第十八話 復讐の亡霊
所長・柿枝悠一の凄惨な事故と行方不明という凶報は、日本サイバトロニクスの研究所から一切の光と秩序を奪い去っていた。
暗闇に包まれた永田町の一室。政界に「悲劇を乗り越えた若手議員・柿枝改二」として復帰を果たした悠一は、裏回線で密かに繋がれたコンソールの青白いモニター越しに、ハッキングした研究所の監視カメラ映像を冷徹に見下ろしていた。
里村清一は真っ暗なコンソールデスクの前に一人座り続けていた。足元には、何十本ものエナジードリンクの空き缶が転がっている。ミリ単位で揃えられたエナジードリンクの缶ピラミッドは彼の周囲には一つもなかった。
ラボの重厚な電子扉が開いた様子を監視カメラが捉えた。
入ってきたのは、老怪物・笹山巌と、その孫である智行だった。笹山は、所員たちをぐるりと見渡している。
『皆、柿枝所長の不幸は誠に痛ましいことだった。だが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかん。プロジェクトを資金面からさらに牽引するためにも、私が新たなトップを用意した』
ノイズ混じりの汚泥のような笹山の声をマイクが拾う。老怪物は、隣に立つ孫の肩を叩いた。
『智行だ。彼はまだ大学に在学中の身だがね、だからこそ良いのだよ。『現役の学生CEOが、世界に類を見ない最先端ベンチャーを率いる』……どうだ? 実際にゼロから起業したのが彼でなくとも、世間のメディアがこぞって持ち上げる話題性としては申し分ないだろう? これからは彼を所長として――』
『学生CEOという、中身のないハリボテの話題性?』
その時、コンソールの影から立ち上がった里村の、氷のように冷たく、底知れぬ凄みを帯びた低い声が、広大な研究所の空気を一瞬にして凍結させた。床に置かれたエナジードリンクの缶が立ち上がった勢いで周囲に広がり、監視カメラの枠を超えて消えていった。
里村は、笹山と智行を射抜くように見据えながら、ゆっくりと歩み出た。絶対的な権力者を前にしても、彼の中には畏怖も、へつらいも、一切の感情の揺らぎすらなかった。
『システムを構築する上で、これ以上ないほど無価値なノイズですね』
『なんだと?』
笹山の肩が不快げにピクリと動く。だが、里村は怯むどころか、手を笹山に向けて振り上げた。
『いいですか、笹山会長。もしその素人を所長の椅子に座らせ、私の管理するディレクトリに一ビットでも、ただの一ビットでも干渉させるというのなら……ええ、どうぞやってみるがいい。その瞬間に、私はマスターサーバのデータをすべて物理フォーマットし、バックアップストレージを焼却して、このラボを永遠に去ります。そして二度と戻らない』
『き、貴様……自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか!』
激昂しかけた智行の言葉を、里村は遮った。
『あなたの欲しい永遠の命とやらが、その隣で喚いているお孫さんの空っぽの頭からコンパイルできるというのなら、どうぞお好きになさってください。ですが、この柿枝先輩が遺したシステムに触れられるのは、この私だけだ』
権力に一切阿らない、天才エンジニアの圧倒的な傲慢と狂気。
命知らずの脅迫。一触即発の空気の中、やがて笹山は両手を挙げた。
『冗談だよ、里村くん。君の聖域を脅かすつもりは毛頭ない。これからも頼りにしているよ』
表向きは引き下がり、監視カメラの視界から逃げるように研究所を後にする笹山と智行の姿を、悠一は冷たい目で見送った。
悠一の長い指先が、再びキーボードを無音で滑る。画面のウィンドウが切り替わり、今度は粗い監視カメラの映像から、音声波形を刻むオーディオモニタリングの画面へと遷移した。
笹山が乗り込んだ黒塗りの高級車。常にクラウドと同期し続ける車載SIMの通信網など、システムを熟知する悠一にとっては、裏口の鍵が開けっ放しになっているザルに等しかった。
最新のテクノロジーがもたらす常時接続の恩恵を無自覚に享受している権力者たちは、自分たちが走る密室にいると錯覚している。だが、彼らの吐き出す肉声は、クラウドを経由したクリアなデジタル音声として、いとも容易く永田町の暗闇に引きずり出されていた。
『お祖父様! なぜあんな生意気な奴を許しておくのですか!』
『智行、見たか。あれが技術を独占する者の傲慢だ』
スピーカーから漏れる笹山の声からは、先ほどの愛想笑いが完全に消え失せ、冷酷な爬虫類のような響きへと変わっていた。
『里村という男は愚か者ではあるが優秀だ。だが、あの研究が奴一人に依存しているという属人性は、我が一族の計画にとって最大のリスク以外の何物でもない。……いずれ奴が反逆し、消えてもプロジェクトが回るように、手を打つ』
『手を、打つ?』
『私のインドの知人に声をかけ、あちらの企業側から合弁会社の設立を打診させるのだ。里村の書いた根幹のコードを合法的な技術供与として堂々とインド側へ横流しし、独自のアーキテクチャを組ませて奴と競争させる。……いずれ、あの男の代わりはインドでいくらでも効くようになる』
権力者ならではの、冷酷で盤石な布石。のちに人類の運命を大きく左右することになる、インドの巨大合弁研究所『グラモハ』設立の種が蒔かれた瞬間だった。
だが、その音声を聞いていた悠一の美しい顔には、もはや一滴の感情も浮かんでいなかった。
(見事だ、里村。そして、ご苦労だったな、笹山巌)
悠一の遺した研究を守るための里村の熱い忠誠心も、純粋さゆえの命がけの暴走も。そして、それに致命的な危機感を抱いた笹山が、技術を盗み出し分散させるために、インド側から合弁会社設立という罠を仕掛けてくることすらも。
そのすべては、柿枝悠一という並外れた天才の頭脳が描き出した、壮大な復讐の盤面をコントロールするための、計算通りのプロセスでしかなかった。
笹山巌は、改二が生き残った扱いやすい操り人形だと高を括っている。
だが、彼らは気づいていない。自分たちが安心しきって神輿に担ぎ上げているその男が、悪意に弱かったあの純白の弟などではなく、復讐の炎で魂を焼き尽くし、地獄の底から這い上がってきた絶対零度の亡霊であるということに。
悠一は、弟の皮を被った顔を微かに動かし、誰に聞かせるでもなく、静かに、そして残酷なまでに美しく口角を吊り上げた。
「お前たちが望み、渇望する永遠の命。私が何一つ狂いもない檻として組み上げてやろう」
暗闇の部屋に響くその声は、かつて人間の心を持っていた頃の柿枝悠一のものではなかった。それは、すべてを奪われた男が、すべてを奪い返すためだけに最適化された、冷酷な復讐マシーンの駆動音だった。
「お前たち一族が、自ら望んで入ったその逃げ場のない檻の中で……一番無惨に、無価値なデータとして殺処分される日が来るまでな」
味方すらも騙し切り、人間の心を完全に捨て去った男。ここに、権力とシステムのすべてを裏で操り、地獄のゲームを主導する孤独な亡霊が、完全なる産声を上げた。
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