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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第二章 神への反逆と禁断の果物

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第七話 ホワイトボードの隅

 夜明け前の最も深い闇が終わりを告げ、窓の外から、薄紫色の柔らかな光が室内に差し込み始めていた。

 三人は、極限の疲労と達成感の泥沼に浸かりながら、誰からともなく、部屋の隅にある簡易キッチンで随分と放置されていたコーヒーを手にしていた。今の彼らにとっては、それすらも極上の祝杯の味だった。


 長泉は、不味そうに眉をひそめながらもコーヒーを喉に流し込み、ふと、部屋の壁に備え付けられた大きなホワイトボードへと視線を向けた。

 そこには、昨晩の激しい論争の跡である数式やプログラムのフローチャートが乱雑に書き殴られていたが、その一番隅の、日の光が当たらない場所に、ひっそりと残されたままの落書きがあった。


 それは、どこか温かみのあるタッチで描かれた、尖った耳を持つエルフの絵。そしてその横に、小学生の可愛らしい筆跡で並ぶ、突拍子もないナノグラフェンとDNAの初期構造式だった。


 長泉は、その落書きの前へと歩み寄り、コーヒーカップを片手に、その数式の羅列を食い入るように見つめた。


「柿枝先輩。ちょっと気になったのですが」

「なんだ、長泉。お前のその死んだ魚のような目で、俺たちの聖域を汚すな」

「いえ、このホワイトボードの隅にある、エルフの絵と、このグラフェンの初期結合モデルの走り書き……。これ、あなたたちの字じゃないですよね。里村くんの神経質な文字でもなければ、柿枝先輩のあの傲慢な筆跡でもない。……これは、一体誰が書いたのですか?」


 長泉の問いに、里村もコーヒーをすする手を止め、ホワイトボードを見つめた。

 悠一は、手元のマグカップの黒い液体を見つめ、一瞬だけ、その氷のような瞳を優しく和らげて、静かに微笑んだ。


「――ああ。それは、俺の弟、改二の字だ」

「改二……。なるほど、この大学史上初の、最短で兄弟そろって博士号を攫っていったという、あの伝説ですか。通りで、医学部のへそ曲がりな教授連中すら一目置いていたわけだ。柿枝の姓を聞いた時からもしやと思っていましたが、合点がいきました」

「あいつは、俺のような泥臭いエンジニアとは違う。何もない白紙の盤面に、一瞬で世界の心理を描き出すような、本物の『発想の天才』だ」


 悠一は、少し誇らしげに、けれど永田町へと行ってしまった弟への切ない想いを滲ませながら語った。


「今、お前たちが目撃したあの培養槽の器の、ナノグラフェンを細胞に組み込むという異次元のパラダイムシフト。……その原初は、あのホワイトボードにある、あいつの何気ない落書きと、突拍子もない思いつきから始まったんだよ」


 悠一の言葉を聞いた瞬間、長泉良朗の身体が、微かに硬直した。

 長泉は、再びホワイトボードの小学生の筆跡へと視線を戻した。情報工学と合成生物学を物理的に強制縫合するという、あの狂気的でありながら、あまりにも美しすぎる初期衝動。それを、自分たちが出会う遥か前に、たった一人で、しかも子供の無邪気さで生み出していたという、まだ見ぬ少年。


 長泉の胸の奥で、その見えない天才への、底知れぬ憧憬と畏敬の念が、爆発的に膨れ上がっていった。長泉は、少年のようにその瞳をキラキラと輝かせ、コーヒーカップをデスクに置くと、心からの感嘆を込めて呟いた。


「すごいな……。まさか、そんな天才がこの世にいたとは。……私たちが一晩かけて命を懸けて繋いだパルスも、すべてはその弟さんの手のひらの上で踊っていただけというわけですか」


 長泉はホワイトボードのエルフの絵を愛おしそうに見つめ、それから悠一を振り返って、悪戯っぽく、けれど最高に真摯な笑みを浮かべた。


「柿枝先輩。この飛躍した発想が、巡り巡って、私たちという三人の天才を引き合わせたのですね。……あぁ、本当に。いつか、その素晴らしい弟さんに、直接会ってみたいものだ」


 朝焼けの光が、長泉のその無邪気な笑顔を白々と照らし出していた。


 培養槽の奥底から響き続けるその重厚な鼓動は、三人の天才たちが神の手から生命の主権をもぎ取ったことの、何より雄弁な証明だった。

 エメラルドグリーンの培養液は波紋を狂わせることなく、子どもの形をしたその肉体を、静かに、けれど圧倒的な生命の熱量とともに包み込んでいる。


 長泉は、グローブを脱いだ自らの手のひらを見つめ、それから歓喜に満ちた目で培養槽を仰ぎ見た。幼い頃から「生と死の絶対的な境界線」を叩き込まれてきた彼にとって、目の前で起きた現象は、医学の歴史そのものを一瞬で過去にするほどの、凄絶な大革命だった。


「信じられませんね。システムとしての論理が、これほど完璧に肉体の生理バグを叩き潰すとは。柿枝先輩、里村くん、私たちは今、本当の意味で歴史の特異点に立っていますよ」


 長泉は、慇懃な口調の中に抑えきれない興奮を滲ませながら、デスクの上のコーヒーカップを掲げてみせた。


「これで、医療の現場を縛り付け続けてきた最大の限界――ドナー不足という不条理は、この地上から完全に消滅します。拒絶反応のない、安心安全なスペアパーツ。心臓だろうが、肝臓だろうが、必要な臓器をこの器から切り出し、病める者へと移植すればいい。人類はあらゆる内臓疾患を克服し、平均寿命は容易に百歳を超える。これは医学の完全勝利ですよ」


 臨床の最前線で無数の手遅れを見てきた長泉だからこその、大いなる確信。しかし、その甘い見通しに対して、生真面目な里村は冷徹に首を振った。


「甘いですね、長泉さん。あなたのその視野の狭さは、やはりシステム全体を見通すエンジニアのそれではない。あなたはハードウェアの一部のパーツ、臓器しか見ていない。人間の肉体というアーキテクチャにおける最大のボトルネックは、パーツの劣化ではなく、メインプロセッサ――すなわち脳そのものの経年劣化です」

「脳、ですか」

「そうです」


 里村は、五缶目の空き缶を積み上げたピラミッドの二段目へとカチリと滑り込ませた。寸分のズレもない、冷酷なまでの物理的正確さ。


「どれだけ心臓や肝臓を新品のスペアに交換し続けたところで、神経ネットワークの基盤である脳細胞が老朽化し、記憶領域が萎縮し、バスの帯域が焼き切れる以上、パーツ交換による延命には物理的な限界があります。脳というコアが腐れば、周辺機器をどれだけ新調しようがシステムは一瞬でダウンする。私たちはまだ、経年劣化という死の根本的なバグを克服できてはいないのです」


 里村の突きつけた冷厳な工学的ロジック。長泉はその言葉の正しさを脳内で租借し、不快そうに眉間を寄せた。確かに、脳の老化だけは、現在の医学でも侵すことのできない聖域だった。完璧な肉体を得ながらも、やはり人間は脳の寿命という檻から逃れられないのか。二人の天才が再び沈黙に沈みかけた、その時だった。


 デスクの奥、朝焼けの光を浴びながら、端正な佇まいのまま腕を組んでいた悠一が、ゆっくりと、けれど地を這うような重々しい声で言葉を紡いだ。


「――だったら、臓器を切り出す必要などない」


 悠一の言葉に、里村と長泉の視線が同時に彼へと集まる。悠一はシャツの襟元を静かに直し、その硝子のような網膜を、培養槽の白紙の顔へと向けた。彼の脳内で、弟・改二がホワイトボードに遺したあの原初のコードが、悪魔的な輝きを放ってスパークしていた。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

ぜひ本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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