弾けた。
悠一にとって、ヘブンの実態の暴露は今この瞬間であってはならないのだ。笹山智行たち国内の豚、そして世界中の強欲な権力者どもがヘブンの利権に群がり、骨までしゃぶり尽くそうと自ら檻の中に入り込み、十分に肥え太って逃げられなくなったその瞬間に、自らの手で一網打尽にする必要があった。
そのためには、大国のインフラを巻き込み、笹山智行の手によって世界中にヘブンのシステムという名の檻をデプロイさせるのが、最も合理的で、最も凄惨な結末を生み出す。
悠一は、有能な総理「改二」の器の内側で、大国の圧力と身内の強欲さに板挟みになり、震えを隠しきれない無能な傀儡総理の演技を調律した。彼は、痛ましげに顔を歪め、力なく首を縦に振った。
「――分かりました。SDE社および国際社会の提案を、我が国は全面受諾いたします。サハラ砂漠のデータセンター構築費用に関しても、全額を日本政府が担保しましょう。……そして笹山社長、貴方の言う通り、システム拡張と世界デプロイの予算はすべて、日本サイバトロニクスとグラモハへ発注いたします。……どうか、国際社会の期待に応えてください」
哀れなほどに物分かりの良い総理の態度に、米国特使たちは勝利を確信して満足げな笑みを浮かべ、笹山智行は「世界中のヘブンの利権も、国家予算も、すべて俺のものだ」と、己の完全なる勝利に内心で狂喜乱舞した。
だが、これこそが悠一の張り巡らせた絶対の罠だった。
笹山智行は自らが世界のインフラを主導し、莫大な富を得るゲームマスターになったと悦に入っているが、実際には悠一の計画通り、ボタン一つで世界中の特権階級を論理的に、あるいは物理的に皆殺しにできる『死の檻』を、自らの手でせっせと世界中に設置させられているに過ぎない。クアッドも、ファイブアイズも、高齢化に怯えるEUも、利権を貪るグローバルサウスも、全員が自ら首を洗ってこの檻へと飛び込んでくる。
強欲な世界を丸ごと屠るための、凄惨な土壌作り。
すべての交渉が終わり、再び一人になった執務室の暗闇の中で、弟の顔を被った復讐鬼は、ARグラスの青白い光の向こうで、冷たい深海へと沈んでいくように、音もなく嗤うのだった。
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