第二十一話 棘の玉座と白百合の花束
笹山巌という絶対的な権力の巨星が消滅した永田町は、今や血に飢えた獣たちが覇権を争う凄惨なサバンナへと変貌していた。
最大のスポンサーであり、すべてを裏から操っていた絶対的な後ろ盾を失った笹山派は、瞬く間に四面楚歌の窮地に立たされていた。巌の長男である茂治と、その息子である智行は、赤坂にある極秘の料亭の一室で、没落への恐怖に顔を青ざめさせながら震えていた。
彼らには、巌のような政界を泳ぎ切る怪物的な胆力も、知恵もない。資金源を絶たれ、派閥の議員たちが次々と離反していく中、彼らはただ権力の座から引きずり下ろされる日を待つだけの、哀れな漂流者となり果てていた。
そこへ、ふすまが静かに開き、一人の男が現れる。
今や政界の若きホープとして飛ぶ鳥を落とす勢いで頭角を現している、柿枝改二だ。
「こんな夜更けに、お呼び立てして申し訳ありません」
上座で強張る二人に対し、悠一は弟の皮を被った顔で深々と、そしてひどく丁寧にお辞儀をした。その顔には、かつての柿枝家が持っていた「クリーンで誠実な政治家」としての、一点の曇りもない柔和な笑みが浮かんでいる。
悠一はゆっくりと二人の正面に座ると、哀悼の意を示すように伏し目がちに語りかけた。
「お父上のこと……本当に、残念でしたね。心よりお悔やみ申し上げます」
それは、かつて笹山巌が、純粋だった本物の改二をマネーロンダリングの泥沼へと引きずり込んだ時と、一言一句違わぬ全く同じ構図、全く同じ慈愛に満ちた優しい声だった。
茂治と智行は、互いに顔を見合わせた。
柿枝家と笹山家には、五年前の事故を含め、抜き差しならない深い因縁がある。復讐されるのではないかと身構えていた二人は、目の前の青年があまりにも無防備で、善意に満ちた表情をしていることに拍子抜けしていた。
「過去の家のいざこざは、これからの未来には関係ありません。お互い、すべて水に流しましょう」
悠一は、かつて弟がそうしていたように純白で聖人のような微笑みを浮かべ、二人に向けてそっと手を差し出した。
「私には、これからの新しい日本を牽引していかなくてはなりません。ですが、私一人の力では足りない。……どうか、私の側近として、その絶大な政治基盤で私を支えてくれませんか」
その言葉を聞いた瞬間、没落の恐怖に震えていた茂治と智行の心に、醜悪な安堵とどす黒い優越感が一気に広がった。
蜘蛛の糸を垂らされた二人は、改二を裏から徹底的に利用してやろうと鼻で嘲笑いながら、その差し伸べられた手に嬉々としてすがりついた。
「もちろんだとも、柿枝くん! 我々笹山家は、全力で君をバックアップしようじゃないか!」
固く握手を交わす三人。茂治と智行は、絶望の淵から再び権力の中枢に返り咲けるという歓喜に酔いしれ、すっかり警戒心を解いていた。そして、己の有能さをアピールし、この若き政治家を早くもコントロール下に置こうと、茂治が前のめりに口を開く。
「そうだ柿枝くん、ぜひ聞いてくれ。実は智行が、この国の未来を変える面白い構想を持っていてだね――」
茂治の言葉を受け、智行もまた自慢げに胸を張った。そして、かつてインド経由で悠一自身が仕込んだあの悪魔の計画を、さも自分の天才的な閃きであるかのように、意気揚々と語り始めようとする。
まんまと、自分から毒餌を喰らいに来た愚かな豚たち。
彼らを優しく抱き寄せ、熱心に相槌を打ってその言葉に耳を傾けるふりをする悠一。しかし、その氷のような瞳の奥には、もはや一滴の人間性すら残っていない。そこで渦巻いているのは、自らが組み上げた破滅のシステムへと自ら飛び込んでいく標的を冷徹に見下ろす、絶対零度の殺意だけだった。
彼らは知らない。自分たちが今、嬉々として座らされたその椅子が、悠一がいつでも遠隔で彼らを無惨に串刺しにできる『棘の玉座』であることに。終わりのない残酷で屈辱的な飼育が始まったのだ。悠一は、聖人の仮面を貼り付けたまま、心の中で薄く笑った。
数日後。どんよりとした厚い雲が空を覆う、都立・多磨霊園。
広大な敷地に無数の墓石が規則正しく並ぶその静寂の中を、黒いスーツに身を包んだ悠一は一人、静かに歩いていた。
手には、白い百合の花束と、線香。
たどり着いたのは、どこか寂しげにひっそりと建つ、代々続く名門の証である立派な墓石の前だった。御影石の正面には、深く『柿枝家之墓』と厳かに刻まれている。
そしてその傍らに佇む墓誌には、父・隆夫と母・晴美、そして五年前の凄惨な同時テロで理不尽に命を奪われた弟の妻・愛莉と、幼い娘の紬の名前が、痛ましいほど連なって彫り込まれていた。
海に沈み、遺体の上がらない兄・悠一の名は、法的に死が確定していないため、そこにはない。そして、表向きには生き残り、柿枝の家督を継いだことになっている弟・改二の本当の名前も、当然そこには刻まれていない。
だが、その重い石板の下。冷たい納骨室の底には、愛莉と紬の骨壺に寄り添うように、もう一つの骨壺がひっそりと納められていた。笹山一族の目を完全に欺くため、愛する妻子の隣の墓誌に名前を刻むことすら許されなかった、最愛の弟・改二の本当の遺骨だ。
悠一は、冷たい雨の降り出しそうな空の下で、墓前でゆっくりと膝をついた。
線香に火を灯し、そっと花を手向ける。
「父さん、母さん。愛莉さんに、紬。遅くなった」
その声は、政界で見せるような冷徹な響きでも、聖人のような作り物でもなく、ただただ家族を愛し、すべてを喪った一人の不器用な長男のものだった。
「笹山巌は死んだ。誰にも看取られず、自分がなぜ死ぬのかも理解できないまま、惨めに野垂れ死んだよ」
悠一は、墓誌に刻まれた両親の名前、そして、弟が何よりも愛した妻子の名前を、白く細い指先でそっと撫でた。
「残った茂治と智行も、俺の用意した棘の玉座に、嬉々として座った。……奴らはもう、俺の構築した檻から一生逃げられない」
冷たい風が霊園を吹き抜け、線香の白い煙が揺れる。
まるで、土の下で眠る家族たちが、彼の孤独な報告を静かに聞いているかのように。
「父さんたちが遺してくれたこの意志も。お前が譲ってくれたこの体も。俺はすべてを使い尽くして、奴らを極限まで飼い太らせる。そして、連中が永遠の楽園を手に入れたと錯覚し、一番高い場所で祝杯を挙げたその瞬間に……」
悠一は、弟が愛する家族と共に眠る名もなき納骨室の土台へと視線を落とし、その冷たい御影石に額を擦り付けるようにして、血を吐くような低い声で誓った。
「俺がこの手で、連中のすべてを消してやる。……それまで、待っていてくれ」
降り始めた細い雨が、悠一の肩を黒く濡らしていく。
政界という血塗られた盤面を完全に掌握し、誰も逃れられない地獄のシステムを起動させた亡霊。家族の死と弟の遺志を背負い、人間の心を完全に捨て去った男の、途方もない時間をかけた残酷なゲームが、ここから静かに幕を開けるのだった。
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