第四話:呼吸のずれ
午後一時。昼休憩を終えたフロアは、再び死んだような静寂を取り戻していた。
無臭の冷気が、一定のサイクルで足元を這う。朱音は自席に向かい、ゼリーの人工的な匂いを肺から追い出すように浅く呼吸をしながら、送られてくる生体データに目を通していた。
午後二時。
ブースへ、一人の若い女性が案内されてきた。
二十代後半だろうか。姿が視界に入った瞬間、朱音の網膜パラメータが警告色を明滅させた。
グレーの市民服は、胸元や袖口に不自然な皺が幾重にも寄っている。何度も強く握りしめた痕跡だ。膝の上の両手は小刻みに震え、切り揃えられているはずの爪先は噛み千切られてボロボロだった。
チカッ、と。朱音のコンソールに小さなアラートが灯る。
右手の人差し指。噛みちぎられた甘皮の隙間から、米粒の半分にも満たない血が滲んでいた。
エデンの無菌室において、出血は即座に医療ドローンと治安維持ユニットの介入を招く。
朱音は表情を崩さぬまま、視線を高速で走らせ、彼女の外傷アラートを権限ギリギリで隠蔽した。
——今、このブースに別のシステムを入れるわけにはいかない。
異様なのは、彼女の瞳だった。深い隈の奥で、焦点の合わない瞳孔が、見えない何かに怯えるようにせわしなく動いている。
「こんにちは。個体識別番号、F−一〇四様。本日はどのようなご相談でしょうか」
女性は椅子に浅く腰掛け、テーブルの縁にすがりついた。指の関節が白く変色するほどの力だ。周囲を一度ギョロリと見回し、乾いた唇を震わせて囁く。
「……殺してしまいそうなの」
朱音の心臓が、冷たく跳ねた。
この徹底的に安全が担保された社会において、最も忌むべきエラーだ。朱音は息を呑む音すら殺し、視線でプロファイルを展開する。
「対象は、どなたですか」
「……夫よ。エデンが私に選んでくれた、完璧な運命の相手」
データによれば、二人は半年前、推奨アルゴリズムでマッチングされた新婚夫婦だった。遺伝子レベルでの相性は九十九・八パーセント。生涯幸福度が最大化される「最適解のペア」。
九十九・八。
その数字を見た瞬間、朱音の指先が微かに冷えた。昼にサキから聞いた番号が、脳裏をよぎる。
「彼に、何か不満が」
「分かってる。彼は完璧よ。いつも優しくて、記念日には綺麗な花を買ってきてくれて。家事の分担も百パーセント正確にこなす。怒鳴り声なんて一度も聞いたことがない」
女性は身を乗り出し、テーブルに滲んだ自分の血を擦り付けるようにして吐き捨てた。充血した目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「完璧だから、おかしくなるのよ! 私たちの生活には何の悩みもないわ。お金の心配も、人間関係の摩擦も、明日の不安も。エデンが全部完璧に管理してくれてるから。……だからこそ、夜の寝室の、あの完璧な静寂の中で、たった一つの『ノイズ』だけが異常に大きく響くの」
「ノイズ」
「彼が隣で眠る時の、息遣いよ」
女性は自分の両耳を強く押さえた。
「……すぅ、はぁ……って。あの呼吸のリズムが、私自身の呼吸と、ほんのコンマ一秒だけズレてるの。毎晩、毎晩! 最初は小さな違和感だったわ。でも、他に悩むことが何一つないこの世界で、その微かなズレだけが、私の意識のすべてを支配し始めたの。……その気持ち悪さが、頭蓋骨の内側をヤスリで削るみたいに響くのよ!」
朱音の背筋を、冷たい汗が伝う。
相手は何も悪くない。ただ生物として呼吸をしているだけだ。しかし、すべてが計算式で最適化されたこの世界で、彼女の本能はそのわずかなリズムの違いを「排除すべき異物」として拒絶している。
「朝になれば、彼はまた完璧な笑顔でおはようを言うわ。そのたびに私は、彼を気持ち悪いと感じてしまう自分を憎むの。……昨日なんて、気がついたら眠っている彼の首元に、両手を伸ばしていた」
「なぜ、システムに報告しなかったのですか。ここまで強いストレスなら、もっと早く——」
「報告できるわけないじゃない!」
女性は血走った目で朱音を睨みつけた。
「エデンが選んだ完璧な相手を殺したいだなんて、そんなバグを検知されたら、私は『花束』を贈られてしまう! 何も感じない人形にされるのが怖かったの。だから毎晩、殺意が湧くたびに頭の中で円周率を唱えて、心拍数を無理やり抑え込んで、システムを騙し続けてきたのよ……!」
朱音は息を呑んだ。
昼にサキの前で太ももを抓り、痛覚で心拍を押し殺した自分と、全く同じだ。
どれほどデータ上の相性が完璧でも、生身の肉体が触れ合う現実には、論理では割り切れない摩擦が生じる。逃げ場を失った彼女のストレスは、自己嫌悪と殺意という形で限界まで圧縮され、ついに暴走を始めていた。
「……私が、何とかします」
朱音は声を落とし、マニュアルにはない言葉を口にした。
「え……?」
「物理的な別居の手続きを、一時的な『環境調整テスト』の名目で通します。少しだけ、時間をください」
朱音の視線がコンソール上を駆け巡る。偽装の承認コードを組み立てていく。
しかし。
ピリッ、と。
視界の全面が、冷酷な緑色の光に覆い尽くされた。システムが、朱音の工作よりも早く、女性の音声ログと生体データから危険性を直接検知したのだ。
『診断結果:配偶者に対する、聴覚過敏を起因とする一時的な攻撃性の高まり』
『承認プロセスをスキップ。対象の聴覚野へダイレクト・パッチを適用します。配偶者の呼吸音の周波数のみを検知し、対象が最も心地よいと感じるホワイトノイズへ強制変換します』
「……やめろっ!」
朱音は思わず叫び、実行をキャンセルしようと視線を叩きつけた。
『——アクセス拒否』
冷たい赤い文字が、網膜を弾き返す。
根本的な解決など何一つしていない。彼女の脳をいじり、耳に入る現実の音を偽物へ変換して麻痺させるだけだ。
「あ……」
女性の身体が、ビクンと跳ねた。
天井のトランスミッターから照射された電磁波が、聴覚野を書き換えていく。
数秒前まで涙を流し、血の滲む手で震えていた女性の顔から、苦悩が砂のように崩れ落ちた。食いしばっていた顎の力が抜け、半開きの唇から甘い吐息が漏れる。
「聞こえる……」
女性は虚空を見つめ、恍惚とした声で呟いた。
「彼の息遣いが、優しい波の音みたい。……ああ、なんて心地いいの。私、どうしてあんなに怒っていたのかしら。彼は本当に、完璧な運命の恋人だわ」
女性の顔に、不気味なほど穏やかな、左右対称の笑顔が張り付いた。
昼に見たサキと、全く同じ表情。
彼女は深く一礼すると、夢遊病者のような足取りでブースを去っていった。
朱音は無人のブースを見つめたまま、吐き気に襲われた。
胃の奥からせり上がるものを、両手で口元を押さえて堪える。
その時、視界の隅に、システムからの通知が流れた。
『F−一〇四およびその配偶者について、生涯適合率を再演算しました。修正値:九十九・九パーセント。マッチングは正常に機能しています』
数字が、上がっていた。
彼女の脳を書き換えたことで、システムの計算はより正しくなった。
朱音は、震える手でコンソールに『一時的な生理的体調不良』の偽装コードを送信した。
そして、逃げるようにブースを飛び出した。
誰の監視も届かない、システムの光が及ばない場所を目指して。




