第二十五話 深淵の侵蝕
鳴り止まないフラッシュの嵐と、鼓膜を震わせるほどの地鳴りのような拍手。
真新しいヘブン処理センターのカンファレンスホールに設けられた特設ステージは、国内外から集まった数百名もの報道陣と、世界各国の政財界の要人たちで埋め尽くされていた。ステージの中央、国旗と大柄な青い地球のシンボルマークを背負って壇上に立ったのは、第百八代内閣総理大臣・柿枝改二だった。
仕立ての良いチャコールグレーの最高級スーツを着こなし、一点の曇りもない爽やかな、それでいて威厳に満ちた聖人の微笑みを浮かべる。その端正な弟の顔は、テレビの生中継やインターネットの同時配信を通じて、瞬時に世界中の何十億という人々へと届けられていた。
「――私たちが迎える未来は、病苦や老い、そして理不尽な死という、人類が数千年にわたり克服できなかった最大の絶望からの完全な解放です」
悠一がマイクに向かって発した声は、信じられないほど深く、優しく、そして聴衆の心を鼓動させる確信に満ちていた。それは永田町の薄汚い権力闘争を勝ち抜き、ついに国家の頂点へ登り詰めた若き指導者の、まさに新世紀を告げる福音だった。
「我が国が総力を挙げて推進する国家プロジェクト『ヘブン』。それは、単なる仮想空間の提供ではありません。認知症、不治の病、肉体的な障害、それらすべての苦痛から解放された精神が、永遠の調和と幸福の中で共生する、人類史上最大の救済の箱舟なのです」
悠一が言葉を区切るたびに、会場には割れんばかりの拍手が巻き起こった。
誰もが、この若き総理が掲げる壮大で、あまりにも綺麗ごとに満ちた理想の世界に酔いしれていた。貧困もなく、格差もなく、すべての人間が平等に死を克服し、美しい精神の世界で永遠にまどろむ。
発表されたドキュメントの表層に踊る言葉は、どこまでも人道的で、優美で、世界中の市井の民が涙を流して歓迎するにふさわしい聖書そのものだった。
ステージの最前列には、この計画の最高責任者として、胸を張り、カメラに向かって得意げに手を振る笹山智行の姿があった。
笹山智行は、自らの卓越した知性が閃いた『ヘブン構想』が、ついに国家を、そして世界を動かす壮大な現実になったのだと確信し、全能感の絶頂に酔いしれている。隣に座る父親の茂治もまた、このプロジェクトを足がかりに、笹山一族が世界の王として永遠の覇権を握る未来を疑っていなかった。
「この箱舟に、国境も人種も関係ありません。すべての国民が現実の重荷を下ろし、等しく永遠の安らぎを得る。そのための第一歩が、今、ここから始まります」
悠一は、カメラのレンズを真っ直ぐに見据え、世界中の国民へ向けて、両手を広げて慈愛に満ちた微笑みを贈った。その光景は、歴史に永遠に刻まれるべき聖人の誕生そのものだった。
しかし、その目も眩むような光の裏側、一般の国民には絶対に開示されない極秘仕様書の中には、為政者と特権階級のためだけに用意された、極悪極まる真のグランドデザインが息を潜めていた。
演説を終え、拍手の嵐の中を泰然とした歩調で退場した悠一は、首相官邸の総理大臣執務室へと戻っていた。
重厚な扉を閉め、外界の喧騒を完全にシャットアウトした瞬間、改二の顔から聖人の微笑みが、システムを物理シャットダウンするように跡形もなく消え失せた。後に残ったのは、すべてを凍りつかせる絶対零度の、復讐鬼の瞳だった。
悠一はデスクのコンソールに向かい、智行や笹山一族、そして世界各国の出資者たちと共有しているヘブン構想の裏ディレクトリを開いた。
一般向けの発表では、「すべての人間が現実の重荷を下ろす」と美しく表現されていた。だが、その冷徹なシステム論が意味する真実は、まったく異なる。国民全員の意識をデータ化し、仮想空間へと強制移住させる。肉体が不要となった国民が眠り続ける間、彼らが現実に所有していた不動産、有価証券、貯蓄、さらには基本的人権に至るまでのすべてを、国家、ひいてはシステムを管理する運営母体が合法的に管理・接収するスキーム。それが、この計画の本質だった。
さらに、仕様書の奥深くには、一般国民向けのシステムにはあえて実装されていない重大な空白が存在していた。人間の精神を現実世界の延長として健全に保つための生活コンポーネントや、自由な意思決定のディレクトリ。それらは一般国民のデータ領域からはすべて削ぎ落とされ、ただ運営側にとって都合の良い、一切の反抗を行わない休眠リソースとして固定される。
では、その国民全員から搾取した、国家予算を遥かに凌駕する天文学的な富と現実の資産は、一体どこへ流れるのか。答えは、仕様書の別ディレクトリに完璧な論理で記述されていた。
システムの外側、すなわち現実世界に残り続ける一部の特権階級。彼らが、国民から吸い上げられた無限の富を独占し、現実世界における楽園を築き上げるための原資となるのだ。病も老いも克服するための最新のバイオテクノロジー、地球上のあらゆる美味と贅沢を集約した特区。そこは、法律すらも彼らの都合に合わせて書き換えられる、神々の領域。
愚民には永遠に目覚めぬ安価な仮想の夢を分け与え、選ばれた者たちだけで現実の地球のすべてを文字通り貪り尽くす。為政者にとって、これほど甘美で、これほど都合の良い人類補完スキームは存在しなかった。
だからこそ、世界中の権力者や、強欲な多国籍企業のトップたちは、笹山智行の提示したこの計画に狂喜乱舞し、我先にと莫大な資金を投じてこの箱舟の一等客室のチケットを買い求めたのだ。彼らは、自分たちが永遠の捕食者として、人類の頂点に君臨し続ける未来を確信していた。
悠一は、モニターに映し出される、世界各国のVIPたちからの巨額の出資承認ログと、智行の名前で次々と決済されていく国家予算の執行データを、冷徹に見つめていた。
笹山茂治も智行も、そして彼らに群がる特権階級の豚どもも、自分たちがこの世の春を謳歌していると信じて疑っていない。改二という神輿を都合よく使い、国民からすべてを合法的に搾取するシステムを手に入れたと、狂ったようにシャンパンをあけ、夜な夜な祝杯を挙げている。
だが、彼らは致命的なバグを見落としている。
この悪魔の計画を、インドの知人を経由して智行の頭へ入れ知恵したのが誰であるか。
特権階級だけが現実の富を独占する天国のような生活が送れるコンセプトを提示し、彼らを物理的に一つの隔離された特区へと集約するように仕向けたのが、誰であるか。
「そうだ。大いに喜び、貪り、一箇所に集まるがいい」
悠一は、弟の顔をした冷酷な唇から、絶対零度の呟きを漏らした。
豚どもを広い世界から探し出して一人ずつ屠殺するのは手間がかかる。だからこそ、彼らが自ら望んで、全財産を投じて飛び込んでくるような、最高に贅沢で、最高に頑丈な檻を用意してやったのだ。
世界中の権力者がその天国に集まり、油断しきって国民からの搾取に溺れたその瞬間。悠一が最高権力者の指先で、ただ一つの『物理フォーマット』のコマンドを実行すれば、彼らは一族郎党、誰一人逃げることもできず、その豪華なオーブンの世界で跡形もなく焼き尽くされることになる。
笹山智行が自分の発案として電子署名を刻み込んだあの実行計画書は、すでに悠一のサーバの最深部に、デジタルタトゥーとして保管されている。彼らがどれほど醜い欺瞞で世界を支配しようとしたかを示す、言い逃れのできない不滅の証拠。
「お前たちが作り上げたつもりのその箱舟は……お前たち全員の墓標だ」
悠一は静かにモニターを消灯し、再び、暗闇の執務室の窓から永田町の夜景を見下ろした。
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