第十一話:缶切り
どれほどの時間、暗闇の底を歩き続けたのか、朱音には分からなかった。
接続されていた頃は、視界の右上に常に現在時刻と、目的地への最短ルートと、消費カロリーの予測値が表示されていた。今は、そのすべてが失われている。
自分の足が濡れたコンクリートを擦る音と、時折響く地下水脈の轟音、そして自らの浅い呼吸音だけが、世界のすべてだった。
エデンの市街地は、どこを歩いても摩擦のない平滑な素材で舗装されていた。傾斜があれば自動歩道が足の負担を肩代わりした。移動という行為すら、市民はただ結果としてそこに運ばれるだけだった。
だが、ここは違う。
剥き出しの鉄筋が牙のように飛び出した瓦礫。不規則に陥没した床。足首まで浸かる泥水。一歩踏み出すたびに、足の裏から予想外の衝撃が脳へ伝達される。
太ももは焼けるように痛み、関節は油の切れた機械のようにきしむ。空腹はもはや限界を通り越し、胃袋が自身の内壁を消化し始めているのではないかという錯覚に陥るほど、鋭い痛みを腹部の中心に発していた。
蓮は、あれから一言も喋っていない。
「……ここで少し休む」
不意に、数歩先を歩いていた蓮が立ち止まった。
巨大な配水管の影に隠れた、比較的乾燥した踊り場のような空間だった。天井を這うパイプの隙間から、微かに外気らしき気流が流れ込んでいる。
蓮は肩にかけていた薄汚れたバッグを床に下ろした。そして、中から無造作に何かを取り出し、朱音の足元へ放った。
ゴトッ、と重い金属音がして、それはコンクリートの上を転がり、朱音の爪先で止まった。
円柱形の、くすんだ銀色の塊。表面には色褪せて破れかけた紙のラベルが貼られており、かろうじて旧時代の言語で「黄桃」と印字されているのが読めた。
「……なに、これ」
「飯だ。食わなきゃ、ここから先は動けなくなる」
蓮はバッグの底から、さらに小さな器具を取り出し、座り込んだ朱音の目の前へ差し出した。
掌に収まるほどのサイズ。先端が鋭く尖り、歯車のようなものがついた無骨な道具。
「缶切りだ。使い方は分かるか」
「缶、切り……?」
「エデンみたいに、口を開けて待ってれば最適な栄養が流し込まれるわけじゃねぇ。ここでは、自分の飯は自分の手でこじ開ける」
突き放すような、冷たい声だった。
傷の手当てをしてくれた時の、あの不器用な温もりは欠片もない。彼は暗に「思考を止めるなら、ここで死ね」と告げていた。
朱音は震える指で缶切りを受け取った。冷たく、ずしりと重い。
包帯が巻かれた左手で、缶を床に押さえつける。
鋭利な刃先を、縁に当てる。
エデンの生活で、市民が刃物に触れることなどなかった。すべての怪我の要因は事前に排除され、料理という概念自体が存在しない世界では、指先を傷つけるリスクすら徹底的に管理されていた。
手元が狂えば、この刃先は簡単に自分の肉を裂く。
ガリッ、と鈍い音がして、刃がわずかに金属に食い込んだ。
朱音は奥歯を噛み締め、右手に体重をかける。
硬い。反発する金属の抵抗が、疲労しきった腕をきしませる。
ギコッ、ギコッ。
少しずつ、ミリ単位で蓋を切り裂いていく。押し込むたびに左手には熱を持った痛みが走り、額から脂汗が滲む。
頭がくらくらする。空腹で指先に力が入らない。それでも、朱音は考えることをやめなかった。どうすれば刃が滑らないか。どの角度で力を入れれば切れるのか。
一周の半分ほどを不揃いに切り裂いたところで、めくれ上がった隙間からとろりとした黄金色の液体が溢れ出した。
強烈な、暴力的なまでの甘い匂いが、カビと錆びついた空気を一瞬で塗り替える。
脳の報酬系を適度に刺激するだけの「計算された風味」ではない。果実の糖分が極限まで濃縮された、むき出しのカロリーの匂いだった。
「……っ」
朱音は缶切りを止め、ギザギザになった隙間から、その液体を指ですくい取った。
指を切るかもしれないという恐怖。指先にベタベタと張り付く糖分の感触。すべてが非効率で、不潔で、危険だった。
震える指先を、ゆっくりと口に運ぶ。
泥と血の味が混ざった舌に触れた瞬間。
脳髄を直接殴りつけられたような衝撃が走った。
甘い。
あまりにも、暴力的すぎるほど甘い。
粘膜を焼くような糖分の波が、飢餓状態の細胞一つ一つに爆発的に浸透していく。そして、その甘みの奥底に、微かなブリキの鉄の味が混ざり込んでいた。
決して洗練された味ではない。エデンの味覚アルゴリズムなら、不純物が多すぎると即座にエラー判定するような、粗野な味。
なのに、朱音の目からは涙が溢れ出していた。
「……おいしい」
しゃくり上げながら、朱音は言った。
ギザギザの蓋を指で押し広げ、柔らかい果肉を泥で汚れた指で直接掴み出し、貪るように口へ押し込む。
繊維を、自分の奥歯で噛み砕く。
甘い汁が口の周りを汚し、顎を伝って衣服に落ちる。朱音は構わず咀嚼を続け、指についたシロップまで音を立てて舐めとった。
蓮は壁に背を預けたまま、無言でその姿を見下ろしていた。
やがて、彼はもう一つの缶を取り出し、自分の缶切りで開け始めた。手つきは慣れきっていて、五秒もかからなかった。
「……あんた」
蓮が、缶の縁に口をつけながら、ぽつりと言った。
「なんで、あの台帳を持ち出さなかった」
朱音は指を舐める手を止めた。
「持ち出せば、二時間で燃やされるからよ。私が消えるのは構わない。でもあの紙が消えたら、四千八百六十二人がもう一度死ぬ」
沈黙。
やがて蓮は、短く笑った。笑い方が下手だった。
「……頭いいな、あんた」
「三年、あそこで働いてたから」
「そりゃそうだ。俺が四年かけて掴めなかったもんを、あんた一日で見つけやがった」
朱音は顔を上げた。
マッチの灯りは消えている。彼の表情は見えない。ただ、缶を握る指の関節が白く浮き上がっているのだけが、闇の中でかろうじて見えた。
「四年」
「あぁ」
「誰を探してるの」
長い、長い沈黙があった。
どこか遠くで、地下水が滴る音がしていた。
「……妹だ」
それきり、蓮は何も言わなかった。
朱音も、それ以上訊かなかった。
訊けば彼が壊れる音がする気がして、口を閉じた。
やがて蓮は立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「行くぞ。あと二時間も歩けば、人のいるところに着く」
「人?」
「エデンに捨てられた連中の吹き溜まりだ。……言っとくが、歓迎はされねぇぞ。あそこじゃ、あんたは『元・管理官』だ」
朱音は、空になった缶を見下ろした。
ギザギザの切り口。自分の手でこじ開けた、不格好な穴。
胃袋に落ちた重く熱い塊が、生きるためのエネルギーとなって、冷え切った血管を駆け巡り始めていた。




