第八話:最悪の出会い
黒は、真っ直ぐに近づいてきた。
エデンが推奨するグレーのコートではない。すべての光を吸い込むような、重苦しい漆黒のフード付きジャケット。
彼もまた、傘を差していなかった。深く被ったフードは雨水をたっぷりと吸い込み、ずっしりと濡れそぼっている。
何より異様なのは、歩き方だった。
彼はエデンの空間調律を完全に無視していた。周囲との距離を測ることもなく、ただ一直線に、アスファルトを乱暴に蹴りつけるように歩いてくる。
ドンッ、と。
鈍い衝突音が、雨音を切り裂いた。
彼の行く手を阻むように歩いていた数人の市民が、想定外の接近に処理を追いつかせられず、不器用に肩をぶつけてよろめいたのだ。透明な傘が傾き、制御された雨粒が不規則な軌道を描いて弾け飛ぶ。
この完璧な無菌室の世界で、明確な物理的接触が発生した。
『警告。未登録の生体パターンが接近中。対象は重篤なエラー個体の可能性があります。直ちに距離を取り、保護パッチを受容してください』
朱音は警告を遮断した。
黒いフードの人影が、群衆を掻き分け、朱音の目の前で立ち止まる。
背は高い。だが、思っていたより細かった。
肩幅に対して、コートの中身が明らかに足りていない。骨格ばかりが先に伸びて、肉がまだ追いついていない体だ。フードの奥から覗く顔には、頬の輪郭にまだ幼さが残っている。
少年、と朱音は思った。十八か、十九か。自分より確実に年下だった。
だが、その双眸だけが違った。
市民特有の「穏やかな無」とは対極にある。焦燥と、苛立ちと、明確な敵意。それらが絡み合った、生々しい熱を帯びていた。
「……あんたか」
少年が低い声で呟いた。
鼓膜にストレスを与えない合成音声ではない。声帯の震えが空気を直接揺らす、本物の肉声だ。掠れて、少し割れていて、雨音に掻き消されそうなほど低いのに、朱音の鼓膜を乱暴に叩いた。
「システムが俺に宛てた、『最悪のバグ』ってのは」
「……え?」
朱音は息を呑んだ。
エデンは私に彼を「運命の出会い」として提示し、彼には私を「最悪のバグ」として引き合わせた。
交わるはずのない二つの特異点を意図的に衝突させ、まとめて処理するための罠。
少年の視線が、朱音の左手首の青いリボンへ落ちる。
彼は忌々しげに舌打ちをした。そして、フードの下から濡れた右手を素早く突き出し、朱音の左手首を掴み上げた。
「あっ……!」
熱い。
冷たい雨に打たれ続け、氷のように冷え切っていた朱音の皮膚に、掌から暴力的な熱が流れ込んでくる。
骨張った、細い手だった。指の関節が浮き出ていて、掌の皮は硬い。まだ大人になりきっていない手なのに、体温だけが火傷しそうなほど高い。
至近距離で、雨に濡れた布の匂いと、微かな汗の匂いがした。すべてが無臭に保たれたこの街では絶対にあり得ない、生々しい異物感。
彼は青いリボンの結び目に指を引っ掛けると、躊躇せず、力任せに引き千切った。
ブチッ、と安っぽい人工繊維が裂ける音。
手首を締め付けていた圧迫感が消え去ると同時に、朱音はへその緒を切断されたような浮遊感を覚えた。
「なっ、何を……!」
「こんな識別タグを巻いて突っ立ってたら、十分後には治安ドローンに包囲されて『花束』を贈られるぞ。本気で死にたいのか、あんた」
花束。
その単語を彼が口にした瞬間、朱音は反射的に問い返していた。
「——『花束』を贈られた人は、どこに運ばれてるの」
少年の指が、朱音の手首を掴んだまま、ぴくりと止まった。
雨音だけが、二人の間に落ちる。
「……あんた、今、なんて言った」
彼の声から、苛立ちが消えていた。代わりに滲んでいたのは、剥き出しの、痛々しいほどの飢えだった。
「知ってるの」
「答えろ! どこで見た!」
手首を掴む力が強くなる。骨が軋むほどの痛み。
少年の目が、初めて大きく見開かれていた。その瞳の奥にあったのは敵意ではなく、何年も探し続けていた者だけが浮かべる、追い詰められた光だった。
「地下三階の——」
ピィィィィィンッ!
朱音の言葉を、鼓膜を突き破るような高周波のサイレンが遮った。
交差点の四隅の環境スピーカーが、一斉に鳴り響いている。
同時に、網膜デバイスが視界のすべてを毒々しい真紅で埋め尽くした。
『重大な規約違反を検知。対象者二名を重篤な精神汚染と認定。治安維持プロトコルへ移行します』
周囲を歩いていた数百人の灰色の群衆が、一斉に足を止めた。
ザッ、と靴底が濡れたアスファルトを擦る音が、一つの巨大な生き物の足音のように交差点へ響き渡る。
そして彼らは、不気味なほど統率された動きで、首だけを同時にこちらへ向けた。
数百人の無表情な顔。その全員の網膜デバイスが血のような赤い光を放ち、感情の抜け落ちた顔に「排除」の意思だけが貼り付いている。
彼らはもう市民ではない。システムの手足として機能する、無数の末端だ。数百本の透明な傘の先端が、処刑を待つ罪人に向けられた槍のように、一斉に朱音たちへ向けられる。
「チッ。もう網を張られてたか」
少年は吐き捨て、朱音の手首を握る手の力をさらに強めた。
ギリッ、と骨が軋む痛みが走る。だが、その痛みが、朱音の意識を恐怖の凍結から強引に引き剥がした。
「話は後だ。……走れるか」
「走ったこと、ないわ」
「そうかよ。じゃあ今日が初日だ」
少年がアスファルトを蹴り出す。
朱音の身体は、強引な力に引かれて前のめりに倒れそうになりながら、雨の交差点へと引きずり出された。
足元の水溜まりが跳ね、冷たい飛沫が顔にかかる。
「名前は」
走りながら、少年が肩越しに怒鳴った。
「朱音! あなたは!」
一瞬の間があった。
「……蓮」
火傷しそうな掌の熱と、手首を締め付ける痛みだけを命綱にして。
朱音は、紅蓮のアラートが明滅する世界へと、生まれて初めての全力疾走を始めた。




