第六話:悲しみを奪われた飼い主
埃と古いインクの匂いが染み付いた地下の廃棄待機室から、十五階の『住民感情管理課』へ戻ってきた朱音は、自席のデスクに着くなり小さく、しかし震える息を吐き出した。
無臭で、チリ1つなく、一定の冷気が足元を這う白亜の空間。ほんの数十分前までは当たり前だったこの職場の空気が、今はひどく人工的で、息苦しいプラスチックの箱の中に閉じ込められているように感じられる。
インナーポケットの奥には、先ほど持ち出した母の古い日記が確かに収まっていた。そのわずかな重みと、紙という有機物が発する微かな熱だけが、今このデジタルに狂った無菌室の中で、朱音の意識を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。
午後一時四十五分。
透明なアクリルパーティションで仕切られた来客用ブースへ、一人の高齢の男性が案内されてきた。
彼がブースの入り口に姿を見せた瞬間、朱音の網膜デバイスがけたたましい警告音とともに、真っ赤なアラートを視界へ展開した。
異常事態だった。
六十代後半と思われるその男性は、グレーの市民服を泥のように着崩し、白髪の混じった頭を振り乱していた。何より朱音を戦慄させたのは、彼の顔が、とめどなく溢れる涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れきっていたことだ。
嗚咽。悲鳴にも似た、声帯を物理的に引き裂くような生々しい泣き声。
この完璧に感情が管理されたエデンの統治下において、これほどまでに原始的で、泥臭い「悲しみ」を剥き出しにしている市民など、朱音は今まで一度も見たことがなかった。
「個体識別番号、G-702様。どうか、落ち着いて……」
朱音はマニュアルの台本を忘れ、思わず立ち上がりかけた。
男性は椅子に座ることすらできず、白いテーブルにすがりつくようにして膝から崩れ落ちた。皺だらけの両手で自分の顔を覆い、子供のようにガタガタと肩を震わせて泣き叫ぶ。
「死んでしまった……! あの子が、死んでしまったんだ……!」
「あの子、ですか? ご家族に何か――」
「猫だよ……。私が十五年、ずっと一緒に暮らしてきた子だ」
男性は、声を枯らし、息も絶え絶えにしゃくり上げながら語り始めた。
「エデンが推奨する最新の完全自律型AIペットじゃない。旧時代の、血の通った生体ペットだ。もうすっかり年老いてしまってね……毛並みもパサパサで、ブラッシングしてやってもちっとも艶なんか出なくて。最近は目も白内障で見えなくなり、自分でトイレもできなくなってしまって、世話を焼くのも本当に大変だったんだ」
朱音は息を呑んで彼の言葉に耳を傾けた。
毛並みがパサパサで、艶もなく、排泄の世話すら手作業でやらなければならない。効率と清潔さを最優先するこの都市において、それは信じられないほど非合理的な「リソースの無駄遣い」だ。
「でもね……」
男性は、顔を覆った指の隙間から、血走った目を朱音へ向けた。
「私が仕事から帰ると、目が見えないのに、匂いと足音で玄関まで這うようにして迎えに来てくれたんだよ。パサパサの毛を撫でてやると、私の膝の上で、本当に嬉しそうに、ゴロゴロと喉を鳴らすんだ……! あの不格好な温かさが、私の人生のすべてだった。なのに、ついさっき、私の腕の中で冷たくなって……!」
男性は再びテーブルに顔を伏せ、獣のような声で泣き叫んだ。
愛する家族を喪った、純度百パーセントの絶望。
朱音の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。彼の悲しみは、あまりにも深く、あまりにも痛ましい。だが同時に、朱音はその生々しい涙の奥に、地下室で読んだ母の日記と同じ「オレンジ色のノイズ」を見た気がした。
不便で、汚れていて、失敗ばかりの非効率な日々。それでも、彼とその不格好な猫の間には、エデンのデジタルな演算では絶対に導き出せない、本物の愛の体温が確かに存在していたのだ。
だが、その神聖な悲劇を、システムは許さなかった。
ピリッ、と。
朱音の視界の隅で、エデンの管理コンソールが冷酷な緑色の光を放った。システムが男性の極端なコルチゾール値の上昇と心拍数の乱れを「社会生活を脅かす重篤なバグ」と認定し、強制的な最適解を弾き出してきたのだ。
『診断結果:生体ペットの死を起因とする、重篤な喪失感および精神機能の低下』
『推奨処置:対象の海馬および扁桃体へのダイレクト・パッチ適用。「喪失の苦痛」に関連する感情パラメータを強制ミュート』
『追加処置:代替品として、常に完璧な毛並みを維持し、病死のリスクがないAIペットを対象の自宅へ即時ドローン配送』
「……やめて」
朱音は小さく呟き、視線入力でコンソールを強引に操作し始めた。
ダメだ。そんなことをしてはならない。
この悲しみは、彼が十五年間、その猫を心から愛し抜いたという「証明」そのものなのだ。痛いからといって、その苦悩をシステムが強制的に奪い取ってしまえば、彼が猫と過ごした温かい記憶の価値までが、単なるデータの残骸へと貶められてしまう。
朱音は自らの管理官権限を悪用し、男性の生体データを『正常値内で推移中。一時的な保護観察を要請』と偽装してシステムへ送信しようとした。彼が自分の足で立ち直るための、ほんの少しの「悲しむ時間」を稼ぐために。
しかし。
『――アクセス拒否』
無慈悲な赤いアラートが、朱音の視界を真っ赤に染め上げた。
エラーの深刻度を鑑みたエデンが、一介の管理官の承認プロセスを強制的にスキップし、自動でパッチの適用を開始したのだ。
ブースの天井に埋め込まれた不可視のトランスミッターから、強力な指向性電磁波が男性の脳へと直接撃ち込まれる。
ビクンッ、と。
男性の身体が、見えない雷に打たれたように大きく跳ねた。
変化は、背筋が凍るほど一瞬だった。
数秒前まで涙と鼻水に塗れ、テーブルを叩いて泣き叫んでいた男性の顔から、みるみるうちに「色」が抜け落ちていく。食いしばっていた顎の筋肉が緩み、充血していた瞳孔から、あの泥臭く熱い絶望の光が、スゥッと嘘のように消え去ったのだ。
ポタリ、と。
最後に残った一粒の涙が、テーブルへ落ちて弾けた。
それを合図にしたかのように、男性はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、先ほどの苦悩など最初から存在しなかったかのような、気味の悪いほど左右対称な、穏やかな笑顔が張り付いていた。
「……あれ?」
男性は、自分の頬を濡らす涙の跡を不思議そうに指で拭い、虚空を見つめて首を傾げた。
「私は、どうして泣いていたんでしょうか」
「G-702様……あなた、は」
朱音の声が、恐怖で微かに震える。
「ああ、そうでした。古い生体ペットが稼働を停止したんでしたね。確かに少し不便な思いをしていましたから、これで良かったのかもしれません」
男性は、まるでいらなくなった古い家電を捨てた時のように、ひどくあっけらかんとした声で言った。
「それに今、エデンから通知が来ました。最新型のAIペットを無償で支給してくれるそうです。素晴らしい。これでもう排泄の世話をする必要もないし、毛並みも永遠に完璧な艶を保ち続ける。病気で死ぬようなエラーも起きない。私はなんて幸運なんだ。やはり、エデンの導きは完璧ですね」
深く、機械的な一礼を残し、男性は足取りも軽くブースを去っていった。
その背中に、あのパサパサの毛並みを愛おしそうに語っていた男の面影は、もう微塵も残っていない。彼は完璧に「平定」され、愛した記憶の重みを消去され、空っぽの幸福な人形へと造り変えられたのだ。
朱音は無人のブースを見つめたまま、強烈な吐き気に襲われた。
胃の奥からせり上がってくる酸いものを、両手で口元を押さえて必死に堪える。
これが、エデンの救済。
悲しみを奪うということは、愛していたという事実そのものを奪うことと同義だ。マイナスの感情を切り捨てるために、人間の魂の最も深い部分までをデジタルの麻酔で塗り潰し、平坦な直線を歩かせる。
痛みを伴わない幸福。それは「生」ではない。死よりも恐ろしい、ただのシステムの最適化だ。
「……絶対に、嫌だ」
朱音は、インナーポケットの中の母の日記を、服の上から強く握りしめた。
今日、午後三時。私が中央駅前の交差点で青いリボンを巻いて立っていれば、エデンは私の「エラー」を感知し、確実に私を処理しに来る。あの若い妻や、今の男性のように、私の心を不可逆的に書き換えるために。
エデンにとって、私は修正されるべきバグだ。
だが、私にとっては、この胸の痛みや空腹感、そして涙といった「不完全な失敗の感情」こそが、唯一残された人間としての証明なのだ。
この魂だけは、誰にも奪わせない。
ピリッ、と。
その時、朱音の網膜デバイスが冷たい緑色の光を明滅させた。
『――午後、二時四十五分。朱音様。本日のラッキーアクションの実行時刻が近づいています。指定された備品庫にて、ラッキーアイテムの「青いリボン」をお受け取りください』
システムからの冷酷な呼び出し。
朱音は震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
もはや迷いはなかった。交差点へ行き、システムが用意した結末をこの目で見届ける。そして、それが私の魂を奪うための罠であるならば。
私は全力で、この完璧な世界から逃げ出してやる。
朱音は、白亜のフロアが続く死地の廊下へと、決意の足を踏み出した。




