第十一話 悪魔の囁き
後日、父親のスキャンダルは、拍子抜けするほどあっさりと収束を迎えた。
だがそれは、笹山巌が裏から手を回したからではなかった。柿枝の父親は、永田町の荒波を幾度も乗り越えてきた強大な政治力の持ち主だったのだ。政敵による捏造された嫌がらせやスキャンダルなど、過去に何度もあったこと。
父親は張り巡らされた自身の防諜網と独自のパイプを使い、自力でその不穏な火種を根元から完全に叩き潰していた。
しかし、そんな永田町の冷徹な実態も、父親の本当の強さも、悪意に鈍感な改二には見えていなかった。彼は、すべて笹山が闇に葬ってくれたのだと、その優しい嘘をまるごと信じ込んでしまっていた。時を同じくして、日本サイバトロニクスには、あの海外ファンドから目眩がするほどの巨額の資金が、音もなく振り込まれ始めていたからだ。
すべてが丸く収まった。そう信じ込む改二を、笹山は赤坂の最高級料亭の奥座敷へと招いた。薄暗い和室の灯りの下、豪奢な料理が並ぶ中、笹山は改二のグラスに最高級の酒を注ぎながら、最大の賛辞で彼を労った。
「よくやったね、柿枝くん。君のあの迅速な判断のおかげで、お父上の危機も、お兄さんのあの尊い研究も、すべて守られた。君は柿枝家の立派な救世主だ。誇りに思いなさい」
「いえ……すべては笹山先生のおかげです。この御恩は、生涯忘れません」
改二は心の底から安堵し、目の前の老怪物を本当の恩人だと完全に信用しきっていた。その純粋な感謝の言葉を聞きながら、笹山は内心で、この哀れな天才の底知れないチョロさを嘲笑っていた。
笹山はファンド側の意向という名目を振りかざし、日本サイバトロニクスへのちょっとした事業方針や人事の介入、開発中の特許の共同出願など、目立たない、けれど致命的な次の罠を静かに打ち始め、彼らの聖域を内側からジワジワと侵食していく。改二はそれらすべてを、恩人への正当な対価だと信じて、笑顔で受け入れ続けた。
しかし、笹山は一つだけ、改二のポテンシャルを決定的に読み違えていた。
柿枝改二は、他人の悪意にはどこまでも鈍感で脆い聖者であるが――同時に、ひとたびデータという盤面に落とし込まれれば、そこに隠されたどんな微細な歪みも見逃さない、正真正銘の『発想の天才』であるという事実を。
出資契約から数ヶ月が経った、ある激しい雨の夜。
議員会館の事務所で、改二は自身の政治資金管理団体を経由する、日本サイバトロニクスへの資金の流れの帳簿を眺めていた。最初は、本当に微細な違和感だった。数字の端数が、無駄に複数の海外ダミー会社を経由するたびに、奇妙な比率で削られ、また膨らんでいる。
不審に思った改二は、水面下でその送金ルートの解析を始めた。タックスヘイブンのペーパーカンパニー、無記名の債権、そして、それらのペーパーカンパニーの役員名簿の奥深くに隠されていた、ある反社会的勢力と、笹山グループの闇の資金源の繋がり――。
深夜のオフィスに、カチリ、とパズルの最後のピースが最悪の形で噛み合う音が響いた。改二の脳内で、その天賦の才が、隠されたマネールートの全容を、一本の線へと結びつけてしまったのだ。
さらに恐ろしい事実に気づく。父親を襲ったあのスキャンダルの時期と、このダミー会社が設立されたタイミングの完全な一致。
(違う……。父さんは、最初から自力で勝てたんだ。過去の嫌がらせと同じように、父さんの力だけで、あの火種は潰せていた!)
数字の海から浮かび上がってきたのは、あまりにも巨大で、あまりにも醜悪な悪意の怪物の姿だった。
(それなのに、僕がパニックになって、焦って、あの書類にサインをしたせいで……兄さんの研究に、こんな汚れた金を混ぜてしまった……!)
「嘘だろ。ああ……っ、う……」
改二の指先から、資料がバサバサと床へ崩れ落ちた。
自分が救いの手だと信じてサインしたあの海外ファンドからの巨額の出資スキーム。それは、クリーンな研究資金などでは到底なかった。笹山グループが裏社会と結託して吸い上げた、血と暴力にまみれた汚れた金を、日本サイバトロニクスの開発費という名目で合法的な表の金へと洗い流すための――巨大なマネーロンダリングの装置そのものだったのだ。
「うぇっ……、がはっ……!」
改二はたまらず床に膝をつき、ゴミ箱を抱え込んで、激しい胃液の酸味とともに嘔吐した。
自分が犯してしまった罪の全容と、その法的な破滅へのシナリオが、瞬時に理解できてしまう。しかし、悪意に対する精神の強度が低すぎる彼は、その現実のあまりの毒気に当てられ、激しい眩暈と吐き気の中で、ただガタガタと狂ったように震え続けるしかなかった。
世界が、信じていた恩人が、そして何より自分自身の無知が信じられなくなり、自らの手の汚れに耐えきれず、涙と冷や汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、暗闇の底で蹲るしかなかった。
「――どうしたんだい、柿枝くん。ひどく顔色が悪いね」
背後から響いた、あの湿った汚泥のような声に、改二の心臓の鼓動が恐怖で完全に凍りついた。
振り返ると、いつの間にか部屋の鍵を開けて侵入していた笹山巌が、暗闇の中から、ぬうっと姿を現していた。老怪物は、恐怖と絶望でガタガタと震える改二の背後にゆっくりと歩み寄ると、そのぶよぶよとした重い両手を、後ろからそっと、優しく抱きしめるようにして改二の肩へと置いた。
冷たい蛇の皮膚が首筋を直接這い回るような、凄絶な悪寒が改二の全身を支配する。
笹山は、改二がすべてに気づくことすら、最初から織り込み済みだった。この青年の並外れた知性なら、いずれこの数字の歪みに気づく。だが、気づいたところで、この脆い精神では、悪意の重圧に押し潰されて身動きが取れなくなることも、完全に計算通りだった。
老怪物はあえてマネーロンダリングという犯罪の単語は一切口にせず、ただ、父親のような、底知れぬ慈愛を模した優しい声音で、改二の耳元へとその醜悪な唇を近づけた。
「何も心配することはないよ、柿枝くん。君が私を信じて、あの書類にサインをしてくれたおかげで……君の愛するお父上も、お兄さんのあの尊い研究も、すべては私と共に、安泰なのだからね」
「あ、あ、先生……僕は……僕は、取り返しのつかないことを……」
「ね? これからも、私を裏切ったりせず、一緒に良い夢を見ようじゃないか。もし君が不釣り合いな正義感に駆られて余計な真似をすれば、お兄さんのあの美しい研究所は、明日には犯罪の温床として、跡形もなく取り潰されることになる。君だって、お兄さんのあの輝かしい未来を、自分の手で殺したくはないだろう?」
改二の、兄を想う一番美しい善意をそのまま人質に取り、決して抜け出せない首輪へと変える。その笹山の圧倒的な、悪魔的なまでの切れ者としての手際。
「ひっ……、あ……」
改二の真っ直ぐだった瞳から、光が、完全に消え去った。
逆らえば、兄が死ぬ。自分が従順な人形であり続けて、このドロドロとした悪意のすべてを喉に流し込み続ければ、兄の研究だけは、あの綺麗なままで守られる。
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