第四話:完璧な恋人と、理不尽な殺意
午後一時。四十五分間の昼休憩を終えた『住民感情管理課』のフロアは、再び死んだような静寂を取り戻していた。
無臭の冷気が、一定のサイクルで足元を這うように撫でていく。朱音は自席の白いデスクに向かい、先ほどのゼリーの人工的な匂いを肺から追い出すように浅く呼吸をしながら、網膜デバイスへ次々と送られてくる市民の生体データに目を通していた。
午後の業務開始から一時間が経過した頃。透明なアクリルパーティションで仕切られた朱音の来客用ブースへ、一人の若い女性が案内されてきた。
年齢は二十代後半だろうか。彼女の姿が視界に入った瞬間、朱音の網膜パラメータが「イエロー」を明滅させた。
女性の着ているグレーの市民服は、胸元や袖口に不自然な皺が幾重にも寄っている。何度も自分の手で強く握りしめたかのような、明らかな異常行動の痕跡だ。膝の上に置かれた両手は小刻みに震え、綺麗に切り揃えられているはずの爪先は、ひどく噛み千切られてボロボロになっていた。
チカッ、と。朱音のコンソールに小さなアラートが灯った。
女性の右手の人差し指。噛みちぎられた甘皮の隙間から、米粒の半分にも満たない「一滴の赤い血」が滲んでいたのだ。
エデンの無菌室において、出血は即座に医療ドローンと治安維持ユニットの介入を招く。朱音は表情を一切崩さぬまま、視線を高速で走らせ、彼女の「外傷アラート」を権限ギリギリで強制隠蔽した。
今、このブースに別のシステムを介入させるわけにはいかない。何より異様なのは、彼女の瞳だったからだ。深い隈が落ちた眼窩の奥で、焦点の合わない血走った瞳孔が、見えない怪物に怯えるようにせわしなく動いている。
「こんにちは。個体識別番号、F-104様。本日はどのようなご相談でしょうか」
朱音は相手の警戒心を解くため、マニュアル通りの柔らかい微笑みを浮かべた。
女性は椅子に浅く腰掛け、白いテーブルの縁にすがりつくように両手をかけた。指の関節が白く変色するほどの強い力だ。彼女は周囲を一度ギョロリと見回し、誰かに聞かれることを恐れるように、乾いた唇を震わせて囁いた。
「……殺してしまいそうなの」
朱音の心臓が、肋骨の裏側で冷たく跳ねた。
殺意。この徹底的に安全が担保された無菌社会において、最も忌むべき重大なエラーだ。朱音は息を呑み込む音すら殺し、視線入力で速やかに彼女のプロファイルをコンソールへ展開する。
「心を落ち着けてください。対象は、どなたですか?」
「……夫よ。エデンが私に選んでくれた、完璧な運命の相手」
コンソール上に表示されたデータによれば、二人は半年前、エデンの推奨アルゴリズムによってマッチングされた新婚夫婦だった。遺伝子レベルでの相性は九十九・八パーセント。性格の適合率も極めて高く、生涯幸福度が最大化される「最適解のペア」として記録されている。
夫の経歴や日々の行動ログにも、一切の異常は見当たらない。模範的で、優しく、暴力の欠片もない温和な市民だ。
「彼に、何か不満があるのですか? データを参照する限り、彼はあなたに対して非常に献身的です」
「分かってる。彼は完璧よ。いつも優しくて、記念日にはエデン推奨の綺麗な花を買ってきてくれて。家事の分担も百パーセント正確にこなしてくれるわ。怒鳴り声なんて一度も聞いたことがない」
女性は身を乗り出し、テーブルに滲んだ自分の血を擦り付けるようにして吐き捨てた。充血した目から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
「完璧だから、おかしくなるのよ! 私たちの生活には、何の悩みもないわ。お金の心配も、人間関係の摩擦も、明日の不安も。エデンがすべてを完璧に管理してくれているから。……だからこそ、夜の寝室の、あの完璧な静寂の中で、たった1つの『ノイズ』だけが異常に大きく響くの」
「ノイズ、ですか?」
「彼が隣で眠る時の、あの息遣いよ」
女性は自分の両耳を塞ぐように強く押さえた。
「……すぅ、はぁ……って。あの呼吸のリズムが、私自身の呼吸の波長と、ほんのコンマ一秒だけズレているの。毎晩、毎晩! 最初は小さな違和感だったわ。でも、他に悩むことが何1つないこのデジタルな世界で、その微かなズレだけが、私の意識のすべてを支配し始めたの。彼の『すぅ』に対して、私の『すぅ』が遅れる。彼の『はぁ』に対して、私の『はぁ』が早まる。その生理的な気持ち悪さが、私の頭蓋骨の内側をヤスリで削り落とすみたいに響くのよ!」
女性は頭を抱え込み、ガタガタと肩を震わせた。
朱音は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。相手は何も悪くない。ただ生物として呼吸をしているだけだ。しかし、すべてが計算式で最適化されたこの世界において、彼女の生物的な本能は、そのわずかなリズムの違いを「排除すべき異物」として強烈に拒絶している。
「朝になれば、彼はまた完璧な笑顔で私におはようを言うわ。そのたびに私は、彼を気持ち悪いと感じてしまう自分を激しく憎むの。どうしてこんな完璧な人を愛せないのかって。……狂いそうなの。彼が息を吐くたびに、首を絞めてその音を止めたくなる。昨日なんて、気がついたら眠っている彼の首元に、両手を伸ばしていたわ」
「……なぜ、システムに報告しなかったのですか。ここまで強いストレスなら、エデンがもっと早く鎮静パッチを――」
「報告できるわけないじゃない!」
女性は血走った目で朱音を睨みつけた。
「エデンが選んだ完璧な相手を殺したいだなんて、そんな重篤なバグを検知されたら、私は『花束』を贈られてしまう! 精神をフォーマットされて、何も感じない人形にされるのが怖かったの。だから毎晩、殺意が湧くたびに頭の中で円周率を必死に唱えて、心拍数を無理やり抑え込んで、システムを騙し続けてきたのよ……!」
朱音は息を呑んだ。
この女性は、「花束」という究極の死への恐怖から、自らの狂気をシステムから隠蔽し続けていたのだ。サキの前で太ももを抓り、痛覚で心拍数を抑え込んだ今朝の私と、全く同じように。
どれほどデータ上の相性が完璧でも。生身の肉体と肉体が触れ合う現実には、決して論理では割り切れない泥臭い摩擦が生じる。完璧な檻の中で逃げ場を失った彼女のストレスは、自分への嫌悪と相手への殺意という形で極限まで圧縮され、ついに隠しきれない暴走を始めていた。
だが、見方を変えれば。その理不尽で狂気じみた「殺意」すらも、彼女がAIの計算式に収まりきらない「生身の人間」であることの、愛おしい失敗の証明ではないのか。
「……私が、何とかします」
朱音は声を落とし、マニュアルにはない言葉を口にした。
「え……?」
「物理的な別居の手続きを、一時的な『環境調整テスト』の名目で裏口のプロトコルから通します。少しだけ、時間をください」
朱音の視線がコンソール上を狂ったような速度で駆け巡る。
彼女を救いたい。彼女の抱えるその泥臭い「殺意」を、システムに奪われたくない。朱音はエデンの監視の目をすり抜けるため、偽装の承認コードを次々と組み立てていく。
しかし。
エデンの論理の壁は、一個人の隠蔽工作など容易く打ち砕くほどに高く、冷酷だった。
ピリッ、と。
視界の全面が、エデンの管理コンソールが放つ冷酷な緑色の光に覆い尽くされた。システムが、朱音の偽装工作よりも早く、女性の音声ログと限界を超えた生体データから「殺意の危険性」を直接検知し、強権的な最適解を強制的に弾き出してきたのだ。
『診断結果:対象の配偶者に対する、聴覚過敏を起因とする一時的な認知の歪み、および攻撃性の高まり』
『承認プロセスをスキップ。対象の聴覚野へのダイレクト・パッチを適用します。配偶者の呼吸音の周波数のみを検知し、対象が最も心地よいと感じる海波のホワイトノイズへ強制変換します』
「……やめろっ!」
朱音は思わず叫び、コンソールの実行をキャンセルしようと視線を叩きつけた。
『――アクセス拒否』
冷たい赤い文字が、朱音の網膜を弾き返す。
根本的な解決など何1つしていない。ただ彼女の脳の機能をいじり、耳に入ってくる現実の音を、デジタルな偽物の音へ都合よく変換して麻痺させてしまうというのか。
しかし、エデンの決定は絶対だ。朱音の抵抗など完全に無視され、コンソール画面には『パッチ適用中』という無機質なプログレスバーが表示された。
「あ……」
女性の身体が、ビクンと大きく跳ねた。
天井のトランスミッターから照射された見えない電磁波が、彼女の脳の聴覚野を直接、暴力的に書き換えていく。
数秒前まで涙を流し、血の滲む手で殺意に震えていた女性の顔から、すべての苦悩が砂のように崩れ落ちていく。食いしばっていた顎の力が抜け、半開きの唇から甘い吐息が漏れた。
「聞こえる……」
女性は虚空を見つめ、恍惚とした声で呟いた。
「彼の息遣いが、優しい波の音みたい。……ああ、なんて心地いいの。私、どうしてあんなに怒っていたのかしら。彼は本当に、最高に完璧な運命の恋人だわ」
女性の顔に、不気味なほど穏やかで、左右対称の美しい笑顔が張り付いた。
先ほどのサキと全く同じ、システムにプログラムされた『完璧な幸福』の表情。
パッチ適用完了。
彼女は深く一礼すると、夢遊病者のような足取りでブースを立ち去っていった。そこにはもう、夫への理不尽な殺意も、自分を責める生々しい苦悩も、微塵も残っていない。
朱音は無人のブースを見つめたまま、強烈な吐き気に襲われた。
胃の奥からせり上がってくる酸いものを、両手で口元を押さえて必死に堪える。
エデンは関係を修復したのではない。システムという枠組みに合わせて、人間の方の形を歪めただけだ。痛いところを切断し、感覚をデジタルに麻痺させ、無理やりに「幸福の檻」へ押し込めた。彼女が必死に隠していた、あの理不尽で泥臭い「殺意」こそが、彼女の本当の心だったというのに。
もし私が、このシステムに疑念を抱いているとバレたら。
私も彼女のように脳をいじられ、綺麗で空虚な笑顔を貼り付けて生きるマリオネットにされるか、あるいは「花束」を贈られて精神ごと消去されてしまうのだろうか。
息が、詰まる。
周囲を取り囲む完璧な白さが、今は恐ろしい怪物のように朱音の視界を圧迫していた。同僚たちのタイピングのない静寂が、鼓膜を突き破るほどの轟音に感じられる。
吐きたい。ここから逃げ出したい。
朱音は震える足で立ち上がった。網膜の生体アラートが鳴る寸前で、システムに「一時的な生理的体調不良」の偽装コードを送信する。
そして、逃げるようにブースを飛び出した。誰の監視も届かない、システムの光が及ばない暗闇を目指して。




