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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第三章 悪魔の契約と純白の生贄

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第十二話 今すぐ帰るから

 赤坂の料亭のさらに奥、外界の雑音を一切遮断した防音の密室。

 重苦しい沈黙の中に、トクトクトクと、重厚なワインがグラスへと注がれる音だけが虚しく響いていた。


 政界の老怪物、笹山巌は、特注のクリスタルグラスをぶよぶよとした脂ぎった指先で弄びながら、その醜悪な唇を赤く濡らした。


 対面に座る柿枝改二は、数ヶ月に及ぶマネーロンダリングの重圧と、悪意の檻に囚われた精神的疲弊から、すっかり痩せ細っていた。その真っ直ぐだった双眸は暗い影に沈み、顔面は死人のように青ざめている。

 だが、老怪物はそんな青年の衰弱など意にも介さず、白濁した瞳をぎらつかせ、さらなる地獄の盤面を提示した。


「柿枝くん。お兄さんの研究――あのホムンクルスの生体データだがね。現在、国内の数多のバイオベンチャーや大手製薬会社、それに医療の重鎮どもから『人類の病を駆逐する光だ』と凄まじい期待を集めているそうじゃないか。実に美しい話だ」


 笹山はクリスタルグラスを揺らしながら、その口角を醜悪に吊り上げた。


「だがね、そんなお行儀の良い連中にくれてやるだけでは少々惜しい。あれを海外のいくつかの民間軍事企業と、裏の臓器密売組織に流すルートを確保したよ。国内の市場など比較にならない……国家の年間予算を容易に上回る、目眩がするほどの莫大な利益が我々の元に転がり込んでくる」

「な、何を……何を言っているんですか、先生。兄さんの研究は、苦しむ患者たちを救うための技術です!」


 改二の喉から、かすれた声が漏れる。

 自分がサインした汚れた金が日本サイバトロニクスを回している。その絶望に耐えてなお、笹山が口にした言葉は、改二の想像の限界を遥かに超えて肥大化した巨悪そのものだった。


 しかし、笹山はさも世界平和のための人道主義を思いついたかのように、慈愛に満ちた父親のような声音で、朗々と語りかけるのだ。


「テロ組織にも声をかけるとね、市場価値はさらに跳ね上がる。奴らはいつの時代も戦争が大好きだからね。……だがね、よく考えてもみたまえ、柿枝くん。戦場で銃を握り、血を流し、殺し合うのがお兄さんの造ったクローンだかホムンクルス同士なら、生身の人間は一人も傷つかずに済む。欠損した臓器が必要になれば、彼らを苗床にして切り出せばいい。人間の代わりに戦い、人間の代わりに死ぬ器。……ある意味、これほど平和的で、人道的な兵器は他にないと思わないかね? ハッハッハ!」


 贅沢な衣服の隙間から覗くぶよぶよとした首肉を震わせ、脂ぎった皺を歪めて哄笑する老怪物の姿は、人間の皮を被った悪魔そのものだった。


 その狂った詭弁が改二の鼓膜に達した瞬間――彼の脳内で、これまで全ての泥水を一人で飲み込んできた「僕が犠牲になればいい」という保身のロジックが、一瞬にして粉砕された。


 改二の胸の奥に眠っていた、何があっても、誰に変物と呼ばれようとも、絶対に侵させてはならない唯一の聖域。それは、兄・悠一の純粋な夢と、その知性への絶対的な愛だった。


「――ふざけるな」


 地を這うような、低く冷徹な声が、密室の空気を一瞬にして氷点下へと凍りつかせた。

 笹山の笑い声がピタリと止まる。


「……ん?」

「ふざけるなと言ったんだ、笹山巌!!」


 改二は、これまで誰にも見せたことのない激しい怒りを剥き出しにし、目の前の重厚な座卓を渾身の力で叩きつけた。激しい金属音とともに食器が鳴り響き、高級なワインが畳の上へと赤黒く飛び散る。


「兄さんは……柿枝悠一は、病気や怪我で苦しむ人を救うために、誰も傷つかない世界を作るために、自分の青春のすべてを犠牲にして、あの狂気的な開発を続けているんだ! それを……お前のような欲にまみれた老害の、人殺しの道具や臓器の苗床にするために、兄さんはあそこにいるんじゃない!」


 改二の純白の魂が、濁った汚泥の中から、爆発的な光を放って輝いた瞬間だった。悪意に弱く、他人の嘘に脆かったはずの若手議員は、今や最愛の兄の夢を守るため、完全なる復讐鬼の目をしていた。


「僕は絶対に手を貸さない。これ以上、兄のサイバトロニクスを、兄さんの夢を汚すというなら――僕は自分の破滅なんてどうでもいい! 明日の朝一番に、これまでのすべての汚職の証拠を揃えて、検察にぶちまけてやる! お前も、僕も、一緒に地獄へ落ちるんだ!」


 胸を激しく上下させながら、改二は笹山を鋭い眼光で睨みつけた。

 残された老怪物は、畳ににじむ赤黒いワインをじっと見つめたまま、白濁した双眸を冷酷に、どこまでも細めていた。その顔から、偽りの慈愛が完全に剥ぎ取られ、剥き出しの残虐性が浮かび上がる。


「……そうか。交渉決裂だね。柿枝くん。君には、失望したよ。……残念だ、実に残念な事だねぇ」


 改二はそれ以上、悪魔の言葉を聞く耳を持たなかった。乱暴に部屋の扉を開け放ち、振り返ることもなく、夜の帳へと飛び出していった。


 料亭を飛び出し、冷たい夜雨が打ちつける赤坂の街頭の下、改二は何度も深く、深く息を吸い込んでいた。

 すべてを失い、犯罪者として身を落とす恐怖よりも、兄の夢を守るために悪魔の首輪を引きちぎれたという圧倒的な解放感が、彼の胸を微かに満たしていた。


「これでいい。これで終わる。明日、兄さんと父さんにすべてを話して、這いつくばって謝ろう」


 その時、濡れたスーツのポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 画面を見ると、最愛の妻からのメッセージが表示されていた。


『パパ、今日もお仕事お疲れ様! 紬(ツムギ)からメッセージを預かっているよ』

『パパの大好きな、ママ特製のハンバーグ作ったよ! 人参のグラッセもいっぱいいれたよ! 今日は雨がすごいから、ママと一緒に車でパパをお迎えに行くね。一緒にあったかいハンバーグ食べようね!』

『最近ずっと大変そうだったから、お家でゆっくりお話聞かせてね。私たちはいつでも、パパの味方だから。気をつけてきてね』


 スマートフォンの画面を見つめたまま、改二の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


 それは、柿枝家における最も温かい、愛の記憶のメニューだった。

 まだ幼い娘は、酷い野菜嫌いだった。特に人参が大嫌いで、食卓に出すたびに泣いて首を振っていた。そんな娘の健康を心配した妻が、何度も何度も試行錯誤を繰り返して行き着いたのが、そのハンバーグだった。


 妻は、人参を甘く煮詰めて特製のグラッセにし、それを細かく刻んで、娘の大好きなハンバーグの肉ダネの中にたっぷりと混ぜ込んだのだ。

 初めてそのハンバーグを食卓に出した日、妻は娘の前に皿を置き、優しく微笑みながら語った。


「このハンバーグね、パパも大大好きなんだよ。パパもお野菜が大好きだから、あんなにかっこよくて強いお仕事ができるの。だから、パパと一緒に食べようね」


 娘は、大好きなパパと同じものが食べられるという誇らしさから、小さなスプーンでハンバーグを夢中で口に運び、「おいしい! パパと一緒!」と満面の笑みを浮かべたのだった。


 妻が仕掛けた優しい嘘だった。だが、娘が嬉しそうに食べる姿を見て、改二もまた「本当に美味しいな。パパの、世界で一番の大好物だ」と笑い、それ以来、柿枝家では「パパの大好物=人参グラッセ入りのママ特製ハンバーグ」として定着したのだ。


 ここ数ヶ月、永田町の闇に飲まれ、死人のようにやつれていく夫の姿を、妻は痛いほど心配していた。理由を聞いても「大丈夫だ」としか答えない夫を、彼女は責めることなく、ただ圧倒的な愛で包み込もうとしていた。だからこそ、夫を元気づけるための、最高の大好物を作って、娘と一緒に今、迎えに向かってくれている。


「待っててくれ。今すぐ、今すぐ帰るから」


 改二は、袖で涙を拭うと、愛する家族が待つ暖かい場所へと向かって、雨の中を走り出した。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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