第七話:青いリボン
午後二時五十分。備品管理室。
体育館ほどもある広大な空間に、人間の職員はいない。壁の奥で巨大なソーターが稼働する、低く冷たいモーター音だけが満ちている。
朱音が所定のマーカーの上に立つと、天井のセンサーが網膜をスキャンした。
ピピッ、と電子音。壁面パネルが一箇所だけ音もなくスライドし、暗がりから透明なアクリルケースが押し出されてくる。
蓋を開け、指先で摘み上げる。
鮮やかで、不自然なほど均一な青。カラーコードで言えば#0000FF。鼻を近づけると、化学染料のツンとした匂いがした。エデンの指定工場で、一切の色ムラなく大量生産された規格品だ。
これを午後三時に左手首へ巻けば、欠落を埋める出会いが提供される。
朱音はリボンを見つめた。
広大な放牧地で管理される家畜の耳に、個体識別のタグを打ち込むような手口だった。
——けれど。
朱音は、それを左手首に巻きつけた。端と端を固く結ぶ。少しだけ力を込め、皮膚へ食い込むほどきつく縛り上げる。血流が阻害され、鈍い圧迫感が生まれた。
エデンが提供する衣服は「どこも締め付けないこと」が絶対の規格だ。だが今、朱音はこの痛みに似た抵抗感を、自分の肉体に求めていた。
地下三階に、あの人たちの行き先が書かれた簿冊がある。
私はそれを持ち出せなかった。持ち出せば燃やされると分かっていたからだ。
なら、どうする。一介の管理官の権限では、第七管理区画・地下四層になど一生辿り着けない。
——だから、行く。
エデンが私を「欠落のある個体」と判定し、わざわざ相手を用意してまで修正しようとしているのなら。その修正の現場こそが、システムの内側へ入る唯一の穴だ。
自分から罠に足を入れる。それ以外に、内側を見る方法がない。
朱音は結び目をもう一度強く引っ張った。
午後二時五十三分。
『自己最適化のための外出届』を送信し、一階エントランスへ向かう。
ガラスの自動ドアが滑らかに開き、管理された空気が外へ吸い出され、代わりに湿った匂いが頬を撫でた。
外の世界には、予報通り、音のない雨が降っていた。
気象制御フィールドによって、雨粒のサイズも落下速度も完全にコントロールされている。傘を叩く破裂音も、視界を遮る豪雨もない。排水システムは完璧に機能し、水溜まり一つできない平坦なアスファルトが、ただ濡れて黒く変色しているだけだ。
歩道を行き交う市民たちは皆、同規格のグレーの撥水コートを羽織り、透明な傘を真っ直ぐに差している。上から見下ろせば、無数の半透明な円盤が、巨大な魚の鱗のように規則正しく蠢いていることだろう。
舌打ちをする者も、水溜まりを避けて不規則なステップを踏む者もいない。統制されて泳ぐ、意思を持たない魚の群れだった。
朱音は庇の下で、支給品の透明な傘を握りしめた。
手元のボタンを押せば、傘は自動で開く。靴を濡らす不快感も、体温を奪われる疲労も、すべて最適に遮断される。
だが。
朱音は、ボタンから指を離した。
傘を閉じたまま左手に持ち替え、無防備な姿のまま、灰色の雨が降り注ぐアスファルトへ足を踏み出す。
冷たい雨粒が、額に、頬に、容赦なくぶつかって弾けた。
制御されているとはいえ、それは紛れもない本物の水だ。瞬く間に髪は濡れそぼり、衣服は水分を吸って鉛のように肌へ張り付いた。
『警告。体表温度の急激な低下を検知しました。直ちに傘を展開し、推奨された雨天回避ルートへ移行してください』
朱音は警告を視線入力で遮断した。
冷たい。重い。気持ち悪い。
濡れた布が皮膚にまとわりつく感触は、極めて不快だった。足を踏み出すたび、靴の中で水がぐちゃりと嫌な音を立てる。
それでも、歩みは止めなかった。
この不快感だけが、今、自分が確かにこの世界に肉体を持って立っていることの証明だったからだ。
午後二時五十七分。
中央駅前の巨大なスクランブル交差点が、灰色の雨の向こうに見えてきた。
十車線の十字路。歩行者用信号は赤。四隅には、灰色の傘を差した数千人が静かに立ち並んでいる。車の走行音も、話し声もない。ただ、制御された雨粒が地面を叩く「サーッ」というホワイトノイズだけが空間を支配していた。
朱音は群衆の最前列へ進み出た。
すれ違う市民たちは、ずぶ濡れで歩く異常な朱音を、誰一人として見ようとはしない。彼らの認識フィルターは、システムから逸脱した個体を、最初から見えないノイズとして処理している。
私は今、この世界で最も透明な幽霊だ。
心拍数が上昇し、網膜が警告色を点滅させる。
朱音は、母の日記に書かれていた、あの燃えるようなオレンジ色の空を思い浮かべた。心を鎮めるためではない。監視を欺くためだ。
午後二時五十九分。
信号機が、血のような赤から無機質なシアンブルーへ切り替わる。
ザッ、と。一つの巨大な生き物の足音のような、規則正しい歩行音が交差点に響いた。
数千人のグレーの市民たちが、一斉に歩き出す。
朱音もまた、その渦の中へ足を踏み出した。
雨は次第に激しさを増していた。気象制御が、市民の精神的な高ぶりを鎮めるために、雨粒を「より細かく、より冷たく」調整したのだ。
頬を伝うのが雨水か冷や汗か、自分でも分からなかった。
中心部へ。
四方から流れ込む群衆が、最も密集する地点。
午後三時、ちょうど。
朱音は、交差点のど真ん中で足を止めた。
周囲を無数の透明な円盤が、機械的な速度ですり抜けていく。
濡れた左手首を持ち上げる。青いリボンが、雨水を吸ってどす黒く変色し、重く垂れ下がっていた。センサーを反射して、微かに発光を始める。
心拍数は、すでにシステムの許容限界に達していた。
来る。
何かが、来る。
朱音は濡れた前髪の隙間から、雨に煙る交差点の「向こう側」を見つめた。
均一なグレーの波の中に。
すべての光を吸い込むような、明らかに異質な黒が混じっているのを、彼女の網膜は見逃さなかった。




