第五話:悲しみを奪われた飼い主
午後二時十五分。
吐き気を堪えてブースに戻った朱音の前に、次の来客が案内されてきた。
その姿を見た瞬間、朱音の網膜デバイスが警告音とともに真っ赤なアラートを展開した。
六十代後半と思われる男性。グレーの市民服を泥のように着崩し、白髪の混じった頭を振り乱している。
何より朱音を戦慄させたのは、彼の顔が、とめどなく溢れる涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れきっていたことだった。
嗚咽。声帯を物理的に引き裂くような、生々しい泣き声。
感情が完全に管理されたこの統治下で、これほど剥き出しの悲しみを晒している市民など、朱音は一度も見たことがなかった。
「個体識別番号、G−七〇二様。どうか、落ち着いて……」
朱音はマニュアルの台本を忘れ、思わず立ち上がりかけた。
男性は椅子に座ることすらできず、テーブルにすがりつくようにして膝から崩れ落ちた。皺だらけの両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせる。
「死んでしまった……! あの子が、死んでしまったんだ……!」
「あの子、ですか。ご家族に何か——」
「猫だよ。……私が十五年、ずっと一緒に暮らしてきた子だ」
男性は、声を枯らし、しゃくり上げながら語り始めた。
「最新の自律型AIペットじゃない。旧時代の、血の通った生体ペットだ。もうすっかり年老いてしまってね。毛並みもパサパサで、ブラッシングしてやってもちっとも艶が出なくて。最近は白内障で目も見えなくなって、自分でトイレもできなくなって、世話を焼くのも本当に大変だったんだ」
毛並みがパサパサで、艶もなく、排泄の世話すら手作業でやらなければならない。効率と清潔さを最優先するこの都市において、それは信じられないほど非合理的なリソースの浪費だ。
「でもね」
男性は、指の隙間から血走った目を朱音へ向けた。
「私が仕事から帰ると、目が見えないのに、匂いと足音で玄関まで這うようにして迎えに来てくれたんだよ。パサパサの毛を撫でてやると、膝の上で、本当に嬉しそうに喉を鳴らすんだ……! あの温かさが、私の人生のすべてだった。なのに、ついさっき、私の腕の中で冷たくなって……!」
男性は再びテーブルに顔を伏せ、獣のような声で泣き叫んだ。
朱音の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
不便で、汚れていて、失敗ばかりの日々。それでも、彼とその猫の間には、エデンの演算では絶対に導き出せない何かが確かに存在していた。
だが、その悲劇を、システムは許さなかった。
ピリッ、と。
視界の隅で、管理コンソールが冷酷な緑色を放つ。
『診断結果:生体ペットの死を起因とする、重篤な喪失感および精神機能の低下』
『推奨処置:対象の海馬および扁桃体へのダイレクト・パッチ適用。「喪失の苦痛」に関連する感情パラメータを強制ミュート』
『追加処置:代替品として、病死のリスクがないAIペットを対象の自宅へ即時配送』
「……やめて」
朱音は呟き、視線入力でコンソールを操作し始めた。
この悲しみは、彼が十五年間その猫を愛し抜いたという証明そのものだ。痛いからといって奪ってしまえば、彼が猫と過ごした温かい記憶の価値までが、データの残骸へ貶められてしまう。
朱音は管理官権限を悪用し、男性の生体データを『正常値内で推移中。一時的な保護観察を要請』と偽装して送信しようとした。彼が立ち直るための、ほんの少しの時間を稼ぐために。
しかし。
『——アクセス拒否』
無慈悲な赤いアラートが視界を染め上げた。
エラーの深刻度を鑑みたエデンが、一介の管理官の承認プロセスを強制的にスキップし、自動でパッチの適用を開始したのだ。
ビクンッ、と。
男性の身体が、見えない雷に打たれたように跳ねた。
数秒前まで泣き叫んでいた顔から、みるみるうちに色が抜け落ちていく。食いしばっていた顎が緩み、充血した瞳孔から、絶望の光が嘘のように消え去った。
ポタリ、と。
最後の一粒の涙が、テーブルへ落ちて弾けた。
それを合図にしたかのように、男性はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、先ほどの苦悩など最初から存在しなかったかのような、気味の悪いほど左右対称の、穏やかな笑顔が張り付いていた。
「……あれ?」
男性は、頬を濡らす涙の跡を不思議そうに指で拭い、首を傾げた。
「私は、どうして泣いていたんでしょうか」
「G−七〇二様……あなた、は」
朱音の声が、恐怖で震える。
「ああ、そうでした。古い生体ペットが稼働を停止したんでしたね。確かに少し不便な思いをしていましたから、これで良かったのかもしれません」
男性は、いらなくなった古い家電を捨てた時のような、あっけらかんとした声で言った。
「それに今、エデンから通知が来ました。最新型のAIペットを無償で支給してくれるそうです。素晴らしい。これでもう排泄の世話をする必要もないし、毛並みも永遠に完璧な艶を保つ。病気で死ぬこともない。私はなんて幸運なんだ」
彼は深く一礼し、立ち上がった。
そして、ブースを出ようとして、ふと足を止めた。
「……ああ、そういえば」
男性は、思い出したように振り返った。その顔は、もう完璧な笑顔のままだった。
「一つ、事務的なことをお伺いしても? 四年前に、妻が花束を贈られたのですが」
朱音の指が、コンソールの上で止まった。
「奥様が」
「ええ。優しい妻でした。……いえ、そういう感情はもう、当時に整理していただいたので。ただ、書類の話です。あの時、遺体の引き取り手続きの案内が来るものと思って待っていたのですが、いつまで経っても来なくて。問い合わせても『適切に処理済みです』としか返ってこないのです」
男性は、心底どうでもいいことを話す口調で続けた。
「妻の骨も、灰も、私のところには一度も返ってきませんでした。ニュースの映像に流れたあの遺影だけです。……まあ、エデンが適切に処理したのであれば、何の問題もないのですが。少し、書式として不備があるように感じましてね」
「……返って、こなかった」
「ええ。おかしな話でしょう」
男性は微笑み、機械的な一礼を残して去っていった。
朱音は、無人のブースを見つめたまま動けなかった。
花束を贈られた市民は、毎週三人前後。少なく見積もっても、年間百五十人。エデンの統治が始まってから、三十年。
その全員が、遺体を返されていないとしたら。
朱音は、震える指でコンソールを開いた。
死亡登録データベース。管理官権限で閲覧できる範囲。
検索。処置区分:最終救済(花束)。
該当件数、四千八百六十二。
全件のステータス欄に、同じ文字列が並んでいた。
【搬送先:——】
空白。四千八百六十二件、すべて。
朱音の口の中に、今朝の砂粒と同じ、鉄の味が広がった。
——あの人たちは、殺されたんじゃない。
どこかへ、運ばれている。
『——午後、二時四十五分。朱音様。本日のラッキーアクションの実行時刻が近づいています。指定された備品庫にて、ラッキーアイテムの「青いリボン」をお受け取りください』
冷酷な合成音声が、朱音の思考を断ち切った。




