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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第六章 奇跡の同期と残酷な決別

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第二十二話 親友との別れ

 首相官邸、総理大臣執務室。

 かつて日本の正義と法を象徴したその最上階の部屋は、いまや外界から一切の光を遮断され、重苦しい静寂と冷徹な権力の気配に満ちていた。


 デスクの後ろに掛けられた大きな日本の白地図。その前に佇むのは、若くして最高権力の座へと登り詰めた内閣総理大臣・柿枝改二だ。

 仕立ての良い漆黒のスーツを纏い、髪を端正に整えた彼の姿には、永田町を完全に掌握した者にしか許されない、底知れぬ凄みが宿っていた。


 だが、その静寂は、重厚なマホガニーの扉が激しく開け放たれたことでブツリと引き千切られた。


 入ってきたのは、数年間のインド滞在を経て、緊急帰国したばかりの日本サイバトロニクス代表取締役副社長兼COO――里村清一だった。かつての端正な研究者らしい面影はどこへやら、衣服は乱れ、肩を激しく上下させている。その瞳には、かつてないほどの激しい怒りと、引き裂かれそうなほどの悲痛な焦燥が渦巻いていた。


「目を覚ましてくれ、改二君! 柿枝先輩が遺したシステムを、永遠の檻に使う気か!」


 里村の悲痛な叫びが、広大な執務室の壁にぶつかり、虚しく響き渡る。

 政府が極秘裏に推進し始めた『ヘブン構想』。その根幹コードに、人間の精神を健全に保つための生活コンポーネントが一切実装されていないという致命的な不具合――いや、意図的な悪意を、里村の天才的な知性は一瞬で見抜いていた。


 だが、弟の皮を被った悠一はピクリとも眉を動かさなかった。


 振り返ったその顔には、五年間、永田町の泥沼を這いずり回りながら作り上げてきた無能で傲慢な政治家の仮面が、一ミリの隙もなく張り付けられていた。

 悠一は、まるで厄介なクレーマーをあしらうかのような、冷淡で事務的な声を鼓膜へと届けた。


「国策をご理解いただきたい、里村博士。これは笹山官房長官と日本サイバトロニクスの次期CEOに内定している笹山智行さんの決定であり、国民を救うためのシステムです。……それに、あなた方が研究しているあの『クローン』の技術が完成すれば、いずれ彼らに新しい肉体を提供することも……」


 言い終えた瞬間、悠一の脳内の論理回路が、激しく火花を散らした。


(しまった!)


 悠一は、内心で微かに、しかし痛烈に舌打ちをした。

 政治家・柿枝改二として振る舞うならば、笹山智行が自身の最高の発明として誇らしげに提唱している『ホムンクルス』という言葉を、敬意を込めて使わねばならなかった。それがこの盤面における正解だ。

 なのに、かつて寝食を忘れて共にコードを書き換えた最高の相棒の顔を目の当たりにしたせいで、脳の最深部に封印していた柿枝悠一としての言葉が、無意識に口を突いて出てしまったのだ。


 悠一は表情一つ変えずに完璧なポーカーフェイスを維持し、内心の動揺を隠蔽した。

 しかし、里村という男は、悠一が誰よりもその優秀さを認めたエンジニアだ。その一瞬のバグ、僅かな言葉の揺らぎを、里村の鋭い知覚は決して見逃さなかった。


「クローン?」


 里村は呆然と呟いた。その瞳が、驚愕に見開かれる。


――無理もない、と里村はどこかで思っていた。


 五年前、柿枝一族は笹山の手によって事実上、根絶やしにされた。両親は廃人に追い込まれ、天才だった兄・悠一は海に消えた。唯一生き残った、温室育ちで心優しかった次男の改二が、一族を消し去った巨大な怪物・笹山巌に抗えるはずなどなかったのだ。

 逆らえば殺される。生き残るため、そして柿枝の名を繋ぐためには、仇である笹山に媚びを売り、その犬となって『ヘブン』を盲信する従属の道を歩むしかなかった。


 それは傍から見れば、あまりにも痛ましく、しかし生きるためには仕方のない選択として誰もが納得する現実だった。里村もまた、そんな改二に深い同情と、それ以上のやりきれない絶望を抱いてこの部屋に来たのだ。


 だからこそ、今の言葉が、里村の脳髄を強烈に殴りつけた。

 笹山に魂まで買い叩かれ、恐怖によって思考まで最適化されたはずの操り人形の口から漏れ出たのは、そんな欺瞞の政治思想とは対極にある、純度百パーセントの冷徹なエンジニアの単語だった。


「ふっ……。柿枝兄弟は、どうしてもあれを『ホムンクルス』とは呼びたくないらしい。……あなたの口から『クローン』の言葉を聞くと、まるで先輩がそこに立っているような錯覚を覚えるよ」


 里村は、目の前に立つ最高権力者の男を凝視した。

 恐怖に屈してなびいた哀れな生き残り。その歪んだ仮面の奥底、絶対零度の瞳のさらに奥に、自分が世界で一番尊敬し、憧れ、そして喪ったはずの『あの人』の、決して何者にも屈しない傲慢なまでの知性が、幻影のように揺らめいた気がした。


「……だが、君は先輩とは違う。ただの権力の犬に成り下がったか。……失望したよ、柿枝総理」


『失望したよ』――。


 その響きが鼓膜を打った瞬間、悠一の腹の底から、理性を一瞬で蒸発させるほどの激しい怒りが沸点に達した。胸の奥の血液が、ゴウゴウと音を立てて燃え盛る。


(ふざけるな! 誰が権力の犬だ! お前たちのその純粋な知性を、お前たちが命を懸けて組み上げたあの美しいシステムを、あの薄汚い豚どもから守るために、俺がどれだけの泥を啜り、どれだけの血を吐く思いでこの椅子に座っていると……この、缶ピラミッドホムンクルス野郎が!!)


 総理大臣の仮面をかなぐり捨て、かつての相棒の胸倉を掴み、怒号と共に己の真実のすべてをぶちまけてやりたかった。俺は生きていると、ここにいると、そう叫びたかった。


 悠一は大きく肺に息を吸い込み、牙を剥いた。言葉を叩きつけようとした、その刹那――。


 脳裏に、あの光景が鮮烈にフラッシュバックした。

 徹夜のデスマ明け。朝日が容赦なく差し込むむさ苦しいラボ。カフェインと徹夜の興奮に泥酔しながら、ミリ単位で綺麗に並べられたエナジードリンクの空き缶の山。「これをクローンと呼ぶべきか、ホムンクルスと呼ぶべきか」で、くだらなくも、これ以上ないほど熱くぶつかり合った、あの青臭く、輝かしい論争の日々。


 ……もう、あの光の世界には、戻ることはできないのだ。


 怒りで激しく熱を持っていた胸の奥が、次の瞬間には、急速に冷え切っていく。痛いほどの郷愁は、そのまま永遠の喪失感へと姿を変え、彼の精神を真っ黒に塗り潰していった。


(……ああ、そうか。あの夜、あの場所で、お前と笑い合っていた『柿枝悠一』は……もう、東京湾の底で死んだのだったな)


 今ここにいるのは、家族の復讐のためだけに起動した、弟の皮を被った復讐マシーンだ。人としての情も、かつての温かい絆も、すべて消したはずではないか。


 世界で一番言われたくない言葉を、世界で一番の相棒から投げつけられる。これ以上の地獄が、この世にあるだろうか。だが、正体を明かすことが、里村をこの血塗られた泥沼へ引きずり込むことになると知っている以上、今の悠一に弁明の余地など一つも残されてはいなかった。


 喉元まで出かかった怒りも、溢れ出しそうな悲しみも、口の中に滲む血の味と共に、すべて暗い胃の底へと飲み込むしかない。悠一は、再び鉄の仮面を顔に張り付けた。


「……国策です。何度も同じことを言わせないでいただきたい」


 悠一は、恩師から突き立てられた見えない刃を胸の奥深くに深々と沈めたまま、表情一つ変えずに、氷のように冷たく短い言葉で、かつての相棒を官邸から冷酷に追い払った。

 里村は、目の前の総理大臣から完全に「柿枝悠一の魂」が消え失せたことを確信し、その目に深い絶望を宿した。


「ならば、私が私のやり方で国民と研究を守る。……失礼する、総理」


 それが、二人の今生における、最後の会話となった。里村は踵を返し、二度と振り返ることはなかった。


 重厚なマホガニーの扉が閉まり、静寂の戻った広い執務室に、悠一は一人取り残された。外界の音が一切届かないその暗闇の中でだけ、改二の端正な顔が、耐え難い苦悶によって激しく歪んだ。悠一はデスクに両手を突き、爪が割れるほど強く木目をむしりながら、声なき慟哭をあげる。その目から溢れ出た涙は、彼の中に唯一残されていた人間の残滓だった。


(里村、お前は光の中にいろ。俺の遺したシステムを、お前の手でサマトヴァとして完成させろ)


 激しい慟哭は、やがて、世界そのものを完全に消すための、絶対零度の呪いへと変わっていった。


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