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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第五章 棘の玉座と遺言の檻

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第二十話 振り下ろされたタクト

 深夜の永田町。外界の一切の音を遮断した執務室の暗闇の中で、悠一は、メインモニターに映し出される一人の老人の生体データを、氷のように冷たい瞳で見下ろしていた。


 あれから、五年の歳月が流れていた。


 五年の間、笹山巌という怪物は、自らが世界の頂点に立ったと完全に錯覚して生きてきた。悠一が裏から入れ知恵をした不老不死プロジェクトを世界の権力者たちへ向けて大々的に発表し、各国の特権階級から莫大な投資と賛同を集めた。日本の政財界を完全に牛耳るばかりか、世界の裏側のルールすらも自分の手で書き換えているという、肥大化しきった全能感。


 巌は、毎晩のように最高級の料亭や秘密のサロンで、己の権力と不老不死の夢に酔いしれ、暴飲暴食とあらゆる享楽を貪り尽くした。

 だが、どんなに権力を集めようとも、人間の肉体の劣化から逃れることはできない。長年の不摂生と傲慢な生活が祟り、巌の老いた肉体は内側からボロボロに腐り果て、ついには都内の最高級大学病院の特別VIP病室へと隔離されることになったのだ。


「ふん、里村め。いつになったら若々しい器を完成させるのか。あの役立たずの無能めが」


 酸素吸入器の管が繋がれたベッドの上で、巌は忌々しげに吐き捨てた。その言葉の裏には、刻一刻と迫る死への本能的な恐怖を、他者への責任転嫁によって必死に塗り潰そうとする、権力者特有の醜悪な自己愛が滲み出ている。自らの肉体が物理的な限界を迎えているという残酷な現実から目を背け、金と権力さえあれば、死の運命すらも都合よく書き換えられると本気で信じ込んでいるのだ。


 それでも巌は、ベッドの上でふんぞり返り、傲慢に笑っていた。「金も権力もある。いざとなれば、自分の息のかかったバイオ企業に、新しい臓器をいくつでも培養させればいいだけの話だ」と。


 モニター越しにその姿を監視していた悠一は、暗闇の中で静かに、口角を吊り上げた。


「十分に太ったな。これなら、最高の悲鳴が聞けそうだ」


 悠一の白く細い指先が、キーボードのエンターキーの上に添えられる。

 五年間、ただこの一瞬のためだけに、執念と狂気で編み上げ続けてきた見えない包囲網。それを一斉に起動させる、たった一行のコマンド。


 悠一は、一切の躊躇なくキーを叩いた。


――カツン、という小さな打鍵音が、暗闇の執務室に響く。


 それは、五年の歳月をかけて仕込まれた『裏切りのオーケストラ』の幕開けを告げる、死神のタクトが振り下ろされた音だった。


***


 都内最高峰の大学病院、最上階の特別VIP病室。豪華なホテルのようなその部屋で、笹山巌は苛立ちを隠せずにいた。全身の倦怠感と、腹部の激しい痛みが全く引かない。


「おい! いつまで私をこんなベッドに縛り付けておくつもりだ!」


 病室のドアが開き、巌の長年の主治医である病院長が入ってきた。巌はいつものように、彼に向かって横柄に怒鳴りつけた。


「早く特効薬を打て! なんならすぐに臓器の移植手術の手配をしろ。私の体調一つで、この国の株価がどれだけ動くか分かっているのか!」


 だが。


 いつものように平身低頭でへつらってくるはずの主治医は、ピタリと足を止め、氷のように冷たい、見下すような視線を巌へと向けた。


「なにを突っ立っている! 私の言葉が聞こえんのか!」


 主治医は、無表情のままクリップボードをパタンと閉じ、塩を撒くような冷淡な声で言い放った。


「笹山さん。もう、あなたの臓器は持ちません。肝臓も腎臓も、既に機能不全です。……余命僅かですね」

「は?」


 巌は自分の耳を疑った。笹山さん、だと? 先生でも、会長でもなく?


「貴様……自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか!? ふざけるな、私の息のかかった研究所から、培養臓器を最優先で回させろ!」

「ありませんよ。あなたに提供できる医療資源など、この病院にはもう残っていません。では、私は他の重要な患者様の回診がありますので」


 主治医は、信じられないものを見るように目を見開く巌に背を向け、一礼すらすることなく、さっさと病室から出て行ってしまった。

 残された巌は、呼吸を荒らげながら、震える手で枕元の暗号化スマートフォンを掴んだ。


「あのヤブ医者め……後で必ず社会的に抹殺してやる!」


 巌は、自身に絶対の忠誠を誓っているはずの、国内最大のバイオ企業のCEOへと電話をかけた。しかし、何度コールしても繋がらない。次に、大手製薬会社のトップに回線を繋ぐ。


『はい』

「私だ、笹山だ! 今すぐにお前たちの研究所にある、移植用の臓器をすべてこの病院へ運ばせろ! 金はいくらでも積んでやる!」


 しかし、電話口から聞こえてきたのは、機械のように平坦な声だった。


『笹山氏ですね。誠に遺憾ですが、我が社は昨日付で、あなた及びあなたの関連団体とのすべての契約を白紙撤回いたしました』

「な、なんだと!? 貴様ら、私のバックアップなしでこの業界を生き残れると――」

『コンプライアンス上の重大な懸念事項が発覚したためです。二度と、この番号にはかけてこないでいただきたい』


 ツーツー、という無機質な切断音が、病室に虚しく響く。


 巌の全身から、一気に血の気が引いていった。なんだ、これは。何が起きている。

 巌はパニックに陥りながら、今度は日本サイバトロニクスと、インドの合弁会社グラモハの役員たちへ次々と連絡を入れた。自分が金を出し、育て上げたプロジェクトだ。彼らだけは自分を裏切るはずがない。


 だが、結果は同じだった。


『申し訳ありませんが、あなたのアクセス権限はすでにシステムから完全に削除されています』

『臓器の提供? 冗談はおやめください。我々の貴重な資産を、余命数日の老人に投資する理由がありません』


 ことごとく浴びせられる、冷酷な拒絶。誰も彼を助けようとしない。

 恐怖と混乱が、巌の心臓を激しく締め上げる。


「そうだ、裏の連中だ。奴らを脅して、強引にでも医者と臓器を拉致させれば……!」


 巌は最後にすがるような思いで、長年、自身の汚れ仕事を請け負い、巨額の利益を与え続けてきた反社会勢力のトップへと電話をかけた。


 数回のコールの後、回線が繋がる。


「おい! 今すぐ人を集めろ! 私を裏切った奴らを全員締め上げて、臓器を奪い取ってこい! 金はなんぼでも――」

『……誰に命令してんだ、クソジジイ』


 電話口から響いたのは、嘲笑と、底知れぬ凄みを帯びた声だった。


「な、なに……?」

『お前の隠し口座の資産、全部スッカラカンだぜ。権力も金もねえ、ただの死に損ないの老いぼれが、俺たちを使えると思ってんのか? ……せいぜい、一人寂しく野垂れ死にな』


 通話が切れたスマートフォンが、巌の震える手から滑り落ち、病室の床に力なく転がった。


――静寂。


 都内で最も豪華なVIP病室は、今や、外界から完全に遮断された孤独な独房へと姿を変えていた。息子の茂治も、孫の智行も、見舞いに来るどころか連絡一つよこさない。


 五年間、自らが世界の王になったと信じ切っていた。誰もが自分にひれ伏し、永遠の命と権力が約束されていると疑わなかった。だが、その強固なはずの地盤は、実は薄っぺらな氷の板に過ぎず、見えない誰かの手によって、とっくの昔にすべてが溶かされていたのだ。


「あ、ああ……ぐあぁっ」


 突然、内臓を鋭い刃物で抉られるような激痛が、巌の全身を襲った。臓器の壊死が、いよいよ限界を超えたのだ。


 巌はベッドから転げ落ち、高級な絨毯の上を這いつくばった。ナースコールを押そうにも、腕に力が入らない。


「だれか……だれか、助けろ……! 私は、笹山巌だぞ……! 世界を統べる、神に、なるはずだったんだ……!」


 口からどす黒い血の塊を吐き出しながら、巌は虚空に向けて必死に手を伸ばした。

 権力の頂点を極めた男の最期にしては、あまりにも惨めで、あまりにも矮小な姿。

 かつて、純粋な若者の命を弄び、その家族を車で轢き殺そうとした怪物の成れの果て。


「ぞうきを……私に、臓器を、寄越せぇっ……!」


 死にゆく魔物の断末魔のような叫びが、完全防音の病室に空しく響き渡る。その言葉を最後に、巌の目は見開かれたまま濁り、伸ばされた手は力なく絨毯へと落ちた。心臓が最後の鼓動を打ち終え、部屋は永遠の静寂に包まれた。


 家族にも、部下にも、誰一人として看取られることのない、絶対的な孤独の中での死だった。



 永田町の暗い執務室。メインモニターに表示されていた笹山巌の心電図データが、無機質なアラート音とともに、真っ直ぐな一本の線へと変わった。


「……」


 悠一は、その直線を見つめたまま、微動だにしなかった。歓喜も、達成感も、悲しみすらも、そこにはない。ただ、冷徹なシステムが、予定通りにひとつのバグをデリートしたという、単なる事実の確認作業があるだけだった。


 悠一はゆっくりと立ち上がると、執務室の壁に掛けられた鏡へと静かに歩み寄った。


 暗闇の中、鏡の向こうからこちらを見つめ返してくるのは、紛れもない最愛の弟の顔だった。悠一は、その冷たいガラスの表面にそっと自分の指先を這わせた。かつて弟が命懸けで守ろうとした光の温もりを、記憶の底からわずかに引き揚げるように。


(見えたか、改二。あれが、お前を殺した怪物の、あまりにも滑稽で無様な最期だ)


 鏡に映る弟の純白な面影に向かって、祈るように小さく呟く。

 だが、ガラスから指を離した瞬間。そこに映る顔は再び、氷のように冷たい絶対零度の瞳を持った復讐鬼のものへと戻っていた。


 最大の巨星は落ちた。だが、復讐のゲームはまだ終わらない。むしろ、巌という重石が消えたことで、あの腐りきった笹山一族の残党どもは、次の餌を求めてさらに醜く群がってくるだろう。


「さあ……次は、お前たちの番だ」


 悠一は、弟の顔をした冷酷な亡霊として、鏡に背を向け、次なる盤面へと静かに手を伸ばした。圧倒的な絶望のシステムは、まだその駆動音を止めてはいなかった。


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