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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第三章 悪魔の契約と純白の生贄

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第九話 忍び寄る怪物

「またストップだ。倫理委員会の承認が下りない。あの俗物どもは、神の設計図を書き換えるこの変革を、自分たちの小さな秩序を脅かす禁忌だと本気で怯えているらしい」


 柿枝悠一は、シャツの袖口を忌々しげに引き上げると、手元にある書類の束をデスクへと放り投げた。その端正な顔立ちには、気品ある冷徹さと、それを内側から焼き尽くさんとするほどの激しい焦燥感が同居している。


「シミュレーションの結果待ちも限界だよ、悠一。国からの補助金は削られる一方だし、大学の貧弱なサーバじゃ無駄な時間ばかりが流れて一向に進みやしない。これじゃあ、第十四層の同期関数一つを検証するのに何ヶ月かかるか分かったものじゃないな」


 里村清一が、乱暴にキーボードを叩きながら吐き捨てる。彼のデスクの周囲には、すでに何十本ものエナジードリンクの空き缶が、狂気的なまでの精度でピラミッド状に積み上げられていた。


 かつては先輩と後輩だった二人の間には、あのデスマーチの夜を経て、互いの才能への絶対的な敬意を前提とした、飾らない対等の言葉が通うようになっていた。


 細胞の核に人工DNAを組み込み、特定の臓器へと百パーセントの精度で自己組織化させる『バイオ・プログラミング・シェル』。そして、長泉良朗の神の指先によって生命のパルスを固定することに成功した、あの器。

 医学と情報工学の歴史を根底からひっくり返すはずのその世紀の発明は、保守的な倫理委員会の壁と、圧倒的な資源の不足という象牙の塔の限界に阻まれ、ただの机上の空論として塩漬けにされかけていた。


 彼らの運命が決定的に反転したのは、冷たい雨がすべてを灰色に染め上げる、秋の終わりの学会の帰り道のことだった。


 街灯の灯りが濡れたアスファルトに歪んでにじむ夕暮れ、並んで歩く三人の前に、一台の漆黒の高級車が水飛沫を上げて音もなく滑り込んできた。重厚なドアの向こう、後部座席の遮光ガラスがゆっくりと降ろされる。

 そこに座っていたのは、政界の影の支配者であり、国家の法すらも裏から歪めることのできる怪物――老齢の、笹山巌だった。


 その姿を一目見た瞬間、三人の天才たちの皮膚に、本能的な悪寒が走った。


 車内の暗がりに沈む老人の姿は、筆舌に尽くしがたいほどに醜悪だった。贅沢な毛皮のコートに包まれた肉体は、長年浴び続けてきた権力と金という名の毒素が凝縮したかのように弛み、ぶよぶよと膨らんでいる。脂ぎった顔に深く刻まれた皺の隙間からは、数え切れないほどの人間を磨り潰してきた者の、特有の腐った悪臭が漂ってくるようだった。


 何より悍ましいのは、その両眸だった。何層もの白内障の膜に覆われたかのように白濁したその瞳は、生き物の温もりを一切宿しておらず、ただ冷酷な支配欲と、老いへの底知れぬ恐怖だけをぎらぎらと滾らせて、三人の若者を値踏みしていた。


 老怪物は、地底に眠る巨大な蝦蟇(ガマガエル)のような声で、低く不敵に囁いた。


「君たちの研究には大いに興味がある。大学の予算の百倍を出そう。超並列演算サーバも、最新鋭の医療設備も、君たちの望むすべてを合法的に用意してあげる。……その代わり、来年までに、私に動く臓器を見せてくれ」


 その男が求めているものが、高潔な医療の発展などではないことくらい、彼らには痛いほど分かっていた。金と権力の頂点に君臨し続けた亡者が最後に行き着く、己の臓器を新品に交換し続けるという『究極のアンチエイジング』への執着。それは間違いなく、自分たちの魂を買い叩こうとする悪魔の契約だった。


 冷たい雨に打たれながら、悠一、里村、そして長泉は無言で視線を交わした。

 だが、彼らの瞳に宿っていたのは、倫理的な躊躇いなどでは決してなかった。大学という名の檻を抜け出し、無尽蔵の資源と、法すらも超越した絶対的な自由を与えられるという――それは狂気じみた、悍ましいほどの歓喜の炎だった。


 しかし、その悪魔の盤面を前にして、長泉だけは静かに首を振った。車が去った後の薄暗い街頭の下、良朗はいつも指先で弄んでいたメスをそっと白衣のポケットに収め、二人の顔を見つめた。


「悠一、清一。私は、その新しい組織の立ち上げに、直接籍を置くことはできない」

「どういうことだ、良朗。お前のあの指先のロジックを、ここで眠らせるつもりか」


 悠一が眉をひそめて問い詰める。良朗は死んだ魚のような瞳の奥に、長泉総合病院の跡取りとしての、逃れられない重い宿命を滲ませながら微笑んだ。


「私は、この大学の医学部を卒業したら、すぐに実家の病院へ戻って跡を継がなければならない。立場上、民間ベンチャーの設立メンバーに名前を連ねるわけにはいかないんだ。……だが」


 長泉はそこで言葉を区切り、里村の肩をぽんと叩いた。その物腰は丁寧さを保ちながらも、魂の底から突き上げてくるような強い敬意と情熱が満ちていた。


「お前たちが作り上げようとしているあの美しい器が、老害どもの倫理の壁に潰されるのだけは我慢がならない。だから私は、私の場所から、すべてのリソースを使って、陰ながらお前たちを支えることを約束する。必要な臨床データも、最先端の医療検体も、病院の裏からいくらでも回してやる。だから清一、お前はその工学の理想を、限界の先まで突き詰めてくれ」

「良朗……。十分だよ。君のその指先が裏でネットワークに繋がっているなら、私たちのシステムは世界で最も堅牢であり続けられる」


 里村が、どこか誇らしげに、そして深い信頼を込めて不敵に笑った。悠一もまた、長泉の決断を冷徹に、けれど確かな相棒への敬意を込めて受け入れた。


 その翌日、悠一と里村の二人は未練の欠片もなく大学へ辞表を叩きつけた。


――数ヶ月後。


 江東区東雲。大学の古びた建物の薄暗い研究室とは対照的な、超近代的な民間研究所『日本サイバトロニクス株式会社』の奥深くに、二人の姿はあった。


 外界から完全に遮断された実験室。

 里村は、出資者の潤沢な金で使い放題となった最新環境の圧倒的な並列計算資源に狂喜しながら、かつてない凄まじい速度で人工細胞核のコードを書き上げていた。長泉もまた、自身の病院での職務の傍ら、密かに最高峰の臨床データを提供し続け、人工肉体へのパルス定着実験を影から強力にバックアップしていた。


 ラボの中は、まさに科学の未来を切り拓くまばゆい光の時代を迎えていた。彼らは無敵だった。しかし、その光が強ければ強いほど、その足元にはドロドロとした濃い闇が生まれていた。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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