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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第四章 光の消失と地獄の業火

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第十五話 契約の代償

 深夜二時。日本サイバトロニクス株式会社の地下実験室は、外界の激しい雨音を完全に遮断した、冷徹な静寂の檻と化していた。


 最新鋭の並列演算サーバが発する微かな排熱音だけが、低い通奏低音のように床を震わせている。柿枝悠一は、シャツのボタンを律儀に留め、気品ある端正な佇まいでメインコンソールの前に座っていた。

 少し離れたデスクでは、相棒である里村清一が、何十本ものエナジードリンクの空き缶をミリ単位の狂いもなく正確に積み上げながら、モニターを見つめている。


 大学という象牙の塔を捨て、悪魔の出資を受け入れて手に入れた、世界最高峰の環境。ここにあるリソースのすべては、あの日、あの狭い子供部屋で弟の改二が夢見た世界を、現実のシステムとして構築するために存在していた。


 その統制された沈黙を、悠一のスマートフォンの異様な着信音が鋭く引き裂いた。

 画面に表示されたのは、父親であり、柿枝家の現当主である柿枝隆夫の名。

 悠一はわずかに眉をひそめた。百戦錬磨の政治家である父親が、この深夜に長男の自分へ私用で連絡を寄こすなど、過去に一度としてなかったことだった。不穏な胸騒ぎを覚えながら、通話ボタンを押し、耳元に寄せる。


『悠一か』


 スマートフォンから響いたのは、いつも威厳に満ちていた隆夫のものとは到底信じられない、呼吸すらままならないほどに擦り切れ、絶望に震える声だった。その背後からは、母親の半狂乱になった悲鳴と、獣のような泣き声が遠く響いてくる。


『悠一……落ち着いて聞きなさい。改二が、死んだ。今、自室で……睡眠薬を大量に煽って、冷たくなっているあいつを見つけた……』


――死んだ。


 そのあまりにも唐突で不条理な単語が鼓膜を震わせた瞬間、悠一の視界が一瞬だけ激しく歪んだ。心臓が裏返るような衝撃が全身の血流を凍らせる。だが、肉親としての凄絶な悲哀が胸を締め付けるよりも先に、冷徹極まりないエンジニアとしての、別の絶対的な恐怖をスパークさせた。


『まだ……救急車も、警察も呼んでいない』


 隆夫は、涙を堪えるように奥歯を噛み締めながら、血の滲むような声を絞り出した。


『呼べば、どうなるか分かっている。改二の妻と愛娘が殺されたあの雨の夜、奴らはドライブレコーダーの記録を消去し、ただの前方不注意による事故として処理した。警察も、特捜も、検察も、すべてはあの笹山巌の手先だ。もし今ここで私が通報すれば、笹山は待ってましたとばかりに、改二を巨額汚職の罪を苦にして自殺した卑しい犯罪者として、あらかじめ用意していた捏造資料とともに世間へ一斉にリークするだろう……。柿枝の名は地に落ち、あいつの死は、世間の薄汚い大衆のゴシップという名の娯楽として、跡形もなく消費され尽くす。私は……父親として、死んだあいつをそんな衆愚のオモチャにされることだけは、未来永劫、絶対に許せんのだ……っ』


 それは、永田町という名の地獄を生き抜いてきた隆夫だからこそ予見できた、確実な最悪の未来だった。息子の尊厳を守るため、国家の司法システムへの連絡を血の涙を流して躊躇する父親。


 悠一は、その父親の政治家としての、そして親としての痛烈な判断に深い敬意を抱きつつも、自身の脳裏に浮かび上がった取り返しのつかない最悪のシナリオに、顔面を歪ませた。


「父さん、仰る通りです。絶対に、警察を呼んではいけません!」


 悠一は、スマートフォンを握りしめる指先が白くなるほどの力で、鋭く叫んだ。父親への絶対的な尊敬を口調に宿しながらも、その声には、狂気的な緊迫感が張り詰めていた。


「もし事件性があると判断されれば、国家の無知な司法システムは、確実に改二の身体に司法解剖を行います。メスで頭蓋骨を開けられ、脳細胞に変腐処理を施されたら……あいつの脳は物理的に完全に破壊され、そこに残されたすべての記憶が消滅します! そうなれば、俺たちがこれまで命を懸けて開発してきたオーバーライドの技術をもってしても、改二の記憶を、あのクローンへと移して復元することが永遠に不可能になります!!」


 悠一が本能的に恐れたのは、生命の喪失そのものよりも、警察の手によって、弟の脳と記憶が不可逆的に破壊されることだった。


 今、実邸にある改二の遺体は、悠一にとって悲しむべき対象であると同時に、一分一秒ごとに細胞死が進行していく、この地上で唯一無二の、弟の記憶が詰まった尊い器そのものだった。


「あいつを、あの老害どものゴシップの餌食になんて絶対にさせません。改二の脳が生きて記憶を留めているうちに、俺が作ったあのクローン体にオーバーライドして、あいつをこの世界に必ず復元してみせます。だから父さん、俺がそちらへ到着するまで、あいつの脳を、その記憶を、限界まで冷やして守り抜いてください!」


 悠一は、隣で驚愕のあまり絶句している清一の視線を完全に無視し、電話の向こうの隆夫に対し、エンジニアとしての狂気を孕んだ三つの物理的指示を矢継ぎ早に伝えた。


「第一に、改二の身体を絶対にその場所から動かさないでください。脳内の微細な構造を乱れさせてはならない。第二に、今すぐ家中の氷を集めて、あいつの頭部をすべて埋め尽くしてください。物理的に脳の温度を下げ、細胞の死を極限まで遅延させるのです。第三に、書斎のエアコンを最低温度でフル稼働させ、部屋全体を氷室のようにしてください。一秒でも長く、改二の記憶を現世に繋ぎ止めるために」


 それは、医学や法学の常識を完全に逸脱した、狂気的なまでの工学的アプローチだった。最愛の息子の尊厳を守り、世間の娯楽にされたくないという父親のプライドと愛情。そして、弟の脳と記憶を力尽くで現世に繋ぎ止めようとする兄の工学的な狂気。

 二つの異なるベクトルが、国家の法を欺き、死体を完全に隠蔽するという最悪の犯罪、すなわち強固な共犯関係として一致した瞬間だった。


『分かった。悠一、お前を信じる。改二のすべては、お前に託す』


 隆夫の、悲痛でありながらも確かな信頼が籠った言葉を聞き届け、悠一は通話ボタンを切った。


「悠一、待ってください! 一体何が起きたんですか!? オーバーライドなんて、まだ人間での転送シーケンスの検証が完全に終わってない、危険すぎる――」


 里村が積み上げた缶ピラミッドを崩しながら立ち上がり、決死の形相で制止の声をかける。しかし、悠一はその声を完全に背中で握り潰し、デスクの上の上着をひったくるように掴むと、地下実験室の重厚な扉を蹴破るようにして飛び出した。


 激しい雨がすべてを白く塗りつぶす、漆黒の夜の街。

 悠一は愛車のアクセルを床まで踏み込み、泥水を激しく撥ね上げながら、実邸へと向かって湾岸線から横羽線を狂ったように爆走させた。ワイパーがどれほど高速で動こうとも、フロントガラスの向こうの視界は、怒りと焦燥の涙で滲んでまともに見えなかった。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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