第二十三話 異端の盾
数日後の深夜の首相官邸。
豪奢なシャンデリアが照らす総理大臣執務室のドアの前で、その男は深く、丁寧な一礼をした。
「総理、本日は遅くまでお疲れ様でした。明日の予算委員会も、どうかよろしくお願いいたします」
「ええ、お疲れ様。夜遅くまでありがとう。気をつけて帰ってくださいね」
秘書官の退室を見送るその顔には、一点の曇りもない、温和で誠実な若き指導者の微笑みが張り付いたままだった。誰からも愛され、誰からも警戒されない、純白の弟『柿枝改二』の顔。
しかし、重厚な扉がカチャリと音を立てて完全に閉まり、電子ロックが掛かったその瞬間。まるで電源ケーブルを乱暴に引き抜かれたかのように、その顔から一切の感情と体温が消失した。後に残ったのは、氷のように冷たく、底知れぬ漆黒の殺意を宿した『柿枝悠一』の絶対零度の瞳だけだった。
悠一は、洗面室の鏡の前に立ち、冷水で顔を洗う。水滴の滴る自分の顔――いや、自分がいま被っている弟の皮を見つめ返した。
(今日も一日、よく出来た『改二』だったな)
自嘲気味に内心で吐き捨てる。政界の豚どもと握手を交わし、へつらいを受け、聖人のように振る舞うたび、弟の純粋な魂を泥で汚しているような耐え難い自己嫌悪が込み上げてくる。だが、この仮面があるからこそ、誰も彼の中身が、復讐のために地獄から蘇った怨霊であることに気づかない。
悠一はタオルで顔を拭うと、ネクタイを引き剥がし、執務室の奥に隠された秘密のコンソールルームへと足を踏み入れた。そこは、総理大臣という表舞台の空間とは完全に物理遮断された、悠一という技術者の本来の居場所だった。
外界の光を遮断した暗闇の中、青白い複数のモニターの光だけが彼を照らす。悠一はデスクの前に座ると、使い慣れたキーボードに右手を添え、左手を特殊なショートカットデバイスとオートメーションコントローラーの上へと置いた。物理的な打鍵のストロークすら極限まで削ぎ落とし、最小の動作で複雑なマクロとハッキングスクリプトを並列起動させるための、彼専用の武装だ。
(さて……後輩殿の動向を見せてもらおうか)
悠一の目的は、ヘブン構想に反発してインドの合弁会社『グラモハ』へと旅立った里村清一の監視と、彼らが進めているはずの不老不死ドキュメントの進捗状況を裏回線から把握することだった。
里村はかつて、日本サイバトロニクスで自分の背中を追いかけていた優秀な後輩であり、最高の相棒だった男だ。奴のことだ、ヘブンの欺瞞に気づけば、必ず独自の対抗策をコードに仕込もうとする。
悠一は自らの身元――総理大臣であること、そして死んだはずの柿枝悠一の亡霊であることを完全に隠蔽するため、何重にも偽装を施した外部からのクラッキングという極めて難度の高い迂回ルートを選択してシステムへの潜入を試みた。かつて自分がゼロからアーキテクチャを設計したシステムである。外部から構造の隙間を突いて最深部のディレクトリへ到達することなど、息をするよりも容易いハズだった。
悠一の指先が滑るように動き、自動化されたクラッキングコードが滝のようにモニターを流れ落ちる。
だが――侵入スクリプトが深層のディレクトリへ到達しようとしたその瞬間。
警告音とともに、コンソールの画面に無数の赤いエラーログが激しく弾け飛んだ。
「なんだ、これは」
悠一は眉をひそめ、タイピングの手を止めた。
彼が把握していたはずのシステムの脆弱性が、完全に修正されている。それだけではない。メインサーバへのアクセス経路には、見たこともないような異様なファイアウォールが幾重にも張り巡らされていたのだ。
悠一は即座にクラッキングのアルゴリズムを切り替え、論理的な隙間を突く侵入を試みる。しかし、防壁はそれを予期していたかのように、悠一の放ったコードを力技で弾き返してきた。
そのセキュリティの布陣を解析した悠一は、思わず息を呑んだ。それは、決して洗練されたものではなかった。
セキュリティ屋の定石から大きく外れ、論理の欠落を圧倒的な処理量と泥臭いパッチの連続で無理やり繋ぎ合わせた、まるで継ぎ接ぎだらけの異形の怪物だった。しかし、その泥臭さゆえに予測が不可能なのだ。どんなに鋭利なハッキングツールを突き立てても、その泥の壁に吸収され、無力化されてしまう。
(誰だ、こんな狂ったファイアウォールを設置したのは……?)
里村はすでにインドへ渡っている。それに、あの完璧主義の後輩が、こんな美しくない力技のコードを書くはずがない。
ならば、日本に残された、里村の部下たちか。
(柚木か? いや、奴のコードはもっと行儀が良い。だとしたら、あの佐伯か? だが彼女は生体認証や細胞学の専門で、ネットワークの素人のはずだ……)
悠一の脳内で、幾つもの仮説が浮かんでは消えた。モニター越しのコードの筆跡だけでは、その見えない守護者の正体を特定することは不可能だった。
「チッ……」
悠一が左手のデバイスで新たな突破用マクロを走らせようとしたその時、モニターの隅で逆探知のトラッキングアラートが激しく点滅を始めた。
防壁はただ攻撃を防ぐだけでなく、侵入者のIPを特定し、物理回線まで逆探知しようとする極めて攻撃的なカウンタープロトコルを内包していたのだ。
(これ以上踏み込めば、官邸の裏回線が露出する!)
自身が内閣総理大臣であるという立場上、万が一にもハッキングの出所が掴まれるわけにはいかない。笹山一族を根絶やしにする巨大な盤面を、こんなところでひっくり返すわけにはいかなかった。
悠一は、ギリッと奥歯を噛み締めると、左手のコントローラーのショートカットキーを強く叩き、日本サイバトロニクスへの接続を強制的に切断した。
ファンの排熱音だけが響く暗闇の執務室で、悠一は忌々しげに真っ暗になったモニターを睨みつけた。盤面を完全にコントロールしているはずだった彼の瞳に、微かな焦燥が浮かぶ。
(あの泥臭い防壁のせいで……里村たちの動向が、完全に掴めなくなった)
正体を完全に隠蔽した外部からのハッキングという手段を選んだがゆえに生じた死角。
悠一が逆探知を恐れて監視網を後退させざるを得なかったこの一瞬の暗闇。永田町で第三の派閥である高井戸などが不穏な動きを見せ始めている中、この情報の遮断がどれほど致命的な事態を招くか、悠一の冷徹な計算回路が激しく警鐘を鳴らしていた。
仮面を被り、絶対的な権力とシステムを手に入れたはずの悠一。しかし彼が直面したのは、かつての仲間たちが遺された場所を守ろうとする執念という、論理では測れない生身の防壁だった。
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