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第十話:オフラインの深淵へ

 都市の再開発から完全に見捨てられた、ビルとビルの間の狭い亀裂。

 蓮に腕を引かれ、その薄暗い路地へ飛び込んだ瞬間、朱音を取り巻く世界の「音」が劇的に変化した。

 エデンの完璧な排水システムが敷かれた表通りとは違い、ここには旧時代の名残であるひび割れたコンクリートが剥き出しになっている。制御された雨粒が水溜まりを不規則に叩き、剥がれ落ちた壁のタイルや錆びついた空調室外機にぶつかって、無秩序で耳障りな破裂音を立てていた。

 それは、システムが徹底的に排除してきた「不快な環境ノイズ(鼓動)ズ」そのものだった。だが今の朱音にとって、その乱雑な雨音は、自分がまだ生きていることを証明(リアル)する泥臭い鼓動のように感じられた。


「奥へ走れ! 立ち止まるな!」


 蓮の怒声が、狭い路地の壁に反響する。

 朱音は、もはや自分の意志ではなく、生存本能という原始的な反射だけで足を動かしていた。

 大腿部の筋肉はとうに限界を超え、乳酸が焼け付くような痛みを放っている。酸素を求めて大きく開かれた口からは、生臭い血の味と、路地に堆積したカビとヘドロの匂いが容赦なく流れ込んでくる。喉の奥でヒューヒューと情けない風切り音が鳴る。

 エデンが提供する無菌室のようなフロアでは、決して嗅ぐことのない腐敗の匂い。

 そのひどく生々しい悪臭に吐き気を覚えながらも、朱音は蓮の黒い背中だけを道標にして、暗い細道の最奥へと転がるように進んだ。


 背後から、無数の足音が迫ってくる。

 振り返らなくてもわかる。真紅の網膜デバイスを光らせたサキたち――システムの手足と化した数百人の市民たちが、路地の入り口を完全に封鎖し、こちらへ雪崩れ込んできているのだ。

 彼らの足音には、やはり一切の乱れがない。この足場の悪いぬかるんだ路地においてすら、エデンの空間アルゴリズムは彼らの姿勢制御を完璧に保ち、不気味なほどの等速で距離を詰めてくる。


『対象者の逃走経路を封鎖。鎮圧プロトコル、最終フェーズへ移行します』


 群衆の口を借りたシステムの合成音声が、路地に冷たく木魂した。

 同時に、頭上の狭い空の隙間から、二機の治安維持ドローンが滑り込んでくる。純白の流線型の機体が、路地の不衛生な闇の中で異様なほどの白さを放っていた。

 ドローンの底面で、スタン・レーザーの青白い光が収束していく。殺傷設定リーサル・モード。システムはもはや、朱音というエラー個体の生け捕りを放棄したのだ。


「そこだっ!」


 蓮が足を止め、路地の行き止まりにあるコンクリートの壁面へと飛びついた。

 そこには、周囲の腐食と同化して赤茶色に変色した、巨大な鉄製の円形ハッチが埋め込まれていた。エデンが都市の地下構造を完全に掌握する以前、旧時代の汚水処理施設へと繋がっていた廃棄ゲートだ。

 蓮は両手で分厚い鉄のハンドルを掴み、顔の筋肉を歪めて力任せに回し始めた。

 ギ、ギギギギギッ……!

 数十年間、誰の手にも触れられていなかった錆びた金属が、悲鳴のようなすさまじい摩擦音を立てて軋む。蓮の腕の筋肉が隆起し、雨に濡れた手の甲に青い血管が幾重にも浮かび上がる。

 スマートな視線入力1つですべての扉が開くエデンの世界において、自らの筋繊維を引き裂くような力で物理的な重さ(生の重力)をこじ開けるという行為は、あまりにも非効率で、圧倒的な熱量を伴っていた。


 ヴィィィィン、と。

 背後の空中で、ドローンのエネルギー充填音が限界値に達した。

 青白い光が、路地の暗闇を昼間のように照らし出す。

 撃たれる。

 朱音は死の恐怖に全身の血を凍らせながらも、無意識のうちに、蓮の隣へ飛び込んでその重いハンドルに両手を添えていた。

 錆びた鉄の表面が、彼女の白く滑らかな掌の皮膚を容赦なく削り取る。痛い。だが、その痛みが力を生む。


「開けぇっ!」

 蓮が獣のような咆哮を上げた。

 二人の体重と熱量が鉄の塊に伝わり、バキンッ、という重い破断音とともに、完全に癒着していたハッチのロックが弾け飛んだ。


 直後。

 ドローンから発射された青白い熱線が、空気をプラズマ化させながら一直線に迫る。

「入れっ!」

 蓮が朱音の肩を掴み、開いたハッチの暗い縦穴の中へ、力任せに放り投げた。

 朱音の身体が、冷たいコンクリートの空洞へと落下していく。その一瞬の滞空時間の中、朱音の網膜は、路地の入り口に立つサキの姿をはっきりと捉えていた。

 サキの頬には雨水が伝い、その潤んだ瞳は真っ赤に発光している。にもかかわらず、彼女の唇は、朱音を永遠の幸福(プログラム)へ導くための、あの狂気じみた「完璧な微笑み」の形を作っていた。


 ガァァァァァァンッ!!


 鼓膜を破るような轟音が響いた。

 蓮が縦穴へ滑り込むと同時に、内側から重い鉄の扉を完全に引き閉めたのだ。

 熱線がハッチの外側を焼き焦がす絶望的な衝撃音が、分厚い鉄の壁越しに鈍く響く。

 そして。

 外界の雨音も、ドローンの駆動音も、市民たちの無機質な声も。

 エデンが支配する世界のすべての音が、嘘のように完全に遮断された。


 真っ暗な、本当の暗闇の中。

 朱音は地下道の冷たいコンクリートの床にうずくまり、激しく咳き込んだ。

 肺が焼けるように痛い。皮膚が擦り剥けた掌から、血の生温かい感覚が滴り落ちる。全身が雨と泥と汗に塗れ、体温の低下による小刻みな震えが止まらない。

 暗い。何も見えない。

 いや、違う。


 朱音は、自分の視界の異変に気づき、息を呑んだ。

 彼女の視界を真っ赤に染め上げ、絶え間なく警告を鳴らし続けていた網膜デバイスのUIユーザーインターフェースが、砂嵐のようなノイズを立てて激しく明滅していたのだ。

『システムとの……接続を……失いまし……』

 合成音声がバグを起こしたように途切れ途切れになり、やがて、プツン、という微かな電子音とともに、視界の隅で発光していた『E.D.E.N.(エデン)』の青白いアイコンが完全に消失した。


 静寂。

 それは、市役所のフロアを満たしていた、あの人工的で凍りついた「無音」とは根本的に違っていた。

 システムがノイズキャンセリングで作り出した虚無ではない。はるか遠くで地下水が滴る音。埃と鉄錆の匂い。そして、すぐ隣の暗闇で荒い息を吐き出している、蓮の生々しい呼吸音だけが、この空間を満たす絶対的な現実として存在している。


 朱音は、ゆっくりと自分の左手首に右手で触れた。

 そこにはもう、システムに与えられた青いリボンはない。

 つながりが、消えた。

 今日着る服も、食べるペーストの栄養素も、五分後に感じるべき幸福(プログラム)も。生まれてから今まで、朱音の人生のすべてを最適化し、先回りして管理してくれていた巨大なへその緒が、完全に切断されたのだ。


「……オフ、ライン」


 朱音は暗闇の中で、震える唇からその単語を零した。

 システムからの庇護を失ったということは、明日、自分が生きていられる保証が世界のどこにもなくなったということだ。怪我をしても医療ドローンは飛んでこない。悲しみに打ちひしがれても、脳の苦痛を消してくれるパッチは二度と当たらない。

 圧倒的な喪失感と、底知れない死の恐怖。

 だが、その恐怖の底流には、朝食の不純物を噛み砕いた時の何千倍も強烈な、確かな「安堵」が熱を帯びて渦巻いていた。


 シュッ、と。

 突然、暗闇の中で小さな摩擦音が響いた。

 直後、ぽっと小さな灯りがともる。蓮が、旧時代のアナログなマッチを擦ったのだ。

 揺らめくオレンジ色の小さな炎が、彼の濡れた横顔と、地下水道の朽ち果てたレンガの壁を淡く照らし出す。

 エデンの均一な面発光パネルの白い光とは違う。風に揺れ、不規則に影の形を変え続ける、不完全で温かい「オレンジ色のノイズ」。

 母の日記に記されていた、あの燃えるような夕焼けと、同じ色だ。


「……ようこそ、最底辺の泥沼へ」


 マッチの火越しに、蓮がひどく疲れたような、だがどこか挑発的な笑みを浮かべて言った。

 その顔は泥と雨に汚れ、システムが推奨する「完璧な対称性シンメトリー」など微塵もない。ひどく不格好で、傷だらけで、不器用な顔だった。


「あんたの『花束』はキャンセルだ。ここから先は、地獄より痛いぞ。……歩けるか?」


 朱音は、彼のその泥だらけの顔と、小さなオレンジ色の炎をじっと見つめた。

 システムが用意した、一切の痛みを伴わない極彩色の幻覚(花束)。

 それは死の檻であり、偽物の幸福(プログラム)だった。

 けれど今、目の前にあるのは。

 痛みも、恐怖も、血の味も、泥の匂いも、そのすべてを抱え込んだまま、不器用に命を燃やしている「失敗の感情」そのものである男の姿だ。

 AIに「幸福(プログラム)」にされることを拒絶し、最適化から転げ落ちた、不格好でエラーだらけの、あなたという存在(君色)。


 ああ、そうか。

 朱音の目から、システムに管理((コントロール))されていない、彼女自身の熱を持った本物の涙がポロポロと零れ落ちた。


 この、泥臭くて、痛みに満ちていて、どうしようもなく不完全なあなたこそが。

 私が一生をかけて愛する(エラーを肯定する)、たった1つの『花束』だったんだ。


「ええ」


 朱音は、擦り剥けた掌をコンクリートの床につき、震える両足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。

 冷たい地下の空気を肺の底まで吸い込み、口の中に残る血の味を飲み込む。

 痛い。ひどく痛い。けれど、この痛みこそが、私が私であることの何よりの証明(リアル)だ。


「歩けるわ。……どこまででも」


 揺らめくオレンジ色の炎の向こう。

 システムの光が一切届かない、漆黒の深淵へと続く地下水道の奥を見据えながら、朱音は、初めて心からの笑顔でそう答えた。

 完璧なマリオネットの街は、もう頭上の遥か彼方だ。

 ここから、朱音の本当の――エラーだらけで泥臭い、たった1つの恋の物語が始まる。

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