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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第三章 悪魔の契約と純白の生贄

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第十四話 純白の生贄

 スマートフォンから響いた妻の悲鳴のような声音に、柿枝隆夫カキエダタカオは激しい胸騒ぎを覚えながら、深夜の第三京浜を狂ったように車を走らせた。数々の修羅場を潜り抜けてきた彼であったが、これほどまでに指先が冷たく震えたのは人生で初めてだった。


 改二の私邸へ滑り込み、鍵の開いた玄関から飛び込むと、書斎の奥から妻の狂乱した泣き声が聞こえた。


「あなた、あなた……! 改二が、改二が……っ!」


 開け放たれた書斎の扉の向こう、父親の目に飛び込んできたのは、デスクの椅子に腰掛けたまま、すでに完全に冷たくなっている最愛の次男の姿だった。


 父親は絶望に視界を歪めながらも、政治家としての冷徹な観察眼で瞬時に部屋の状況を把握した。


 部屋の空気は不気味なほどに凪いでおり、デスクの上には、大量の睡眠薬の空き瓶が不自然なほど分かりやすく転がっている。そして、その横には一枚のルーズリーフ。「先立たれた妻と娘の後を追う。私の犯した大罪を、せめて死を以て償いたい」という、自責の念と絶望に満ちた、痛切な遺書が残されていた。筆跡は改二のものだった。


 状況証拠だけを見れば、それは家族を失い、自らの罪の重さに耐えかねた哀れな男の、完全なる自殺そのものだった。


 だが、父親の背筋を、凄絶なまでの違和感が駆け抜けた。


 つい昨日、電話で話した時の改二の、あの笹山への怒りに燃えていた強い声音が、どうしても脳裏から離れない。自ら命を絶つような人間が、あれほど鋭い目を、あれほど冷徹な復讐の炎を宿すはずがない。


 この遺書は、本当に彼自身が書いたものなのか。それとも、彼の筆跡を模倣して偽造されたものなのか。この睡眠薬の空き瓶は、彼が自ら煽ったものなのか、それとも、深夜に音もなく侵入した何者かによって、身動きを封じられたまま無理やり喉の奥へと流し込まれたものなのか――。


 父親は、力なく垂れ下がった改二の右手に触れた。その瞬間、彼の息が止まった。


 改二の細い指先は、皮膚が裂け、爪の間に赤黒い血が滲むほどの異常な力で、何かを握りしめたまま死後硬直を起こしていた。その指の隙間から覗いていたのは、一本のUSBメモリだった。


 まるで、自分の命が消え去るその最後の一秒まで、このデータだけは世界の終わりから隠し通し、いつか兄の元へと届くことを祈り続けたかのような、凄絶な執念。

 自殺か、それとも自殺に偽装された暗殺か。父親は、息子の冷たくなった手を握りしめながら、永田町の底暗い闇の深さに、ただ声もなく歯を食いしばるしかなかった。



 夜の永田町。笹山巌の執務室には、高級な葉巻の重苦しい煙が立ち込めていた。


 「――柿枝改二の行方が分かりません。自宅にも議員会館にもおらず、数日前からすべての接触が途絶えました。水面下で泳がせていた密偵たちも、彼の足取りを完全に見失っています」


 影の中から進み出た部下の報告を聞き、笹山は贅沢なクリスタルグラスに入った赤ワインをゆっくりと傾けた。皺の刻まれた脂ぎった顔に、冷酷で不気味な笑みが浮かぶ。改二がすでに私邸の書斎で物言わぬ肉塊と化していることすら、情報統制の壁の向こうにあり、笹山すらまだ正確には把握していなかった。


「フン……。妻と娘を失い、自らの無知が招いたマネーロンダリングの重罪にようやく気づいたか。所詮は温室育ちの若造だ。今頃は自責の念に耐えかねて、人知れずどこかの山林で首でも括っているか……」


 笹山は、改二の精神の脆弱さを嘲笑うかのような口振りで低く笑った。しかし、彼はすぐにグラスをデスクへと叩きつけ、白濁した双眸を不穏に細めた。


「あるいは……私があのように忠告したにも関わらず、愚かにも私を刺すための証拠でも掻き集めて、警察や検察の周囲をネズミのように逃げ回っているか、だな。どちらにせよ、手のかかる男だ」


 笹山は改二の死を確認できていなかった。それゆえに、彼は人生で最大にして致命的な勘違いを起こす。あの小僧はまだ生きていて、自分を破滅させるためのデータを抱えたまま、暗闇の中で牙を研いで潜伏しているかもしれない、と。その焦燥感が、老怪物の次なる暴挙への引き金となった。


「泳がせておく必要はない。出てこないというなら、社会的に完全に息の根を止め、引きずり出してやる」


 笹山は冷酷に言い放ち、手元の受話器を取り上げた。かつて改二の父親を政界の窮地へと追い込んだ時と全く同じ、いや、それ以上に執拗で容赦のない嫌がらせが始動する。


 翌朝、日本の全メディアのトップニュース、そしてインターネットの海のすべてに、改二を標的とした特大のゴシップが一斉にリークされた。


『若き正義の政治家・柿枝改二、巨額マネーロンダリングの黒幕か』

『海外の闇ファンドと結託。大学を辞職した実兄の非倫理的な人造人間研究への不法な資金流用疑惑』


 それは、笹山が自らの罪をすべて改二へと擦り付け、同時に悠一たちの聖域である研究をも巻き込んで破滅させるための、悪魔的な捏造記事だった。綿密に仕組まれた偽りの証拠書類の数々がタイムラインを埋め尽くし、クリーンで高潔だった柿枝の名は、一瞬にして最悪の犯罪者の刻印へと変えられていく。


「これで柿枝家は完全に終わりだ。どれほど高潔を気取ろうが、この泥を浴びてなお言い逃れができると思うな。言い訳をするために、世界中から後ろ指を指されながら、涙を流して私の元へ這い出てくるがいい」


 モニターに映し出される醜聞の嵐を眺めながら、笹山は余裕の笑みを浮かべ、再びワインを喉へと流し込んだ。


 笹山の狙いは、恐怖を覚えるほど的中した。世間という名の巨大な怪物は、若く、美しく、清廉潔白だった正義の政治家が、裏で汚れた犯罪に手を染めていたという最悪の転落劇に、狂喜乱舞して飛びついた。


 テレビのワイドショーでは、連日、事情を知らないコメンテーターたちが正義の面をして改二の人間性を全否定し、SNSのタイムラインでは、安全な場所から顔も名前も隠した大衆による、無責任な石が投げ続けられた。


『偽善者の悪魔』

『お高くとまったエリートの末路』

『自分の兄の狂った人体実験に国のお金を使っていたなんて、人殺しと同じだ』


 改二からの反論は、当然ながら一言もなかった。笹山はその予測通りの沈黙を「罪を認めて逃げ回っている証拠」だと決めつけ、大衆がその沈黙を燃料にして、彼を極上の娯楽として消費し尽くしていく様を、極上の愉悦とともに眺めていた。

 昨日まで彼を応援していたはずの国民が、手のひらを返して、彼のスキャンダルを笑顔で貪り食っている。


――そして、その狂乱は長くは続かなかった。


 あれほど狂ったように日本中を包み込んでいた改二への怒りと罵声は、たった数週間が経つと、まるで最初から何もなかったかのように、急速に冷めていった。世間は、次に投下された芸能人の不倫や、別の政治家の失言という新しいゴシップへ一斉に群がり、柿枝改二のことなど、誰も語らなくなった。


 無責任に集まり、徹底的に叩いて、傷つけ、環境の奴隷となって一瞬ですべてを忘れて次の娯楽へと向かう、愚かで、残酷な大衆の姿。


 笹山は、その忘却の速度すらも自らの権力維持の道具として利用していた。大衆など、適当な情報を与えて踊らせておけばいい。彼らにとって真実などどうでもよく、ただその場しのぎの刺激だけを求めているのだから。


 しかし、老怪物はまだ気づいていなかった。この時、モニター越しに、世界中から弟へと投げつけられる無数の悪意の石と、その後の冷酷な忘却を、じっと、死んだように見つめていたもう一人の天才の目が、どのような檻をこの世界に生み出すことになるのかを。


「――まだ見つかりませんか。社会的にこれほど追い詰めたというのに、柿枝改二は未だに表舞台へ姿を現しません。検察への接触の形跡もありません」


 一向に改二の身柄を炙り出せないという報告に、笹山巌の顔から、ついに余裕の笑みが消え失せた。老怪物の心臓を、正体不明の不気味な苛立ちと、微かな恐怖が覆い始める。


 あの小僧、もしや本当に、こちらの想像を超える強固な闇のルートに潜伏し、一撃で私を刺し殺すための準備を進めているのではないか。

 改二がまだ生きていて、暗闇から自分を狙っているという恐怖。その妄想に囚われた悪徳政治家は、ついに最悪の、血も涙もない決断を下した。


「柿枝改二がもし生きていて、未だに私に牙を剥くつもりなら……あの男の最後の希望であり、心の拠り所である兄の悠一を消せばいい。そうすれば、あの小僧の心は今度こそ完全にへし折れ、未来永劫、表に出てくることはできん」


 笹山は、葉巻の灰を床へと叩き落とし、部下に冷徹な声を響かせた。その言葉には、名門・柿枝の血脈そのものをこの地上から根絶やしにせんとする、圧倒的な巨悪の意志が満ちていた。


「日本サイバトロニクスには、開発の実務を握る里村さえ残れば十分だ。使い勝手の悪い柿枝の血はもういらん。……兄の悠一を、あの妻子と全く同じ交通事故で処理しろ。そして、あの邪魔な父親も同時に消すんだ。一人残らず、消せ」

「御意」


 影が静かに部屋を去っていく。

 室内に漂う葉巻の重苦しい煙が、朝焼けの光の中で、黒く、淀んで揺れていた。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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