第八話 オーバーライド
悠一はシャツの襟元を静かに直し、その硝子のような網膜を、培養槽の白紙の顔へと向けた。彼の脳内で、弟・改二がホワイトボードに遺したあの原初のコードが、悪魔的な輝きを放ってスパークしていた。
「なぜ、古い肉体にこだわり、部分的な交換に終始する? 脳の電気信号――すなわち、その人間の持つ『意識、記憶、知識、魂』のすべてを、完全なデジタルデータとしてスキャニングし、外部へと抽出する。そして、このナノグラフェンが組み込まれた新しい器の脳へと――」
悠一は、まるで禁断の果実に手を伸ばすように、ゆっくりと、だが狂おしいほどの確信に満ちた声で、その言葉を告げた。
「丸ごとオーバーライドさせればよい」
「な……っ!?」
里村が、息を呑んで立ち上がった。その衝撃で、デスクの上の缶ピラミッドがわずかに微振動を起こす。
「脳の、オーバーライド!? 生身の脳から、意識をデータとして引っこ抜くというのですか!?」
「そうだ」
悠一は傲慢に、そして冷徹に言い放った。
「改二の発案したこの器は、ただの肉の塊ではない。ナノグラフェンの超伝導ネットワークは、人間の脳の演算回路をトレースし、上書きするための空っぽの器だ。古いハードウェアが寿命を迎えるなら、その中身だけを抽出し、新品のハードウェアへ移行する。これこそが、人間の肉体という不完全なシステムを根元からアップデートする、唯一無二の最適解だ」
それは、人間の尊厳を根底から揺るがす、あまりにも早すぎた「神への反逆」の思想だった。
長泉は、メスを握る指先を凍りつかせたまま、悠一のその底知れない野心に圧倒されていた。臓器移植という医学の延長線上に、まさか『人間を辞める』という究極の選択肢が隠されていたとは。
しかし、里村は、その狂気的な恐ろしさに戦慄しながらも、本能的に、そのシステムを現実のものにするための『アーキテクチャ』を、目まぐるしい速度で自動演算し始めていた。
「待ってください。柿枝先輩、そのアプローチを現実化する場合、生身の脳から新しい人工脳へ、ダイレクトにデータをストリーミング転送するのは危険すぎます」
里村は、自身の恐怖を上書きするように、恐ろしいほどの早口でロジックを組み立てていく。
「生体の脳パルスは常に不安定だ。転送中にノイズが混入したり、バスの帯域が飽和して同期エラーが起きれば、それは魂の破損――すなわち精神の完全な崩壊を意味します。データ転送中の魂の安全を保障するためには、絶対に、強固な中継地点が必要不可欠です」
「中継地点、だと?」
「はい。生身の人間から抽出した膨大な意識データを、一度、大容量の外部クラウドストレージへ完全にアップロードし、一時格納するのです。そこは外界のあらゆる物理的干渉から隔離された、絶対的に安全なデジタルデータの退避領域。そこでデータの整合性をチェックし、エラーをすべて取り除き、安全な状態にしてから新しい器へとダウンロードする。この、意識を一時的にプールする領域をネットワーク上に構築することこそが、この乗り換えシステムを成立させるための絶対条件です。より安全を考えると一時格納した意識が正常動作するか確認したいところですが」
意識のデジタル化、クラウドストレージへの一時退避、そして新しい肉体へのオーバーライド。人としての生き方が変わり、世界の在り方が変わり、死すらもただのバグとして排除される未来。自分たちは間違いなく、歴史の特異点に立っている。三人の若き天才たちの胸の奥には、天をも畏れぬ全能感が最高潮に達していた。
――だが、そんな彼らの熱狂の前に、冷酷な現実の壁が、あまりにも小さく、けれどあまりにも強固な檻となって立ち塞がった。
「ふん。美しい論理ですね、あなたたちは」
長泉が、自嘲気味な笑みを浮かべてコンソールを指差した。
「ですが、忘れないでいただきたい。私たちはまだ、大学という象牙の塔の中の、ただのポスドクと学生に過ぎませんよ。……この研究を、あの偏屈な倫理委員会が認めるとお思いですか?」
その言葉に、里村がハッと息を詰まらせた。
長泉の言う通りだった。大学の、そして国家の保守的な倫理委員会が、このような狂気の実証実験を許可するはずがなかった。
生身の人間から意識体を取り出し、人工の人間に移植するなどという行為は、彼らにとっては生命の冒涜であり、殺人であり、あるいは魂の搾取という名の禁忌に他ならない。
大学は間違いなく、倫理に触れるからという大義名分を振りかざし、彼らの研究を凍結し、この部屋ごと歴史の闇に葬り去るだろう。
さらに、意識データを丸ごとアップロードするための超並列演算リソースも、国家の法を無視して暗部を動かすための莫大な資金も、現在の彼らには欠片も存在しなかった。
「大学の枠組みの中にいる限り、この先へは一歩も進めない、ということか」
悠一は、ルーズリーフに書き殴られた数式を見つめながら、低く、呪うように呟いた。
理論は完成した。臨床も証明された。最高の三人が揃い、無敵のチームになったというのに、彼らは国家と倫理という『見えない現実の壁』の閉塞感にぶち当たり、朝焼けの光の中で、息を詰まらせるしかなかった。
◇
三人の天才が、圧倒的な野心の壁を前に焦燥を募らせていた、まさにその頃。
夜の永田町――既得権益の亡者たちが蠢く高級料亭の奥座敷。
部屋の隅に置かれた白熱灯の淡い光が、畳の上に長い影を落としている。
兄たちの研究が「神への反逆」へと至ったことも、彼らが今、資金と倫理の壁に突き当たっていることも、弟の改二はまだ知らない。ただ、最愛の兄の夢を守り抜くためには、大学という小さな枠組みを超えた法外な資金と強力な後ろ盾が必要不可欠であることを、彼は政治家としての鋭い嗅覚で察知し、暗躍を始めていた。
「素晴らしい理想だ、柿枝くん。君たち兄弟の才能を、大学という狭い檻に閉じ込めておくのは国家の損失だよ」
上座の影から、改二に向かってそう甘い言葉を囁き、慈愛に満ちた笑みを浮かべる老人がいた。政界の影の支配者であり、国家の法すらも裏から歪めることのできる怪物――笹山巌。
政治のドロドロとした底知れぬ悪意を知らない純粋な改二は、兄たちの未来を救うための唯一の希望をその老怪物の誘いに見出し、真っ直ぐな瞳で頷いていた。
「資金のことも、倫理のことも、私がすべて後ろ盾になってあげよう。君の望む未来を、私と一緒に作らないか?」
「はい。ありがとうございます、笹山先生。兄の研究は、必ず世界を救います。そのためなら、私はどんな努力も惜しみません」
改二は、差し出された手を、感謝とともに強く握り返した。
だが、その座敷の下座には、もう一人の影があった。
巌の傍らに静かに平伏し、改二よりも随分と年若いながらも、その肉食獣のような冷徹な瞳で改二をじっと凝視している少年――孫の笹山智行だった。
まだ政界の表舞台にも立っていない、何者でもない少年である智行は、祖父の甘言に絡め取られていく改二の姿を、まるで将来の獲物を値踏みするような冷酷さで見つめていた。改二が放つ、あの天性の、まばゆすぎる天才の輝き。それが、智行の胸の奥にある歪んだ野心を、これ以上ないほど激しく刺激していた。
改二が礼儀正しく一礼し、部屋を去っていく。その背中を見送った後、智行は誰も聞き取れないほどの低い、愉悦を孕んだ声で、静かに呟いた。
「お祖父様。あいつらがいつか、あの技術で会社を興すのなら。それは将来、僕が全部貰う」
無邪気で残酷な孫の強欲に、笹山巌は、ワイングラスを傾けながら低く笑った。
「ああ。お前をその頂点に座らせるための策は、既に練ってある。あとはあの若造が、私が用意した破滅の罠へと、自ら嬉々として飛び込むのを待つだけだ」
暗闇の中で共有された、柿枝の血脈からすべてを奪い取るための冷酷な密約。
将来のすべてを強奪することを誓う若き蜘蛛と、老怪物の冷たい視線が、これから始まる地獄を何も知らずに歩み去る純白の生贄の背中へと、ねっとりと絡みついていた。
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ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。




