第十話:オフラインの深淵へ
路地へ飛び込んだ瞬間、世界の音が変わった。
表通りの完璧な排水システムはここにはない。ひび割れたコンクリート。剥がれた壁のタイル。錆びついた室外機。制御された雨粒がそれらにぶつかり、無秩序な破裂音を立てる。
「奥へ走れ! 立ち止まるな!」
蓮の声が壁に反響する。
朱音はもう、意志ではなく反射だけで足を動かしていた。開いた口からは血の味と、路地に堆積したカビとヘドロの匂いが流れ込んでくる。喉の奥でヒューヒューと情けない音が鳴った。
背後から、無数の足音。
真紅のデバイスを光らせた市民たちが、路地の入り口を封鎖し、雪崩れ込んできている。この足場の悪いぬかるみでさえ、彼らの足音には一切の乱れがない。
『対象者の逃走経路を封鎖。鎮圧プロトコル、最終フェーズへ移行します』
頭上の狭い空から、二機のドローンが滑り込んできた。純白の機体が、不衛生な闇の中で異様な白さを放つ。
「そこだ!」
蓮が行き止まりの壁面へ飛びついた。
周囲の腐食と同化して赤茶色に変色した、巨大な鉄製の円形ハッチ。旧時代の汚水処理施設へ繋がる廃棄ゲートだ。
蓮が両手でハンドルを掴み、顔を歪めて回し始める。
ギ、ギギギギギッ……!
数十年、誰の手にも触れられていなかった金属が悲鳴を上げる。細い腕の筋が浮き上がり、首筋に血管が走った。だが、回りきらない。彼の体重が足りていない。
ヴィィィィン、と。
背後で、ドローンの充填音が限界に達した。青白い光が路地を昼のように照らす。
撃たれる。
朱音は、無意識のうちに蓮の隣へ飛び込み、ハンドルに両手を添えていた。
錆びた鉄が掌の皮膚を削り取る。痛い。だが、その痛みが力を生んだ。
「開けぇっ!」
二人ぶんの体重が鉄の塊に伝わり、バキンッ、という破断音とともにロックが弾け飛んだ。
「入れ!」
蓮が朱音の肩を掴み、縦穴の中へ突き落とす。
落下する一瞬。朱音の網膜は、路地の入り口に立つサキの姿を捉えていた。
頬を雨が伝い、瞳は真っ赤に発光している。それでも彼女の唇は、朱音を永遠の幸福へ導くための、あの微笑みの形を作っていた。
ガァァァァァァンッ!!
蓮が滑り込むと同時に、内側から鉄の扉が引き閉められた。
熱線がハッチの外側を焼き焦がす衝撃が、分厚い壁越しに鈍く響く。
そして、外界の音のすべてが、遮断された。
朱音は冷たいコンクリートの床にうずくまり、激しく咳き込んだ。肺が焼けるように痛い。擦り剥けた掌から、生温かい血が滴る。
視界の右下。生まれてから今日まで一度も消えたことのない、青白いアイコン。
それが、砂嵐のノイズを立てて明滅し始めた。
『システムとの……接続を……失いまし……』
合成音声が途切れる。ピィーッ、という耳鳴りが脳の奥で鳴り、直後、すべての光が消えた。
静寂。
それは、市役所を満たしていた人工の「無音」とは違った。遠くで地下水が滴る音があり、埃と鉄錆の匂いがあり、すぐ隣で荒い息を吐く人間の呼吸がある。何もかもが、デジタル処理を経由せずに直接届いてくる。
「……オフ、ライン」
その瞬間、肉体が牙を剥いた。
「はっ……ぁっ、あっ……!」
膝が体重を支えきれず、朱音は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
逃走のためのアドレナリンが枯渇し、同時に、システムが常時提供していた筋骨格サポートからの接続も切れている。自分の身体が、鉛のように重い。
寒い。
気象制御を失った雨水が衣服に染み込んでいる。体表温度の自動調整はもう働かない。奥歯がカチカチと制御不能な音を立て始める。
そして、それらすべてを上書きする感覚が、身体の最深部からせり上がってきた。
胃袋が内側から収縮している。キューッ、と胃壁がこすれ合い、酸の匂いが食道を逆流する。吐き気に似ているが、吐き出すものがない。
エデンのペーストは、消化の過程を極限まで省いて数分で血中へ栄養を送り込む設計だった。だから朱音は「腹が減って力が出ない」という感覚を知らなかった。決まった時間に流し込めば、システムが勝手に数値を満たしてくれた。
だが今、身体は空っぽだった。細胞のすべてが枯渇を検知し、内臓を掴んで揺さぶってくる。それは穏やかな「空腹感」ではなく、獣の飢えだった。
もう、自動で体温を上げてくれるシステムはない。疲労を消す麻酔も、胃を満たすペーストもない。
自分の足で立ち、自分の頭で考えなければ、明日には死ぬ。
圧倒的な喪失と、底知れない恐怖。
だが、その底流に、朝食の砂粒を噛み砕いた時の何千倍も強い安堵が渦巻いていた。
シュッ。
暗闇の中で、小さな摩擦音がした。
硫黄の匂いとともに、ぽっと灯りがともる。蓮が、旧時代のマッチを擦ったのだ。
風に揺らめくオレンジ色の炎が、カビと鉄錆の壁と、泥だらけの彼の輪郭を照らし出す。
エデンの均一な白い光とは違う。不規則に影の形を変え続ける、不完全で温かい光。
母の日記に記されていた、あの夕焼けと、同じ色だ。
蓮は無言のまま壁際の瓦礫の奥へ手を伸ばし、赤十字のマークが剥げかけた古いブリキの箱を引きずり出した。
「手を出せ」
差し出された朱音の左の掌は、皮膚が削り取られ、泥と黒ずんだ血が張り付いていた。逃げている間は麻痺していたが、視覚で傷を認識した途端、ヒリヒリとした熱が遅れて主張を始める。
箱の中身は、ピンセット、ガーゼ、茶色いガラス瓶。
「無痛パッチなんて気の利いたもんは、ここにはねぇ」
蓮がガラス瓶の蓋を回す。古いアルコールの、鼻を刺す匂いが漂った。
「声を出せば上のセンサーに拾われる。……悪いが、死ぬほど痛いぞ。噛んでろ」
彼は自分のジャケットの袖口を、朱音の口元へ押し当てた。
古い布と、雨と、汗の匂い。すべてが無臭に保たれた世界では許されない、生々しい人間の匂いがした。
朱音が布地を噛んだ直後。蓮は液体を、容赦なく掌へ垂らした。
——ッ。
声にならない絶叫が喉で詰まった。
むき出しの神経に焼き鏝を押し当てられたような激痛。全身の筋肉が硬直し、目から涙が溢れ出す。
「……っ、痛ぇよな。我慢しろ」
朱音は、涙で滲む視界の先で、自分の掌を握る手を見た。
熱い。
氷のように冷え切った皮膚へ、火傷しそうな体温が流れ込んでくる。
蓮はピンセットで、傷口に食い込んだ砂利や泥を一つずつ取り除いている。指先は微かに震え、泥だらけの顔は、まるで自分が痛めつけられているかのように歪んでいた。
どうすれば一番痛まないか。どこに泥が残っているか。どの強さでガーゼを当てれば血が止まるか。
彼の脳は今、他人の痛みだけを全力で考えている。
エデンの医療AIなら、コンマ数秒で終わる。そこには結果しかない。
だがここにあるのは、過程だけだ。
やがて、蓮が手を離した。
朱音の掌には、不格好な白い塊ができていた。巻き方は均一でなく、所々が分厚く歪んでいる。真っ白な布地には、すでに朱音の血と蓮の泥が付着していた。
「……ようこそ、最底辺の泥沼へ」
マッチの火越しに、蓮が疲れた、だがどこか挑発的な笑みを浮かべた。
その顔は泥と雨に汚れ、システムが推奨する対称性など微塵もない。傷だらけで、不器用な顔だった。
「あんたの『花束』はキャンセルだ。ここから先は、地獄より痛いぞ。……歩けるか」
朱音は、包帯の巻かれた掌をそっと胸に押し当て、震える両足に力を込めて立ち上がった。
「歩けるわ」
そして、歩き出そうとした蓮の背中に、朱音は言った。
「交差点で、あなたが聞いたこと。答えるわ」
蓮の足が止まった。
「市役所の地下三階に、電子化される前の紙の台帳が残ってる。花束の対象者の搬送記録。デジタルでは全部空白になってる欄が、紙には書いてあった」
マッチの火が、彼の指先で震えている。
「搬送先は、第七管理区画・地下四層。……『温室』っていう名前の、保全施設よ」
「……保全」
「そう。処分でも、火葬でも、埋葬でもない。保全よ」
朱音は息を吸い、言った。
「立会人の走り書きも挟まってた。初期化された人は、呼吸してる。心臓も動いてる。水を飲ませれば飲む。……ただ、こちらを見ない」
マッチが、燃え尽きた。
暗闇が二人を包む。
その闇の中で、朱音は聞いた。
人が息を吸って、途中で止めてしまった音を。
「……生きてる、のか」
蓮の声は、さっきまでとは別人のものだった。低くも、乱暴でもない。ただ、掠れて、ひどく細かった。
「あなた、誰を探してるの」
返事はなかった。
ただ、暗闇の奥から、砂利を踏む足音が遠ざかっていった。
朱音は、その音を追って歩き出した。




