第二十四話 零れ落ちる雫
笹山巌という巨星が消滅した永田町。世間の目には、五年前の事件で実質的に崩壊した柿枝家の生き残りである若き総理・改二を、名門・笹山一族が強固な政治基盤で献身的に支え、そして操っているように映っていた。
事実、現在の政界は与党内で笹山派と高井戸派の二大派閥に分かたれていたが、その力関係は最大派閥の笹山が殆どを牛耳っており、高井戸派はもはや正面から抗う力を持たない弱小勢力に過ぎなかった。
しかし、政界の誰も口に出せない、いや、気づくことすらできない戦慄の事実がある。
現在の笹山派を操っているのは笹山茂治でも智行でもない。彼ら一族の致命的な弱みと首輪を完全に握り、派閥の全権を裏で掌握しているのは、他でもない傀儡であるはずの柿枝改二――悠一本人なのだ。
そんな悠一の圧倒的な支配体制の中、正面から挑めない高井戸派に残された手段は、水面下での陰湿な嫌がらせ程度しかなかった。
だが、悠一にとって致命的だったのは、その嫌がらせの矛先と、そこで使われた手駒の異常性だった。
深夜の首相官邸。外界から遮断されたコンソールルームの暗闇の中で、悠一は別ルートから収集した情報網のログを、血の通わない機械のような冷徹さで解析していた。
日本サイバトロニクスに立ちはだかったあの異形の防壁のせいで、システムの深部を直接覗き見ることができなくなったため、国際金融の資金移動や航空機の搭乗履歴、裏社会のトラフィックから間接的に盤面を把握するプロファイリングへと監視の手法を切り替えていたのだ。
世界中の膨大なデータパケットが滝のようにモニターを流れ落ちる中、悠一の鋭利な思考回路が、一つの致命的な異常値を検知した。
「……なんだ、この動きは」
悠一の指先がキーボードの上で止まる。
高井戸派が裏で運用している複数のダミー企業から、シンガポールを経由して巨額の暗号資産が動いた形跡があった。そして、その資金の着地点と全く同じタイミングで、一人の極めて危険な人物が、インドの国際空港の入国ゲートを通過したという生体認証の断片ログが浮かび上がったのだ。
男の名は、リー・キングストン。本名、李 金斯。
世界有数のハードウェア・ハブである深圳の電子デバイス会社の次男として生まれ、天才的なハッキングスキルと、戦場における常軌を逸した殺しの技術を併せ持つ最凶の狂犬だ。かつて笹山巌が裏社会で飼い慣らし、暗殺ランキングの圧倒的トップに君臨していた男。
悠一の顔が、凄惨な怒りに歪む。
笹山巌が孤独に死に、飼い主を失って宙に浮いていたその狂犬を、高井戸が莫大な資金で自身の新たな手駒として素早く買い取っていたのだ。
高井戸の狙いは火を見るより明らかだった。急速に権力を拡大する笹山派の重要利権である『ヘブン構想』への痛烈な嫌がらせ。インドのグラモハにいる中心的な研究者――里村清一を拉致することで、プロジェクトの進行に横槍を入れようとしているのだ。
高井戸にとっては、笹山派の鼻を明かすための単なる嫌がらせのつもりかもしれない。だが、放たれた手駒が悪すぎた。
「クソッ」
悠一は、コンソールの前でギリッと強く奥歯を噛み締めた。
原因は明確だった。あの鉄壁の防壁によって、監視を一時的に後退させざるを得なかった一瞬の死角。電子の海における情報遮断が、現実世界において致命的なバタフライ・エフェクトを引き起こしていた。自分の目の届かない隙を突いて、高井戸という老獪な豚が、悠一の盤面へと最悪の駒を進めてしまったのだ。
リーという男の真の恐ろしさは、単なる物理的な戦闘力ではない。ターゲットの周囲のインフラや制御システムを自らの手で直接ハックし、信号機や自動運転車を操作して、あたかも不運な事故であったかのように偽装する悪魔的な手腕。
純粋な研究者でしかない里村が、そんな天才ハッカーにして最強の殺し屋に狙われれば、生存確率は限りなくゼロに近い。
(高井戸! 俺が十年の歳月をかけて組み上げた復讐のシナリオに、つまらない泥を塗ってくれたな。あの豚は、いずれ必ず俺の手で殺す)
悠一の氷のような瞳の奥に、高井戸とリーに対する絶対零度の殺意が燃え上がる。
自分が官邸で、里村をあえて冷酷に突き放したのは、彼をこの血塗られた永田町の泥沼から遠ざけるためだった。それなのに、自分の監視の網をすり抜けた理不尽な暴力が、今まさに後輩の命を刈り取ろうとしている。
しかし、今は暗闇の中で怒りに身を任せている猶予は一秒もなかった。ログのタイムスタンプを見る限り、リーはすでにインド国内へ潜入し、里村の身辺へと肉薄しているはずだ。事態は一刻を争う。
(……あいつを、死なせるわけにはいかない。絶対にだ)
悠一はネクタイを乱暴に緩めると、即座にキーボードへ両手を走らせた。
ターゲットは、インド現地の交通インフラ、監視カメラのネットワーク、そして都市の通信網。そのすべてを超高速でハッキングして完全に掌握し、遠く離れた日本の首相官邸から、殺し屋の牙から里村を救い出すための超遠隔防衛シークエンスを起動する。
モニターには、数千キロ離れたインドの巨大都市の交通インフラマップ、防犯カメラの映像グリッド、そして無数のターミナルウィンドウが展開され、目まぐるしい速度でコードが滝のように流れ落ちている。
悠一は、インドの合弁会社グラモハから滞在先へ向かう里村の車両をGPSと監視カメラのネットワークから特定し、その車載システムと周囲の交通インフラを保護するためのファイアウォールを展開しようとしていた。
だが、その電子の戦場には、すでに最凶の捕食者が君臨していた。
「速いっ! なんだ、この異常なトラフィックは!」
悠一の構築した防衛コードが、展開した端から紙屑のように食い破られていく。
この天才ハッカーの技術は、悠一が想定していたサイバー攻撃の次元を遥かに凌駕していた。
悠一がシステム全体のアーキテクチャを美しく構築・支配する神であるならば、この天才ハッカーは現場の物理デバイスと通信網の隙間を暴力的な速度で駆け抜け、破壊する悪魔だった。ソフトウェアの脆弱性だけでなく、信号機や配電盤のハードウェアレベルのゼロデイ(未発見の欠陥)を直接突き、物理法則すらもハッキングの武器としていた。
モニターの右上で、里村の乗る自動運転車のルート上にある信号機が、次々と異常なパターンで明滅を始める。ハッカーが、周囲の一般車両を巧みに誘導し、里村の車を特定の交差点――死角となる巨大な十字路へと完全に隔離しようとしているのだ。
さらに悠一は、視界の隅に流れる車両のパケットログを解析し、背筋が凍りつくような悪意の正体に気がついた。
ハッカーは、里村の車のカーナビゲーション・システムをハックし、その音声を完全に偽装していた。「最短ルートでご案内します」というシステム音声を利用して、里村自身に一切の疑念を抱かせることなく、死の交差点へと真っ直ぐに誘導している。そして、彼にブレーキを踏ませないよう、進行方向の信号だけを不自然なまでに次々と青へと書き換えていたのだ。
(させるか! 絶対に、死なせはしない!)
悠一は奥歯が砕けるほど噛み締め、左手のコントローラーを弾き飛ばす勢いで叩いた。
偽装されたナビ音声を強制停止させ、里村の車両の制御権を奪い返して急ブレーキのコマンドを強制的に叩き込む。同時に、交差点の信号をすべて赤に書き換え、物理的なトラフィックを強制停止させようとした。
だが、その瞬間。悠一のコンソールに、嘲笑うかのように漆黒のドクロを模したエラーログがポップアップした。
「な……!?」
奇跡の同期。ハッカーは、悠一が制御権を奪い返すそのコンマ数秒のタイムラグすらも計算に入れ、すでに交差点の通信ハブそのものに物理的な過負荷を流し込んで焼き切っていた。
悠一の緊急停止コマンドは通信の切断された虚空へと消え去り、偽のナビ音声に導かれた里村の車は、一切減速することなく青信号の灯る交差点へと進入していく。
そして、悠一がハックした交差点の監視カメラの映像に、絶望的な質量が映り込んだ。
横の車線から、巨大なトラックが、ブレーキランプを一切点灯させることなく、猛烈な速度で交差点へと突入してくる。ハッカーによって完全に制御を奪われた、鉄と運動エネルギーの塊。
「やめろ! 止まれぇぇっ!!」
悠一は、声にならない絶叫を上げながら、無意味だと分かっていてもキーボードを叩き続けた。
だが、無情にも画面の中の時間は進む。
音のない粗い監視カメラの映像の中で、トラックの巨大なフロントグリルが、里村の乗るSUVの側面に、真横から激突した。
車体は一瞬にして原型を留めないほどにひしゃげ、火花を散らしながら交差点の反対側にあるコンクリートの壁へと激突し、完全に沈黙した。
――五年前。自身の車がトラックに跳ね飛ばされ、海へと沈んだあの夜。
――そして、両親が乗った車が、笹山の暗殺部隊によって無惨にスクラップにされたあの凄惨な事故。
まったく同じ、権力の暴力による理不尽な蹂躙。
フラッシュバックするトラウマが、悠一の脳髄を激しく殴りつける。肺から空気が搾り出され、心臓が凍りついたように止まった。
悠一は震える指で、大破した里村の車両の内部カメラへとアクセスを試みる。数秒のノイズの後、画面に映し出されたのは、ひしゃげたダッシュボードに挟まれ、全身を鮮血に染めた里村清一の姿だった。
致命傷だ。誰の目にも明らかだった。
だが、里村の瞳には、死への恐怖も、痛みによる絶望もなかった。
彼は血の海の中で、奇跡的に無事だったモバイルターミナルを自らの血濡れた指で操作し、最後の、そして最大のコードを打ち込もうとしていた。
(里村は……何を……?)
悠一は、里村が実行しようとしているプログラムのパケットを読み取り、息を呑んだ。
それは、ヘブン計画の悪意を無効化するためのドキュメント群。里村は、薄れゆく意識の中で、自身の記憶とこの巨大なドキュメントの全データを、遠く離れた日本の器へと、強制的にオーバーライドしようとしていた。
死の淵にあってなお、純粋な技術者としての使命を全うしようとする後輩の姿。悠一の目から、せき止められていた涙がボロボロと溢れ落ちた。
「行け。届け……っ!」
悠一は、インドの通信網と日本のサーバを繋ぐ極秘の暗号化トンネルを全力で構築し、里村の最期のデータ転送を、見えない場所から決死の思いでサポートした。ハッカーの追撃プログラムが迫る中、悠一は己の全知全霊をかけて防壁を展開し、その一筋の細い通信線を死守する。
転送レートが跳ね上がる。プログレスバーが勢いを増して伸びていく。
九十パーセント、九五パーセント、九九パーセント――。
だが、モニターに表示された結果は、非情な『アクセス拒否』のアラートだった。
器側が、里村の巨大なエゴの完全同期に耐え切れず、接続を強制遮断した。カメラの向こう側で、里村の指から力が抜け、ターミナルが血だまりの中へと滑り落ちる。
その顔には、無念さよりも、どこかやり遂げたような、微かな安堵の笑みが浮かんでいた。大きく一度息を吐き、静かに瞳を閉じる。生体反応の波形がフラットになり、里村清一という純粋で偉大な技術者の命が、永遠に失われた。
「ああ……ああぁぁぁぁぁっ!!」
防音されたコンソールルームの暗闇に、悠一の獣のような慟哭が響き渡った。デスクを殴りつけ、ディスプレイを叩き割り、それでも行き場のない凄絶な悲しみと、焼け焦げるような怒りが全身を支配する。
まただ。またしても、あの薄汚い政治家どもの果てしない強欲のせいで、自分にとって一番大切だったものが、理不尽な暴力で奪い去られてしまった。
両親の命を奪った笹山一族。そして今、自分の無二の親友であり、手放したくなかった光の世界の象徴である後輩を殺した、高井戸とその飼い犬ハッカー。
(殺す……。必ず、一人残らず、俺がこの手で肉片すら残さず消し去ってやる!)
悠一の血走った瞳の奥で、復讐の炎が、かつてないほどの絶対零度の漆黒へと変異していく。悠一は血の滲んだ拳を開き、深く、冷たい深呼吸を繰り返した。荒れ狂う感情を、再び分厚い氷の底へと強制的に封じ込める。
計画の修正が必要だ。
政治の泥沼の奥底から一切の理不尽を排除する、もっとも冷酷で残酷な影の守護者となる。若き総理・柿枝改二の顔を再び被り、悠一はコンソールルームの重厚な扉を開けた。
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