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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第四章 光の消失と地獄の業火

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第十六話 光の消失

 外部から完全に物理的・ネットワーク的に遮断された、悠一の自宅プライベートラボ。

 無機質なLEDライトに照らされた中央の巨大な培養槽の中では、かつて三人の天才がその知性のすべてを注ぎ込んで作り上げたクローン体が、静かに、ただ静かにエメラルドグリーンの培養液に浮かんでいた。ナノグラフェン回路が組み込まれたその器は、主の魂が注ぎ込まれる瞬間を待ちわびているかのように、微かな鼓動を刻んでいる。


 悠一は、コンソールデスクの傍らに運び込んだ改二の冷たい身体を見下ろした。

 氷で埋め尽くされたその頭部から、何十本もの微細なプローブを直接大脳皮質へと接続し、悠一はシステムを通じて神経ネットワークのサルベージを試みていた。弟の脳に残された記憶を、一文字残らず吸い上げるための孤独な抽出デスマーチ。


 しかし、メインモニターに表示されるプログレスバーは、どれだけ完璧な抽出プログラムを走らせても、絶望的な警告音とともに「修復不可」を示す赤文字のエラーノイズを滝のように吐き出し続けていた。


 睡眠薬のオーバードーズによる死は、決して穏やかな眠りなどではない。冷徹なエンジニアである悠一の脳は、その残酷な医学的現実を誰よりも正確に理解してしまっていた。

 心臓が完全に停止する前の数時間。極端な呼吸抑制によって、改二の脳は長時間の生殺しのような低酸素状態に置かれていた。脳は人体の中で最も酸欠に弱い。酸素を絶たれた脳細胞は、風船のように異常に膨張し、次々と無惨に破裂していく。


 そして心停止の後。死後硬直がピークに達するまでの十数時間の間に、破裂した細胞から溢れ出た消化酵素が、周囲のまともな神経回路をもドロドロに溶かし去る自己融解を引き起こしていたのだ。


「……動け。同期しろ。頼むから、一つでもいい、応答を返せ……!」


 悠一は血走った目でキーボードを叩き続けた。だが、エラーは止まらない。

 このエラーは、システム側に未知のバグが潜んでいるからなのか。それとも、改二の脳そのものが、すでにサルベージ不可能な泥へと成り果ててしまったからなのか。


 悠一は、その絶望的な現実をどうしても認めることができず、最後の検証手段に打って出た。自分自身の頭部にもプローブを接続し、正常な自らの脳の記憶と意識を、改二と並列でシステムへと接続し、比較検証を開始したのだ。


 結果は、あまりにも残酷だった。


 モニターの左半分。悠一自身の記憶は、美しく安定したエメラルドグリーンの波形を描き、恐ろしいほどの速度でシステムと完全に同期していく。

 しかし右半分。改二の記憶領域は、どれだけシステムが手を伸ばしても、修復不可能な真っ赤なエラーノイズが脈絡なく点滅するだけだった。


「俺のシステムが悪いんじゃない。改二の脳はもう……本当に、物理的に壊れてしまったんだ」


 冷徹なエンジニアとしての知性が、他でもない自分自身が構築した数値データによって、弟の完全なる死の証明を、逃れようのない事実として突きつけてくる。


「ああ……ああああっ!」


 悠一は、そのコードが並んだコンソールの上に突っ伏し、孤独なプライベートラボの暗闇の中で、喉を引き裂くように慟哭した。自分がどれほど天才であろうと、どれほど美しいシステムを構築できようと、溶け落ちた肉体という物理の壁を越えることはできない。神の領域に手を伸ばしたはずの天才は、ただの無力な兄として、弟の死顔の横でむせび泣くしかなかった。


 悠一はこれまで、相棒である里村清一や長泉良朗に対して、改二の死や笹山の脅威、そして裏で進行していたマネーロンダリングの事実を、ただの一度も口にしていなかった。


 それは、彼らを見下していたからではない。むしろ逆だった。彼らの持つ、科学に対するあまりにも純粋で美しい知性を、永田町という醜悪な権力に絶対に巻き込みたくなかったからだ。彼らだけは、あの光り輝く研究室で、純白のまま未来を描き続けてほしかった。それは、不器用な兄が弟に見せていたものと同じ、深く、傲慢なまでの愛情と保護欲だった。


 だが今、悠一は自分のプログラミング能力だけではどうにもならない、物理的な限界の壁に直面していた。


(俺のボトムアップ式の抽出アルゴリズムではダメだ。清一の組んだ、あのトップダウンの同期制御アルゴリズムを応用すれば……あるいはこの泥の底から、改二の記憶の破片だけでも拾い上げられるかもしれない……)


 一縷の望みにすがり、悠一はついに己の傲慢なプライドをすべて捨て去り、清一に頼る決意を固めた。


 血走った目で立ち上がり、デスクの上の車のキーをひったくるように掴む。改二を助けなければ。一秒でも早く、清一をこのラボへ連れてこなければ。

 その極限の焦燥とパニックの中、常に完璧であったはずの悠一は、生涯で最も致命的で、そして最も決定的なミスを犯してしまう。自分自身の脳のバックアップをシステムに接続した状態のまま、メイン電源を切ることもなく、プローブだけを乱暴に外してラボを飛び出してしまったのだ。


 冷たい通り雨が過ぎ去った後も、重く垂れ込めた鈍色の雲が深夜の港湾道路を不気味に覆い隠している。水鏡のように濡れたアスファルトが、街灯を冷たく反射している。

 里村のいる日本サイバトロニクスへと愛車を急がせる悠一の背後に、笹山巌の放った死神の影がピタリと張り付いていたことに、悠一は全く気づいていなかった。


 悠一の車が、有明のフェリー埠頭入口交差点へ差し掛かったその瞬間。

 笹山の息がかかった狂犬ハッカーのハッキング技術によって、交差点の信号制御システムが遠隔操作された。悠一の進行方向の赤信号が、強制的に青へと書き換えられる。

 悠一がアクセルを踏み込んだ直後――北側の車線から猛スピードで突っ込んできた大型トラックが、ブレーキの摩擦音すら一切立てることなく南の有明埠頭橋へ向けて突入し、悠一の車に真横から激突した。


 凄絶な衝撃音。エアバッグが弾け飛び、同時に悠一の身体は激しく車内でバウンドした。車体は一瞬にして紙屑のようにひしゃげ、トラックの圧倒的な質量と暴力的な速度に押し出されるまま、交差点の南東角にある街角広場へと生々しい火花を散らして突っ込んでいく。コンクリートの縁石を粉砕し、濡れた植え込みの木々を根こそぎなぎ倒しながら滑走した車体は、最後に岸壁の強固な車止めをも力技で突き破り――そのまま、東京湾の暗く冷たい海の底へと沈んでいく。


 時を全く同じくして、世田谷の柿枝本家の近くでも、凄惨な同時多発テロが引き起こされていた。息子の異変を察知し、極秘裏に動こうとしていた両親の乗る車が、対向車線から飛び出してきた不自然な大型車の暴走に真正面から巻き込まれたのだ。後部座席で血まみれになりながらも、奇跡的に意識を保っていた父親の隆夫は、潰れた車内で妻の手を強く握り締めた。


 改二の生存を恐れ、後顧の憂いをすべて断ち切るために笹山巌が下した、柿枝一族の完全なる同時抹殺指令の実行だった。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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