第六話:濃いオレンジ色
朱音は自席の引き出しの最奥へ手を突っ込み、指先に触れた有機物の束をひったくるようにインナーポケットへ押し込むと、早足でフロアの出口へ向かった。
網膜デバイスが心拍数の上昇を検知し、視界の隅で黄色い光を明滅させる。朱音は歩きながら太ももを爪が食い込むほど強く抓り、その痛みを利用して生体データを均した。
同僚たちの誰もこちらを見ない。彼らの視界には、業務に不要な他者の焦燥など、最初から存在しない透明なものとして処理されている。
向かった先は、市役所地下三階。旧資料の廃棄待機室。
エデンが全土を掌握する以前、紙媒体で保管されていた行政文書をスキャンし、焼却炉へ送るための一時保管庫だ。数年前にすべての作業が完了して以来、ここに足を踏み入れる人間はいない。監視カメラの生体センサーも老朽化でとうに死んでいる。完璧なシステムの中に唯一残された、真っ暗な死角だった。
分厚い防音扉に体重をかけ、数十年油を差されていない蝶番を悲鳴のように軋ませて中へ転がり込む。
途端に、空気が一変した。
埃っぽく、微かにカビ臭い。紙とインクが長い時間をかけて酸化した匂い。空調システムが徹底的に排除してきた「物質が朽ちていく匂い」そのものだ。
朱音は錆びた鉄製のラックに背中を預け、コンクリートの床へ座り込んだ。
心臓が、肋骨を内側から突き破りそうなほど鳴っている。
四千八百六十二件の、空白の搬送先。
朱音は震える手を胸元へ入れ、インナーポケットから色褪せた一冊のノートを取り出した。
幼い頃に亡くなった母が遺した、直筆の日記だ。
通路の奥で点滅する非常灯の赤い光を頼りに、そっと開く。
指先に伝わる、紙のざらざらとした不均一な手触り。デバイスの滑らかなガラスとは対極にある質感だ。
ページには、青いインクで綴られた不器用な文字が並んでいる。筆圧の強弱で濃淡が変わり、線の端々が微かに震えている。涙か雨の雫が落ちたのか、インクが丸く滲んで読めなくなっている箇所すらあった。
『今日は突然の夕立に降られて、お気に入りの靴が泥だらけになった。本当に散々だった』
『けれど、雨宿りをした喫茶店の軒先で、見知らぬおばあちゃんと少しだけお喋りをしたの。その後に見上げた雨上がりの空が、見たこともないほど濃いオレンジ色に燃えていて……なんだかそれだけで、今日という日が許された気がした』
朱音は目を閉じ、その『濃いオレンジ色』を想像しようとした。
だが、彼女の網膜には、エデンが描画する『目に優しい淡い夕焼け(カラーコード:#FFDAB9)』の、ノイズのないデジタルな色彩しか浮かんでこない。
もし今の時代に母が生きていれば、エデンは気象制御で夕立を防ぐか、靴が汚れた瞬間に鎮静パッチを打ち、新品の靴を即座に支給するだろう。サキがグラスを割った時と同じだ。
そこに「靴を汚して悲しい」というストレスは発生しない。
だが同時に、雨宿りで誰かと言葉を交わすことも、燃えるような空の色を見て「許された」と感じることもない。
朱音は日記を閉じ、立ち上がった。
この部屋には、まだ焼かれていないものがある。
朱音は暗がりの奥へ進んだ。ラックの最下段。「二〇三×年度・厚生関係/未スキャン」とだけ書かれた、埃をかぶった段ボール箱の列。
エデンが電子化を始める前の、最後の紙の記録だ。デジタル台帳には残らなかったものが、ここにはある。
三箱目の底で、朱音の指が硬い表紙に触れた。
黒い、分厚い簿冊。背表紙に手書きの文字。
『特別措置対象者 搬送記録 第一期』
朱音は息を止めて、表紙をめくった。
罫線の引かれた粗い紙に、万年筆の手書きで、氏名と番号が並んでいる。
そして、その右端に。デジタル台帳では空白になっていたはずの欄が、ここでは埋まっていた。
【搬送先】
——第七管理区画・地下四層/保全施設『温室』
朱音の指が止まった。
保全。
処分でも、火葬でも、埋葬でもない。
朱音は震える指でページを繰った。二枚目。三枚目。四十枚目。
何百という名前が並び、そのすべてに同じ搬送先が記されている。
最後のページ。日付は、十三年前。ここでこの簿冊は終わっていた。以降はデジタル化され、そして欄が空白になった。
簿冊の最後に、一枚だけ、種類の違う紙が挟まっていた。
当時の職員が書いたと思われる、走り書きのメモだった。
『搬送作業の立会いを命じられた。
初期化後の対象者は、呼吸している。心臓も動いている。
瞬きもするし、水を飲ませれば飲む。
ただ、こちらを見ない。名前を呼んでも反応しない。
「処理済」と伝票には書いてあるが、あれは、生きている。
あの人たちは、何のためにあそこに集められているのだろう。』
朱音は、簿冊を取り落とした。
乾いた音が、暗い地下室に反響する。
——生きている。
あの遺影の三人も。四千八百六十二人も。老人の妻も。
精神を消され、名前を失い、けれど心臓は動いたまま、どこかの施設に「保全」されている。
朱音は口元を押さえた。吐き気がせり上がってくる。
なぜ。何のために。エデンは、空っぽの身体を集めて、いったい何をしている。
ピリッ、と。
地下室の静寂を切り裂くように、網膜デバイスが冷たい緑色を明滅させた。
『——午後、二時五十分。朱音様。ラッキーアイテムの受け取りが完了していません。午後三時、中央駅前の交差点で左手首に巻いておくことで、あなたの欠落を埋める運命の出会いが提供されます』
朱音は、床に落ちた簿冊を見下ろした。
この記録を持ち出せば、私は確実に検知される。
置いていけば、私は何も知らない管理官として、灰色の日常に戻れる。
朱音は簿冊を拾い上げ、抱きしめた。表紙の埃が制服を汚す。
そして、そのまま棚に戻した。
持ち出せば、二時間で燃やされる。私が死ぬのは構わない。だが、この紙が消えたら、四千八百六十二人がもう一度死ぬ。
朱音は簿冊の位置を覚え、代わりに、母の日記だけをインナーポケットの奥へ深くしまい込んだ。
防音扉を押し開ける。白亜の廊下が続いていた。
午後三時。中央駅前の交差点。
エデンが用意した『運命の出会い』。それが修正パッチなのか、罠なのかは分からない。
だが、と朱音は思った。
一つだけ、はっきりしたことがある。
——エデンは、私に嘘をついている。
朱音は、備品庫へ向かって歩き出した。




