第二十七話 誤算の連鎖
総理大臣執務室に差し込む午後の光は、あまりにも平穏で、世界が冷徹な怪物に飲み込まれかけていることなど微塵も感じさせない。
柿枝改二総理は、官房長官や各省庁の次官たちが持ち込んでくる決裁書類に次々と目を通し、完璧な政治家としての指示を与え続けていた。
「総理、デジタル庁の次期インフラ予算ですが、伊豆封鎖措置に伴うネットワークの再編成費用として、一部を秘密裏に融通する目処が立ちました」
「ご苦労。スマートシティ一帯の通信遮断は、世間に火山性ガスの影響と信じ込ませるための最優先事項だ。手続きはすべて内閣官房の直轄で進めてくれ」
次官が恭しく一礼して退室する。重厚な扉が閉まると同時に、悠一は椅子の背もたれに深く体を預けた。
彼の網膜に装着された極薄のARグラスには、一般の官僚には決して見えない、警察庁警備局直属の鈴木諜報部長からの暗号化ステータスログがリアルタイムで投影されていた。
普段の泥臭い実務や追跡はすべて鈴木の部隊に丸投げしている。一国の総理の時間が有限である以上、報告データが弾き出す結果を精査し、大局の盤面を修正することこそが悠一の役割だった。
だが、そのARグラスの視界の端で、鈴木の監視AI網が捉えた世田谷の一角のトラフィックデータが、異常な明滅を始めていた。
『警告:ヘブンマスタサーバへの接続ブリッジルーティングが開始されました』
(やはり、里村の弟子たちはオーバーライドしていたか)
伊豆の海に沈んだはずの里村の弟子が仕掛けてきた反撃。ヘブンに囚われた者たちの意識を救い出すためのブリッジ実装パケットが、射出されていた。
悠一は、インドでの里村の最後のオーバーライドの解析結果から、バイタルゼロをトリガーとして発動する事は推測済みだ。何より自分自身がそうであったのだから。
あの凄惨な転落事故の瞬間、彼らは死と引き換えにリカバリプランを発動させ、肉体の死を以てその魂を新たな器へと滑り込ませたのだ。絶望的な制約の中で、それでも彼らは技術者としての意地を貫き、ヘブンの嘘を世界に暴露しようと諍っている。
(里村の弟子とはいえ、復讐計画の邪魔はこれ以上させない)
悠一は、スーツのポケットに隠したテンキーデバイスのキースイッチを叩き、鈴木の第一班へ「世田谷のパケット送信元へ突入し、身柄を確保せよ」との命令を確定させた。笹山の私兵より前に、国家の暗部として拉致に近い形で保護するためだ。
だが、その直後、悠一の網膜スクリーンで信じられない現象が起きた。
政府が国を挙げて張っていた、軍事級のリアルタイム検閲フィルタリング。それを、突如として外部から介入してきた正体不明の凄腕ハッカーが、跡形もなくねじ切ったのだ。
その未知のプログラムは、政府の防壁をあざ笑うかのように次々と突破し、世界各国のニュースサイトやSNSへ、里村の弟子が接触したジャーナリストによる『ヘブンの嘘』の告発記事を一瞬で拡散させてしまった。
「な……誰だ、このハッカーは!?」
悠一は思わず息を呑んだ。これほどの超絶的なクラッキング技術を持つ人間が、この日本に、いや世界に何人いるというのか。悠一の技術者としての本能が、その洗練され尽くした、どこか悪魔的なコードの筆跡に強い警鐘を鳴らしていた。だが、遠隔からの断片的なログだけでは、それが誰なのかまでは特定できない。
(里村が、生前に海外のハッカー集団へ仕込んでおいたデッドマンズ・スイッチか何かか……?)
ただ、悠一にとって重要だったのは、そのハッカーの介入によって世田谷の物理座標が特定されたという結果だった。
ARグラスに、鈴木からの緊急音声報告が届く。
『総理、第一班が世田谷のアジトへの突入を完了。対象02と思われる子どもおよびジャーナリストの勝又萌子を拘束しました。……なお、並行して実施したハッカーのアジトへの第三班の突入ですが、ターゲットは既に逃亡しており、もぬけの殻でした』
「分かった。ハッカーの追跡は警視庁のサイバー課に回せ。02は、直ちにヘブン移行センターの最下層へ運べ」
悠一は冷徹に告げた。謎のハッカーを取り逃がしたのは誤算だが、まずは02の身柄を確保できた。それだけで十分だった。
だが、安堵の時間は一瞬だった。悠一のARグラスに、長泉総合病院へ突入させていた第二班からの緊急報告が飛び込んできた。
『総理、第二班です。病院内をくまなく捜索しましたが、対象01および03の身柄は発見できませんでした。病院長である長泉良朗が、突入直前に彼らを病院の最深部へ隠匿した模様です』
悠一は眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
(良朗め、やはり天見たちを匿っていたか)
『01らの正確な潜伏場所は未だ不明ですが、身を挺して捜索を妨害した長泉良朗の身柄を確保しました。居場所を吐かせるための重要参考人、および今後の交渉における人質として、これより官邸地下へ連行します』
「いや、ヘブン移行センターへ運べ。私の直轄で処理する」
悠一は冷徹に通信を切った。長泉良朗が天見たちを逃がしきってくれたのは、彼らの保護という観点からはむしろ好都合だった。だが、代わりに長泉良朗自身が国家反逆の牙城に囚われる身となってしまった。
深夜、すべての公務と記者会見の対応を終えた悠一は、官邸から車を出し、ヘブン移行センターへ向かった。
鈴木部長による、02からのデータ抽出シークエンス。鈴木たちの狙いは、柚木の記憶領域に眠るはずの『ホムンクルスの設計ドキュメント』だった。鈴木が強制抽出のボタンを押し、巨大なモニターにデータが展開されていく。
だが、悠一のARグラスに転送されてきたその結果を見た瞬間、悠一は移動中の車内で、微かに笑った。
画面を埋め尽くしていたのは、生命科学の機密データなどでは断じてなかった。溝落としで峠を攻める旧時代の車、首都高を悪魔のように疾走する、時代がかったマシンの咆咆――それは、数千冊に及ぶ『レトロな車系コミック』の電子データだった。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。




