第十七話 無慈悲なバグ
光の届かない、冷たい海の底。
ひしゃげた鉄の塊の中に、氷刃のような海水が容赦なく流れ込んでくる。
激痛はなかった。致命傷を負った肉体を切り離すため、脳がとうに痛覚を遮断していたからだ。まるで他人の体のように麻痺した四肢から、命の熱だけが静かに海へと流出していく。海水を吸い込んだ肺が、焼鏝を押し当てられたように熱い。その内側から燃えるような苦悶だけが、悠一の命がまだここにあることを告げていた。
間違いなく、自分はここで死ぬ。だが、死の淵に立たされながらも、悠一の胸にあったのは己の命が消えることへの恐怖などではなかった。
「結局、俺は何もできなかった。改二を、助けてやれなかった……」
あんなにも頭が良くて、誰よりも優しかった最愛の弟を、薄汚い権力の中で孤独に死なせてしまった。凄まじい後悔と、底知れぬ絶望だけを抱きしめながら、柿枝悠一の心臓は、海の底で静かにその鼓動を停止した。
――しかし、その瞬間。
ここから遠く離れた、彼のプライベートラボで、誰も意図しなかった決定的なバグが起動する。メインコンソールに残され、システムにアクティブなまま接続されていた悠一自身のバックアップデータが、生体バイタルセンサーを通じて、オリジナルである悠一の完全な停止――死を検知した。
システムは、この状況を本来の肉体の不可逆的な損壊と判断し、あらかじめ設定されていた緊急時のフェイルセーフ・プログラムを自動作動させてしまう。
エラーを吐き出し続ける改二の脳への接続が強制的にシャットダウンされ、代わりに行き場を失った悠一自身の膨大な記憶と意識のデータが、光の奔流となってケーブルを駆け巡る。そして、培養槽の中で眠っていた改二の顔に似た空っぽのクローン体へと、システムが強制的にオーバーライドを開始したのだ。
暗い海の底で、柿枝悠一の本来の肉体が冷たい屍へと変わり果てたのと、完全に同時だった。無人のラボの培養槽の中で。エメラルドグリーンの培養液に包まれていたクローン体が、ビクリと大きく跳ね、カッとその両目を見開いた。
次の瞬間、意識は強烈な光と、全身を包み込む粘つくような「生」の不快感とともに、悠一は無理やり現世へと引き戻された。
「がはっ……、はぁっ、はぁ……ッ、げほっ!」
無人のプライベートラボ。エメラルドグリーンの培養液が床にぶちまけられ、その冷たいタイルの上で、柿枝悠一は激しく咽せ返りながら這いつくばっていた。生まれたての獣のように全身が激しく痙攣し、新しい肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。
(ここは、冷たい海の底ではない。自分のラボだ。なぜ俺は生きている? トラックに潰され、海に沈んだはずではなかったか)
混乱する頭のまま、悠一は震える腕で身を支え、自らが吐き出された巨大な培養槽のガラス面へと視線を向けた。そして、水面に反射して映し出された自分の姿を見た瞬間、全身の血液が絶対零度に凍りついた。
そこに映っていたのは、端正で冷徹な、柿枝悠一の顔ではない。
死んだはずの、最愛の弟・改二の、純白で美しい顔だった。
「なんだ、これは。俺は、海で……」
死の淵の記憶と、目の前の現実がリンクせず、圧倒的な混乱が悠一の脳髄を殴りつける。しかし、彼は天才エンジニアだ。わずか数秒の後、彼の冷徹すぎる論理的思考が、起きてしまった最悪のバグのプロセスを、一ミリの狂いもなく弾き出してしまった。
(俺のバックアップが、メインコンソールにアクティブなまま接続されていた……。あの海の底での俺のバイタルゼロをトリガーにして、システムのフェイルセーフが誤作動したのか)
行き場を失った悠一の膨大な記憶と意識のデータが、空っぽだったこのクローン体へと、強制的にオーバーライドされたのだ。
その事実を理解した瞬間、肺が潰れるほどの強烈な自責の念が、巨大な津波となって悠一の精神を飲み込んだ。
「ふざけるな……。ふざけるなよ! 俺が、改二の器を奪ったというのかッ!」
弟の記憶を現世に引き留めるために、自分たち三人の天才が命を懸けて用意した最後の希望の器。それを、弟を救えなかった無能な兄が、自分の命を繋ぐために横取りして生き延びてしまった。これ以上の弟への冒涜と、おぞましい自己嫌悪は存在しなかった。悠一は床に拳を打ち付け、獣のように慟哭した。
悠一は、ガラスに映る弟の顔を凝視した。絶望と怒りで顔を歪め、涙と緑色の培養液にまみれたその表情を見たとき、悠一の腹の底から、耐え難い強烈な吐き気が込み上げてきた。
(違う……改二は、こんな醜い顔で泣かない。こんなにどす黒い憎悪の瞳で、世界を睨みつけたりしない!)
自分がこの顔で息をし、絶望し、怒りに顔を歪ませるたびに、弟の純白な魂を泥で汚しているのだという凄絶な嫌悪感。なぜ俺が生きている。なぜ俺が、こんな醜い命を拾ってしまった。
その問いは、やがて冷たく、重たい一つの答えへと収束していく。
――これは、弟を見殺しにした俺に神が与えた、永遠の罰なのだ。
弟の顔を被り、弟を汚し続けながら、一生この泥沼を這いずり回れという呪いの受容。
悠一は、弟の美しい顔を両手で強く覆い、そして、ゆっくりと顔を上げた。
その時、彼の目から『柿枝悠一としての人間性』が、システムから物理フォーマットされるように完全にデリートされていた。悲しみ、怒り、罪悪感。そんな人間らしい感情を抱えたままでは、笹山巌という巨大な怪物を地獄へ引きずり込むことはできない。
(俺の魂は、あの海の底で死んだ。ここにいるのは、笹山一族を喰い殺すためだけに起動した、弟の皮を被ったバグだ)
悠一は、ガラスに映る改二の顔に、あえて感情の乗っていない、冷徹な微笑みを浮かべさせた。それは、誰も見たことのない、絶対零度の怪物の産声だった。
「待っていろ、笹山。地獄すら生ぬるい深淵へ沈めてやる」
人間の心を完全に捨て去り、純度百パーセントの復讐のプログラムとして歩み始める。悠一は、静かに暗闇のラボを後にした。
都内の特別病室。心電図の電子音が響くその部屋には、同時期に笹山の暗殺部隊によるトラックの暴走に巻き込まれ、無数の管に繋がれ、起き上がることもできない父親・隆夫と、痛ましい包帯姿でそれに寄り添う母親の姿があった。
静かに病室の扉が開き、改二の顔をした悠一が入室する。足音、肩の揺れ、部屋の空気を支配する冷たい気配。
ベッドの傍らで顔を上げた母親は、目の前に現れた最愛の次男の顔を見て、一瞬だけ安堵に目を見開いた。しかし、次の瞬間にはその表情が凄絶な絶望へと凍りついた。母親の直感が、理屈を越えて真実を悟ってしまったのだ。そこにいるのは、優しすぎた改二ではない。その奥で絶対零度の瞳を光らせているのは、間違いなく長男の悠一だった。
「ああ……あああっ……」
母親は、改二がもうこの世界から完全に消え去ってしまったことを理解し、ベッドのシーツを掻き毟りながら、獣のように泣き崩れた。悠一は、弟の顔をしたままベッドの脇に膝をついた。表情は一切変えなかったが、その声の奥底には、血を吐くような凄絶な後悔が張り付いていた。
「俺の命が消える瞬間に、システムが誤作動しました。改二の記憶は完全に損壊し……俺が、あいつの器を奪ってしまった」
悠一は、自らのシステムエラーという名の罪と、自分たち一族を根絶やしにしようとした笹山の罠のすべてを告げた。自分は、弟を二度殺したのだと。
しかし、すべてを聞き終えた父親・隆夫は、痛みに歪む顔を上げ、悠一の過ちを一切責めなかった。
点滴の針が刺さる血まみれの腕を無理やり動かし、隆夫は悠一の胸倉を力強く掴み寄せた。国民のために粉骨砕身し、クリーンで高潔な正義の政治家として生きてきた男の顔は、そこにはもうなかった。隆夫の目は、血走り、人間性をかなぐり捨てた悪鬼そのものへと変貌していた。
「自分を責めるな、悠一。悪いのはお前ではない。改二を騙し、妻と娘を轢き殺し、我々を虫ケラのように消し去ろうとしたあの怪物だ」
隆夫の喉から、呪詛のような低い声が漏れる。それは、名門・柿枝家が歩んできた正義と法の歴史を、自らの手で完全に焼き捨てる宣言だった。
「悠一。笹山を、一瞬で殺すような慈悲は絶対に与えるな。あの一族を、改二が味わった以上の泥沼で長年這いずり回らせてから、その命も、権力も、すべてを奪い尽くせ。……柿枝家の全てはお前に託す。お前のその顔を使って、やりたいようにやれ。地獄の底まで、私がお前を支えてやる」
泣き崩れていた母親もまた、涙に濡れた顔を上げ、深い闇を宿した瞳で悠一を見つめ、静かに頷いた。
善意と正義で繋がっていた家族が、圧倒的な理不尽と悲劇を前にして、初めて巨大な悪意として一つに結晶化した瞬間。それは、この国を裏から支配する最強の『復讐のための怪物』が産声を上げた、身の毛もよだつ呪いの儀式だった。
政界への復帰準備を進める悠一は、『弟・改二』の端末から、日本サイバトロニクスにいる里村清一へと通信を繋いだ。
数回の重苦しいコールの後、モニターに映し出された里村の顔は、目を覆いたくなるほど憔悴しきっていた。
背景に映る真っ暗な自室の様子、伸びた無精髭、そして血走った目元。所長である柿枝悠一の凄惨な事故と行方不明の報せが、今サイバトロニクスをどれほどの大混乱に陥れ、最高の相棒をどれほど深い絶望の淵に突き落としているか――悠一には、画面越しのその姿だけで痛いほどに推測できた。
だが、モニターの向こうの里村は、画面に改二の顔を認めた瞬間、ハッとしたように姿勢を正した。悲壮感に染まっていたその顔に、強い緊張と深い畏敬の念が走るのを悠一は見逃さなかった。
里村にとって、人工細胞核という奇跡の概念を発案した柿枝改二は、これまで兄である悠一の言葉を通じてしかその動向を知り得なかった、雲の上の純白の憧れそのものだった。その憧れの天才から、初めて直接もたらされた連絡。しかし、それは兄の行方不明という、あまりにも痛ましい悲報の共有だった。
「里村さん。……ご心配をおかけしています」
通信越しに響くその声は、かつて自分に遠慮なくダメ出しをしてきた最高の相棒に対し、悠一自身が演じ切る傷ついた弟の脆く悲痛な声だった。純粋に弟を敬愛する里村のその美しい憧れすらも、悠一は冷徹に計算し、己の嘘を補強するための隠れ蓑として利用する。
最高の相棒たちを、この凄惨な復讐の泥沼に絶対に巻き込まないため。悠一は涙を堪えるように、微かに震える声で懇願した。
「兄は事故に巻き込まれましたが、遺体は見つかっていません。僕は、兄が絶対にどこかで生きていると信じています。僕が必ず、この手で探し出します。……だから、それまで、あの所長の席は、兄さんのためにずっと守っておいてほしいんです。お願いします……」
憧れの天才が、涙ながらに自分へと託した悲痛な願い。里村の胸の奥で、悲しみは強靭な使命感へと変わった。改二の言葉を完全に信じ込んだ純粋な相棒は、画面越しに深く、力強く頷いた。
『ええ……分かりました。柿枝先輩の席は、絶対に誰にも渡しません。先輩が帰ってくるまで、私がこのラボを、改二さんの信じた先輩のシステムを、命に代えても守り抜いてみせます』
(許せ、里村。長泉。お前たちのその純粋な知性を、俺の復讐という名の泥沼で汚すわけにはいかない。お前たちは光の中で、俺の遺したシステムを完成させろ)
通信を切った後、悠一は氷のように冷たい絶対零度の瞳でモニターを見下ろした。
愛する家族と共に修羅の道へ堕ち、己の最高の理解者であり、弟の信奉者でもある味方すらも、その純粋さにつけ込んで騙し切った男。ここに、権力とシステムのすべてを裏で操る、孤独で完全なる顔のない亡霊が誕生したのだった。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。
ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。




