第十話 沼地の罠
悠一たちが最新鋭の設備に囲まれて研究に没頭しているその裏側で、この莫大な資金調達のすべての責任者および名義人として永田町を奔走していたのは、弟の改二だった。
あの雨の夜に遭遇した、笹山巌という老怪物の真の狙いは、彼らがもたらす人造生命技術の特許独占、そして、目障りな政敵である柿枝一族の完全なる消去。
政治の表舞台に立つ純粋な改二は、この巨大なクローズド・プロジェクトの裏側で進行する、巨額の政治汚職や違法な人体実験の罪を、すべて自らの名義に着せられるという巧妙な罠の深みへと、一歩ずつ、確実に引きずり込まれていた。
高級料亭の暗闇で、あるいは深夜の議員会館で、冷酷な怪物たちに嬲られ、心身をすり減らしながらも、改二は血の滲むような想いで小さな拳を強く握りしめていた。
(僕がこの泥水をすすれば……兄さんたちの研究は、あの子供部屋の続きは、誰にも汚されずに守られるんだ。だから、僕はどんな泥でも被る……)
それが、自分たちを飼い殺しにして喰らうための、最初から仕組まれた破滅の罠であるとも知らずに、改二は一人で地獄の底を歩いていた。
「改二のやつ、最近まったく連絡を寄こさないな」
モニターの光を浴びながら、悠一がふと、キーボードを叩く手を止めて呟いた。シャツの袖口を端正に整え直すその横顔には、あいつは外で上手くやっているのだろうかという、兄としての微かな懸念と心配の影が過っていた。
だが、悠一はすぐに、眼前に広がる膨大なグラフェン回路のコードへと視線を戻した。不器用な兄である悠一は、心の底から信じ込んでいたのだ。
改二があの子供部屋で夢見た「病気も怪我もしない、誰も傷つかない世界」。あいつの突拍子もないファンタジーを、俺のこの手で現実のシステムとして完成させてやること――それこそが、改二の夢を叶えることであり、あいつを本当の意味で幸せにする唯一の方法なのだと。
だからこそ、今は一分一秒でも早く、この研究を前に進めなければならない。弟を心配する気持ちがあるからこそ、悠一はその愛情のすべてを、狂気的なまでの開発速度へと変換し、自らをさらに研究の檻へと追い込んでいく。
最愛の弟が、自分のためにどれほど過酷な地獄を生きているのかを、悠一は何一つとして知らなかった。この「弟の幸せを願うがゆえの盲進」が、光の研究室と闇の永田町との間で絶対的な情報の断絶を生み出していく。
深夜の議員会館の一室は、まるで墓所のような静寂に包まれていた。
柿枝改二は、デスクの上に広げられた数枚の夕刊の校正刷りを前に、血の気が引いた顔で立ち尽くしていた。そこに躍っていたのは、彼の父親であり、名門政治家として数々の修羅場を潜り抜けてきた柿枝家現当主の「黒い献金疑惑」を告発する、あまりにも悪意に満ちた大見出しだった。
「――どうしたんだい、柿枝くん。ひどく怯えた顔をしているね」
部屋の隅の応接ソファに深く腰掛け、脂ぎった顔に歪んだ笑みを浮かべたのは、政界の老怪物、笹山巌だった。長年浴び続けてきた権力と金という名の毒素が凝縮したかのような重苦しい空気が部屋に充満し、改二の呼吸をじわじわと塞いでいく。
「先生……これは、一体どういうことですか。父がこんな、法を侵すような不正に手を染めるはずがありません。何かの間違いです。今すぐ差し止めなければ!」
改二の声は情けなく震えていた。数理ロジックや高度な抽象概念の世界においては、彼は誰よりも早く美しい正解へと到達できる『発想の天才』だった。しかし、目の前で蠢く人間のドロドロとした悪意を突きつけられた途端、彼の頭脳は、まるで未知の有害ウイルスに感染したかのように完全にフリーズしてしまった。
世界は基本、善意や合理性によって構築されている――そんな、あまりにも無防備な前提で生きている純粋な青年にとって、永田町の底暗い汚泥は、その存在自体が理解不能な怪異に等しかった。
笹山はその改二の知性の高さと、精神の圧倒的なナイーブさを、冷酷なまでに分析し尽くしていた。この青年は、数字の矛盾は疑うが、人間の優しい表情の裏にある嘘は疑わない。そして、何よりも――。
「間違いか、あるいは仕組まれた罠か。永田町という盤面においては、そんな真実などどうでもいいのだよ」
笹山は湿った汚泥に生息する大蝦蟇のような声を響かせ、重い腰を上げた。歩を進めるたびに、衣服の隙間から数多の人間を磨り潰してきた者特有の、腐った空気が漂い、改二の鼻腔を塞ぐ。
「このままではお父上は終わりだ。柿枝の名は地に落ち、次の選挙を待たずして政治生命を絶たれるだろう。名門の歴史もここで閉幕だ。……だがね、安心したまえ。私が裏から手を回して、この記事の完全な差し止めと、特捜部の動きへの火消しをしてやろう。君が私を頼り、従うというなら、ね」
改二は乾いた喉を鳴らした。
だが、笹山巌の本当の恐ろしさはここからだった。彼は改二の最大の急所であり、絶対に侵してはならない唯一の聖域――兄・悠一への異常なまでの盲信と愛情を、正確に見抜いていた。
「だが、問題はお父上だけではない。このスキャンダルの余波は、君の兄が大学を捨てて立ち上げたばかりの『日本サイバトロニクス』にも確実に飛び火する。当然だろう? 犯罪者の一族が関わるベンチャーだ。銀行からの融資や、クリーンな大手企業からの出資は、明日を境にすべてストップする。……そうなれば、君の大大好きな、お兄さんのあの尊い研究資金は一瞬で枯渇するぞ」
「――っ!」
改二の頭脳が、最悪の未来のシミュレーションを一瞬で弾き出した。
兄、悠一の研究が止まる。
あの日、あの狭い子供部屋で、幼い改二のめちゃくちゃな落書きの夢を本物の科学にしてくれた、世界一の天才。兄は今、自分のためにすべてを投げ打って最新鋭のラボに引きこもり、血の滲むような開発を続けている。その資金の血流が止まる。
それは、兄の未来を、そして二人の大切な聖域を、自分の家の醜悪な政治スキャンダルが引き裂くことを意味していた。
改二の頭脳が、皮肉にも、笹山の提示した研究の崩壊という破滅のディテールをあまりにも鮮明に描き出してしまい、彼のパニックと焦燥感を爆発的に加速させた。それこそが、老怪物の狙い通りの心理誘導だった。
「先生……お願いです! 父を、何より兄の研究を、日本サイバトロニクスを守ってください! 兄さんの未来を、こんなところで終わらせるわけにはいかないんです!」
改二は、すがるように老怪物を見つめた。その瞳はどこまでも純粋で、それゆえに酷く哀れだった。目の前の老人が、このスキャンダルそのものを仕掛けた張本人である可能性など、悪意に対する免疫のない改二の脳内には少しも浮かんでいない。
「おやおや、そんなに悲相な顔をしないでくれ。私は君たちの味方だよ、柿枝くん」
笹山は、まるで傷ついた子供をあやす父親のような優しい笑みを浮かべ、贅沢な革のファイルから一枚の書類を取り出すと、デスクの上へと滑り込ませた。
「だが、安心したまえ。私の知る海外の投資ファンドが、無記名で巨額の出資をしてくれることになった。これだけの並列演算リソースがあれば、お兄さんの研究が止まることは万に一つもない。君はただ、政治家としてこの『出資の受け入れと資金移動のスキーム』の保証人に、ここにサインをしてくれればいい。簡単な仕事だろう?」
改二は、差し出された書類に目を落とした。英語と専門的な金融用語、複雑な数理モデルで埋め尽くされた契約書。
改二の優れた頭脳は、書類に書かれた複雑極まりない金融工学のロジックを、一瞬で数理的に破綻がないと理解した。しかし、あまりにも人を疑うことを知らない彼は、その契約の背後にある人間側の目的という悪意を、綺麗に読み飛ばしてしまったのだ。
ロジックとしては完全無欠だ。これにサインすれば父の疑惑は消え、何より、兄はあの綺麗な研究室で、誰にも邪魔されずに夢の続きを紡ぐことができる。
「……分かりました。ありがとうございます、笹山先生」
改二は、震える手で万年筆を握り、自らの署名を白紙の欄へと滑り込ませた。
笹山は、その万年筆が走るかすかな音を、愉悦に歪んだ白濁の双眸でじっと見つめていた。知性が高いくせに、悪意にはどこまでも無防備。これほど御しやすい獲物はいない。サインを終えた改二の顔には、ただ、大切なものを自分の手で守り抜けたという、純白な、あまりにも無垢な安堵の涙だけがにじんでいた。
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