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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第七章 愚かな豚と鉄壁の逃亡

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第二十六話 狂いゆく計画

 総理大臣執務室の空気は、常に目に見えない緊張感で張り詰めている。国会答弁の進捗、外交ルートの調整、各省庁からのレクチャー――分刻みで押し寄せる激務の波を、柿枝改二総理は見事な手際でさばき続けていた。


「総理、次回の経済財政諮問会議の提出資料ですが、こちらの修正案でよろしいでしょうか」

「ええ、問題ありません。ただ、地方創生に関する文言は、もう少し具体性を持たせた方が官房長官も動きやすいでしょう。そのように調整を」


 有能で誠実な若き最高権力者。その改二の仮面を被った悠一の指示に、秘書官は深く一礼して退室していく。重厚な扉が閉まり、一時的な静寂が訪れる。


 悠一はデスクの後ろの背もたれに体を預け、眼鏡のブリッジを軽く押し上げた。一見すれば洗練されたデザインのブルーライトカット眼鏡。だがその実態は、網膜に直接秘匿データを投影する特注のARグラスだ。

 そして、広大な執務机の片隅には、ごくありふれた実務用の電卓のようなテンキーデバイスが置かれている。官僚や秘書官の目には、総理が数字を試算するために使うただの事務用品にしか見えない。しかし、そのすべてのキーには悠一の手によって特殊なマクロが登録されており、叩くキーの組み合わせと打鍵の長さによって、国家の検閲網やインフラ制御システムへ瞬時に緊急コマンドを射出できる、彼専用の物理兵器だった。

 さらに、部屋の観葉植物の陰には、その存在を誰にも気づかれないよう巧妙にカスタマイズされた高感度スマートスピーカーが埋め込まれている。これには特殊なウェイクアップワードと音声コマンドが仕込まれていた。


「そういえば、鈴木からの定期報告の時間が遅れているな」


 悠一が何気なく呟いた「そういえば」という言葉。それは、この部屋に設置された隠しスピーカーを起動させるためのウェイクアップワードだった。勘の良い人間がこの部屋にいれば、日常の会話としてはいささか不自然なフレーズの繋ぎ方に微かな違和感を覚えるかもしれない。だが、政治家特有の独り言、あるいは思考の揺らぎとして処理されれば、鈍い人間には絶対に気づかれない。


 悠一の発声と同時に、ARグラスの網膜スクリーンに、警察庁警備局の鈴木諜報部長から送られてきたばかりの暗号化パケットログが静かに展開された。

 普段の泥臭い監視や追跡といった実務はすべて鈴木の部隊に丸投げしてあるが、その監視AIの網が、インドのバンガロールで里村清一の命を奪った凄惨な事故の裏側の音声ログをデコードし、悠一のグラスへと最優先で送り届けてきたのだ。


『笹山くん。君がこれからの新しい日本サイバトロニクスをCEOとして完全に率いるつもりなら、あの頑固な里村清一が邪魔だろう? 私の飼い犬を貸してやってもいいぞ』

『高井戸先生がそこまで仰るなら……ええ、お願いしますよ。あの男には、私の描く思想の美しさが理解できないようですから』


 聞こえてきたのは、第三の派閥の重鎮・高井戸の狡猾な囁きと、それに乗せられた笹山智行の浅はかな声だった。


「……あの豚どもが」


 悠一は机の下で拳を硬く握りしめた。里村を殺したのは、巨大な国家の意志などではなかった。高井戸の姑息な嫌がらせと、智行のちっぽけな猜疑心。そんな醜悪な欲の連鎖が、自分にとって最高の相棒であった男の命を奪ったのだ。


 激しい怒りが胸の奥で沸騰しかけたその時、ARグラスの画面に次なる緊急アラートが走る。東雲の日本サイバトロニクス研究所から、天見を連れて柚木と佐伯美桜が脱出したという報告。そして、柚木が自ら「不老不死の設計書は俺の手元にある」という挑発メッセージを笹山へ送り、囮となって都心から西へ向けて爆走しているというログだった。


(柚木、自ら囮になったな……。天見たちを逃がすために)


 悠一は即座にデスクの上のテンキーデバイスに右手を伸ばした。電卓を叩くような自然な動作で、特定のキーを素早く、深くブラインドタッチする。

 ARグラスの視界が切り替わり、前線を追走する鈴木の部隊の車載カメラが捉えたリアルタイムの映像が網膜に投影された。深夜の東名高速、激しいノイズの向こうでヘッドライトの光に浮かび上がっているのは、猛然と突き進む深紅のフルミネGTの残像。そして、その鈴木の追跡網を強引に割り込み、牙を剥いてフルミネGTへと肉薄していく笹山の手下たちの車両が映し出されていた。


 鈴木の部隊に天見たちを無事に確保させ、同時に囮となった柚木たちを笹山の私兵から引き離さねばならない。悠一は追っ手の進行ルート上の交通インフラをハックし、車線制御や電光掲示板の操作によって、笹山の手下の車両だけをピンポイントで足止めしようと、テンキーへ鋭くコマンドを叩き込んだ。


 だが――悠一の放った介入パケットは、フルミネGTの周囲で猛烈に渦巻く見えない壁に無残にも弾き返された。


「チッ……弟子の防壁か」


 それは、セオリーを完全に無視し、論理の欠落を圧倒的な処理量で埋め尽くす、里村の弟子たちによる異端のファイアウォールだった。

 彼らは、自分たちを助けようとする見えない味方の存在など知らない。恩師の遺産を守るため、敵味方の区別なく外部からのあらゆるアクセスを拒絶し、遮二無二にゴーストパケットを撒き散らし続けているのだ。


 鈴木の部隊の車載カメラは、フルミネGTと笹山の手下たちの車両を完全に見失った。悠一は、歯がゆい思いながらキーをタッチする。ARグラスの視界が切り替わり、網膜に投影されたのは現場の映像ではなく、警察庁が管轄する高精細な広域交通GIS(地理情報システム)のデジタルマップだった。


 伊豆・国道一三五号線。そこを南下するフルミネGTの現在位置は、彼らが撒き散らす狂気的なゴーストパケットのせいで、激しいノイズに塗れ、マップ上の光点は数秒おきに明滅とワープを繰り返している。だが、ルート上に設置されたNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の通過記録と、ETC2.0のプローブデータが、断片的ながらも確実に逃亡者たちの走行軌跡を割り出していた。


 悠一がその執念の防壁に手を焼いている、そのわずかな死角を突き、最悪のバグが画面に侵入した。広域インフラの信号制御システムに、見覚えのある暴力的なコードが突き刺さる。

 インドで里村を殺したあの天才ハッカーにして殺し屋リー・キングストン。かつて笹山巌が裏社会で飼い慣らしていた男を、高井戸が自身の新たな手駒として買い取っていたのだ。奴は、すでに伊豆の海岸線に先回りし、制御システムを掌握していた。


 リーの悪魔的なハッキングは、フルミネGTのカーナビゲーション・システムにまで及んでいたに違いない。

 一本道であるにもかかわらず、交差点へ向かう彼らの速度データは異常な上昇を続けている。リーが偽の音声で誘導し、さらに交差点の信号を絶妙なタイミングで次々と青へ書き換えることで、彼らに一切の疑念とブレーキを踏ませる隙を与えずに加速させているのだ。


「やめろ!」


 悠一はテンキーのキースイッチを激しく叩き、交差点の信号を強制的に赤へ書き換えるキルコードを流し込もうとした。しかし、リーの奇跡の同期は、遠隔から介入する悠一のコンマ数秒の遅滞すら計算に織り込んでいた。


 突如、コンソールに漆黒のエラーログが弾け飛ぶ。リーの手によって、交差点の通信ハブそのものが物理的な過負荷で焼き切られ、外部からの通信が完全に遮断されたのだ。


 もはや悠一にできることは、無機質なマップ上のデータの動きを見つめることだけだった。ETCとNシステムが弾き出したフルミネGTの予測軌道が、新造された交差点へと進入していく。

 次の瞬間、交差点の側道から、ITS(高度道路交通システム)に一切登録されていない巨大な質量データ――信号を完全に無視した大型トラックの影が猛然と現れ、寸分の狂いもなくフルミネGTの光点と激突した。


 ガァンッ、と悠一の脳内で、鳴るはずのない幻の破砕音が響いた。


 マップ上で重なり合っていた二つの光点のうち、フルミネGTを示す光が、国道のアスファルトを外れ、崖を示す等高線を越えて、相模湾の暗い海の上へと大きく弾き飛ばされた軌跡を描いた。


 そして、海面に達した後……。


 激しくノイズを放っていた弟子の防壁が、モニターからフッと消滅した。車の完全な水没と、電源の喪失。その車両データの消失が、彼らの死を何よりも残酷に物語っていた。


「あ、ああ……」


 胸の奥を鋭い刃で抉られたような絶望と自己嫌悪が悠一を襲う。だが、この凄惨な事故を笹山や世間に嗅ぎつけられ、彼らが命を懸けて守ろうとした『クローン』の秘密まで暴かれるわけにはいかない。


 悠一は血の気の引いた指先を、デスクの上のテンキーデバイスへと戻した。最上段にある、最も重い処理を割り当てたショートカットキーに指を添える。


(本来なら、特権階級の移住がすべて完了した後に発動させる手筈だったが……予定を少し早めるしかあるまい。このバグを完全に覆い隠すためにはな)


 大室山と天城山を同時に人工連動爆発させ、周辺一帯に火山性ガスが充満したという名目で伊豆半島一帯を完全に封鎖する。一般人を物理的にシャットアウトし、選ばれた権力者たちだけの広大な『天国』という名の楽園を現実世界から隔離するための、国家規模の疑似災害計画。

 悠一は奥歯を噛み締め、特定のキーを素早く、深くブラインドタッチした。


「……伊豆スマートシティ、地熱プラントの安全弁を強制解放。災害偽装シークエンス、前倒しで実行」


 数分後、伊豆の山塊で凄まじい轟音と共に巨大な水蒸気爆発が発生した。立ち上る圧倒的な白煙と地鳴りが周辺一帯を完全なパニックへと陥れ、世間の目は一瞬にして伊豆の自然災害へと釘付けになる。火山性ガスの脅威を騙った大規模な封鎖措置が矢継ぎ早に決定され、誰の目にも触れない絶対の禁足地へと隔離される。


 画面の向こうで進行する、自らが生み出した巨大な混沌。その漆黒のデータを網膜のARグラスで見つめていた悠一の顔からは、完全に血の気が失せていた。


 その時、重厚な執務室の扉が静かに開き、一人の秘書官が足早に入室してきた。


「総理、伊豆一帯で大規模な水蒸気爆発が発生したとの緊急速報が――」


 そこまで言いかけて、秘書官の言葉がピタリと止まった。

 デスクの後ろで立ち尽くす総理の顔が、見たこともないほど真っ青に、幽霊のように青ざめていたからだ。あまりの異様さに、秘書官は息を呑んで尋ねた。


「そ、総理? どうかなさいましたか? お顔色が……」


 その声に、悠一の意識が現実へと強制的に引き戻される。


 悠一は震えそうになる右手を無理やり動かし、ブルーライトカット眼鏡――網膜スクリーンを隠したARグラスのブリッジを強く押し込んだ。歪みかけた視界を、強靭な精神力で改二の仮面へと強制的に仕立て直す。コンマ数秒の遅滞の後、彼はいつもの聡明で穏やかな声音を執務室に響かせた。


「いや、なんでもない。……なんでもないんだ。少し、目眩がしただけだよ」


 何事もなかったかのように微笑む総理の姿に、秘書官は微かな違和感を覚えながらも、それ以上深く踏み込むことはできなかった。


「さ、災害対策本部の設置要請を。至急、内閣府と連絡を繋いでくれ」

「ハッ、直ちに!」


 秘書官が慌ただしく退室していく。再び訪れた静寂の中、悠一は眼鏡を外し、計画の変更を余儀なくされた苦い焦燥感を胸の奥へ押し込み、デスクに手をついた。


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