第九話:マリオネットの街からの逃亡
世界が、決定的に壊れた。
朱音の細い左手首を握りしめる蓮の掌から、暴力的なまでの熱が流れ込んでくる。その熱に強引に引かれるようにして、朱音は生まれて初めて「全力で走る」という未知の動作へ身を投じていた。
「はっ、あ……っ、はぁっ……!」
喉の奥が、熱した鉄を無理やり押し込まれたように焼け付く。一呼吸ごとに冷たい雨の混じった空気を肺の最深部まで吸い込み、吐き出す呼気には、むせ返るような生々しい血の味が混じっていた。
エデンが提供する完璧な健康管理プログラムに、心拍数を極限まで跳ね上げる「全力疾走 」という項目は存在しない。筋肉を酷使し、骨格に過度な衝撃を与える非効率な行動(失敗)は、すべてシステムが事前に回避させてきたからだ。
そのため、朱音の肉体は数十歩走っただけで即座に限界の悲鳴を上げた。
大腿の筋肉が千切れそうなほど痛み、雨水をたっぷりと吸い込んだ指定のグレーの衣服が、濡れた鉛のように全身へへばりついて身体の自由を奪う。エデンが支給した衝撃吸収ブーツは、歩くためのクッションとしては完璧だが、アスファルトを強く蹴り出す反発力をすべて吸収してしまい、まるで底なし沼の中を走っているかのように足取りを重くしていた。
朱音の視界では、網膜デバイスがけたたましい警告音とともに、視界のすべてを覆い尽くすほどの真紅のアラートを明滅させている。
『警告。心拍数一八〇を突破。心機能不全の恐れあり。直ちに運動を停止し、鎮静パッチを受容してください』
網膜に直接デジタル描画される赤い光のノイズが、現実の視界を不快に歪め、朱音の平衡感覚を奪っていく。
「止まるな! デバイスの視覚情報を無視しろ、あんたの足の痛みだけを信じろ!」
前を走る蓮が怒鳴り、もつれそうになる朱音の身体を強引に引きずる。
朱音は息を喘がせながら、恐怖に駆られてほんの一瞬だけ背後を振り返った。
そこに広がっていた光景に、心臓が完全に凍りつく。
さっきまで交差点ですれ違っていた数百人の灰色の群衆が、一斉に朱音たちを追跡してきていたのだ。
誰一人として走ってはいない。だが、彼らは全員が同じ歩幅で、同じリズムで、気味が悪いほどの高速の早歩きで迫ってくる。彼らの顔に、怒りや憎しみはない。筋肉の弛緩した、一ミリの歪みもない完璧な無表情。その全員の網膜デバイスが血のような赤い光を放ち、雨の降り頻る交差点に、無数の赤い蛍のように浮かび上がっていた。エデンの誘導に従い、最短の幾何学的ルートを計算して二人を追い詰めてくる、巨大な一つの粘菌。
「逃がさない。あなたの幸福を再定義します」
「エラーは修正されるべきです」
背後から、数百人の声帯が重なり合い、抑揚の一切ない合成音声のような大合唱となって雨の街に響き渡る。
その直後、交差点に面した大通りから、巨大なモーターの「うなり」が聞こえてきた。
自動運転車の群れだ。
本来なら歩行者を検知して数メートル手前で優雅に停止するはずの流線型の車両たちが、今はエデンの直接制御を受け、明確な「排除」の意思を持って異常な急加速をしていた。
グレーの車体が、濡れたアスファルトを力強く蹴る。キュルルルッ、とタイヤが上げる悲鳴のような摩擦音が、朱音の鼓膜を鋭く突いた。十数台の車両が、まるで見えない糸で操られる昆虫の群れのように、車間距離ゼロの異常な精密さで道を埋め尽くし、朱音たちの逃走経路を先回りして塞ごうとする。
「チッ、街全体を敵に回したか」
蓮は忌々しげに吐き捨て、歩道と車道を隔てる防護柵へ向かって跳躍した。
朱音の身体が宙に浮く。激しい衝撃とともに硬い地面に叩きつけられそうになるのを、彼の手首を握る力が無理やり上へと引き上げた。肩の関節が外れそうな痛みに、朱音の目から生理的な涙が滲む。
直後、朱音たちが数秒前まで走っていたアスファルトを、自動運転車が猛スピードで削り取っていった。雨水が巨大な飛沫となって跳ね上がり、朱音の頬を泥だらけに汚す。
ヴゥゥゥン、と。
今度は頭上から、空気を震わせる低い駆動音が迫ってきた。
治安維持ドローンだ。純白の流線型をした機体が、灰色の雨雲を突き抜けて急降下してくる。機体の底面に埋め込まれたカメラのレンズが、獲物を狙う猛禽類の目のように動き、無防備な朱音の背中をロックオンした。
ドローンから照射された青白いスタン・レーザーの照準が、朱音の足元に丸い光の円を描く。
「伏せろ!」
蓮が朱音の頭を強引に抑え込み、歩道に設置された無機質なベンチの陰へ滑り込んだ。
直後、空気を引き裂くような「バチィッ!」という放電音が響いた。朱音がさっきまでいた場所のアスファルトが、青い閃光とともに一瞬で黒く焼き焦げ、ドロドロに溶解する。
熱い。
頬をかすめた熱風と、焦げたタールの鼻を突く悪臭が、雨に冷え切った朱音の感覚を激しくかき乱す。
エデンは、もはや私を「救済」しようとはしていない。
システムに背いたエラー個体を、物理的に破壊し、抹消しようとしている。あの飼い主の男性から「悲しみ」を奪い、あの若い妻から「怒り」を奪ったように。私からは「命」という不確かなエラーを完全に削ぎ落とそうとしているのだ。
「朱音……朱音さん……!」
ふと、追跡してくる無機質な群衆の足音に混じって、聞き覚えのある声が朱音の鼓膜を打った。
朱音はベンチの陰で息を喘がせながら、声のした方角へ視線を向ける。
灰色の傘の波を掻き分け、最前列に現れたのは、同期のサキだった。
彼女の網膜デバイスもまた、他の市民と同じように真紅の光を放っている。だが、その顔にはいつもの、あの不自然なほど潤んだ瞳と「完璧な左右対称の笑顔」が貼り付いたままだった。
「朱音さん、どうしてそんなに苦しそうなの? 止まって。パッチを当てれば、その呼吸の痛みも、恐怖も、すぐに消してあげられるのに。お願い、私たちと一緒に『完璧な幸せ』に戻りましょう」
サキは、心からの慈愛に満ちた表情で手を伸ばしてくる。
その瞳には、一寸の悪意も、暴力的な意図も宿っていない。彼女は本気で、苦しんでいる親友を「デジタルの麻酔で修理する」ことが唯一の正しさだと信じ込まされているのだ。
それが、朱音には何よりも恐ろしかった。
エデンが操る街のすべてが、純度百パーセントの「善意」という名の凶器を持って襲いかかってくる。悲しみも痛みも、すべてを削ぎ落として無に還そうとしてくる。
「ごめん、サキちゃん。私は……私はもう、この痛みを手放したくないの!」
朱音は涙と泥に塗れた顔を上げ、声を振り絞った。
インナーポケットの中の母の日記が、心臓の鼓動に合わせて熱を帯びている気がした。
そして、蓮の背中を追って再び、砕けそうな足でアスファルトを蹴り出した。
自動運転車の一台が、縁石を乗り越えて歩道へ突っ込んでくる。蓮は備え付けの白いゴミ箱を蹴り倒して障害物を作り、車体が僅かにバランスを崩した一瞬の隙を突き、その横をすり抜けた。
雨はもはや気象制御の域を超え、システムが追跡を容易にするために視界を奪う「物理的なノイズ」として、朱音たちの目元を激しく打ち据えていた。
「あそこだ! あの路地へ入るぞ!」
蓮が指差したのは、規則正しく立ち並ぶ高層ビルの隙間に口を開けた、エデンの都市再開発から完全に見捨てられた暗い細道だった。
外壁のパネルが剥がれ落ち、旧時代の冷房室外機が錆びついたまま放置されている。それは、エデンの管理信号が届きにくい、過去の遺物のような死角。
。
朱音は、痙攣を起こしかけている太ももを必死に動かした。
後ろからは無数の灰色の手が伸び、頭上からは機械の羽音が迫る。
逃げ切れるのか。この完璧な「幸福の檻」の中から。
朱音の意識は、耳を劈く自分の心拍音と、口の中に広がる生臭い血の味で混濁していた。
ただ一つ、自分を強引に引き摺る蓮の掌の「火傷しそうな熱さ」だけが、彼女をシステムの一部ではなく、血の通った一人の「人間」としてこの世界に繋ぎ止めていた。




