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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第一部 無痛の箱庭と、反逆の産声
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第八話:最悪の出会い

 午後二時五十九分、五十九秒。

 中央駅前の巨大なスクランブル交差点。網膜デバイスのデジタル時計が三時ちょうどを刻むのと、十車線の歩行者用信号機が一斉に無機質なシアンブルーへと切り替わるのは、コンマ一秒の狂いもない完全な同時だった。


 交差点を囲む四隅の歩道から、数千人の市民が一斉にアスファルトの上へ足を踏み出す。

 靴音は存在しない。灰色の撥水コートを着て、透明な傘を真っ直ぐに差した群衆が、音もなく交差点の中央へと流れ込んでいく。誰の肩もぶつからない。誰の傘も触れ合わない。


 朱音もまた、その濁流の中へ足を踏み出した。

 傘を差していない彼女の身体は、冷たい雨粒に容赦なく叩きつけられている。水分を吸ったグレーの衣服が鉛のように重く皮膚へへばりつき、体温を容赦なく奪っていく。

 すれ違う市民たちは誰一人として、ずぶ濡れで震える朱音に視線を向けようとはしない。

 私は今、この世界で最も透明な幽霊だった。


 午後、三時ちょうど。

 朱音は、四方からの群衆が最も激しく交差する中心地点で足を止めた。

 周囲を無数の透明な円盤が、機械的な速度ですり抜けていく。

 左手首にきつく巻かれた青いリボンが、雨水を吸ってどす黒く変色し、重く垂れ下がっている。

 朱音は寒さと恐怖で震える唇を強く噛み締め、雨に煙る群衆の波を鋭く睨みつけた。


 その時だった。

 正面から向かってくる均一な灰色の波の中に、明らかに異質な「黒い染み」が混じっているのを、朱音の網膜は見逃さなかった。


 エデンが推奨する汚れの目立たないグレーのコートではない。すべての光を吸い込むような、非効率で、重苦しく、そしてひどく暴力的な漆黒のフード付きジャケットだ。

 彼もまた、朱音と同じように傘を差していなかった。深く被ったフードは雨水を弾くことなくたっぷりと吸い込み、ずっしりと濡れそぼっている。

 何より異様なのは、その歩き方だった。

 彼はエデンの空間調律を完全に無視していた。周囲の市民との距離感を測ることもなく、ただ一直線に、アスファルトを乱暴に蹴りつけるように歩いてくる。


 ドンッ、と。

 鈍い衝突音が、雨音のホワイトノイズを切り裂いた。

 彼の行く手を阻むように歩いていた数人の市民が、アルゴリズムの想定外の接近に処理を追いつかせられず、不器用に肩をぶつけてよろめいたのだ。透明な傘が傾き、制御された雨粒が不規則な軌道を描いて弾け飛ぶ。


 朱音の網膜デバイスが、けたたましい警告音とともに真っ赤なアラートを視界の全面へ展開した。

『警告。未登録の生体パターンが接近中。対象は重篤なエラー個体の可能性があります。直ちに距離を取り、保護パッチを受容してください』


 朱音はその警告を、視線入力で強引に遮断した。

 黒いフードの男が、群衆を乱暴に掻き分け、朱音の目の前で立ち止まる。

 背が高い。フードの奥から覗く瞳が、濡れた前髪の隙間から朱音を射抜くように見下ろしている。その双眸は、エデンの市民特有の「穏やかな無」とは対極にあった。焦燥、苛立ち、そして何らかの明確な敵意。それらが複雑に絡み合った、泥臭く生々しい熱を帯びていた。


「……あんたか」


 男が低い声で呟いた。

 鼓膜にストレスを与えない合成音声ではない。声帯の震えが空気を直接揺らす、本物の肉声だ。雨音に掻き消されそうなほど低く、少し掠れたその声は、朱音の鼓膜を乱暴に震わせた。


「システムが俺に宛てた、『最悪のバグ』ってのは」

「……え?」


 男の鋭い視線が、朱音の左手首に巻かれた青いリボンへと落ちる。

 彼は忌々しげに舌打ちをした。そして、フードの下から濡れた右手を素早く突き出し、朱音の左手首を無造作に掴み上げた。


「あっ……!」


 朱音の口から、短い悲鳴が漏れた。

 熱い。

 冷たい雨に打たれ続け、氷のように冷え切っていた朱音の皮膚に、彼の掌から暴力的なまでの熱が流れ込んでくる。血が巡り、心臓が激しく脈打っている確かな証拠。

 彼は青いリボンの結び目に指を引っ掛けると、躊躇することなく、力任せにそれを引き千切った。


 ブチッ、と安っぽい人工繊維が裂ける音が鳴る。

 手首を締め付けていた圧迫感が消え去ると同時に、朱音はシステムとのへその緒を物理的に切断されたような、恐ろしい浮遊感を覚えた。


「なっ、何を……!」

「こんな識別タグを巻いて突っ立ってたら、十分後には治安ドローンに包囲されて『花束』を贈られるぞ。本気で死にたいのか、あんた」


 花束。

 その単語を彼が口にした瞬間、朱音の背筋に決定的な悪寒が走った。

 この男は、知っている。


「……あなたは、誰?」

「質問は後だ。走りたくないなら、舌を噛んで気絶してろ」


 ピィィィィィンッ!

 不意に、交差点の四隅に設置された環境スピーカーから、鼓膜を物理的に突き破るような高周波のサイレンが鳴り響いた。

 同時に、朱音の網膜デバイスが視界のすべてを覆い尽くすほどの、毒々しい真紅のエラーメッセージで完全に埋め尽くされる。

『重大な規約違反を検知。対象者二名を重篤な精神汚染と認定。治安維持プロトコルへ移行します』


 周囲を歩いていた数百人の灰色の群衆が、一斉に足を止めた。

 ザッ、と靴の底が濡れたアスファルトを擦る音が、一つの巨大な生き物の足音のように交差点へ響き渡る。

 そして彼らは、不気味なほど統率された動きで、首だけを同時にこちらへ向けた。

 数百人の無表情な蝋人形たち。その全員の網膜デバイスが、一様に血のような赤い光を放っている。彼らはもはや、市民ではない。群衆が持つ数百本の透明な傘の先端が、まるで処刑を待つ罪人に向けられた槍のように、一斉に朱音たちの方角へと向けられる。


「チッ。もう網を張られてたか」


 男は吐き捨てるように言うと、朱音の細い手首を握る手の力をさらに強めた。

 ギリッ、と骨が軋むほどの痛みが走る。だが、その強烈な痛みが、朱音の意識を恐怖の凍結から強引に引き剥がした。


「ついて来い。灰色のゴミになりたくないならな!」


 男がアスファルトを力強く蹴り出す。

 朱音の身体は、強引な力に引かれて前のめりに倒れそうになりながら、雨の交差点へと引きずり出された。

 足元の水溜まりが大きく跳ね、冷たい飛沫が顔にかかる。

 火傷しそうな彼の掌の体温と、手首を締め付ける確かな痛みだけを命綱にして。朱音は紅蓮のアラートが明滅する狂気の世界へと、生まれて初めての全力疾走を始めた。

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