第三話:無菌室の友情と、サキの正しさ
正午。白亜のフロアに、交感神経を強制的に緩めるための柔らかなチャイムが鳴り響いた。
天井の面発光パネルの照度が、自動で一段階落ちる。視界の隅で網膜デバイスが明滅し、四十五分間の昼休憩の開始を告げた。
ザッ、と。
数百人の職員たちが無言のまま、一斉に業務コンソールをロックし、椅子を引く。乾いた摩擦音だけが、不気味なほど規則正しくフロアに反響した。誰一人として、大きく背伸びをしたり、隣の席の同僚に雑談をしかけたりはしない。無自覚な疲労の蓄積や、非効率なコミュニケーションによる感情の摩耗すら、エデンの推奨スケジュールには『排除すべきロス』としてプログラミングされているからだ。彼らは全員が同じ歩幅、同じ速度で、決められたリフレッシュ・エリアへと移動していく。
「朱音さん、お疲れ様。今日のランチ、一緒にどうかな」
隣のブロックから、足音も立てずに歩み寄ってきたのは同期のサキだった。
朱音は一瞬、息を止めた。サキの瞳が、不自然なほどキラキラと潤んで輝いていたからだ。エデンがこの季節に強く推奨している『親近感と慈愛を与える最新のカラーコンタクトレンズ』。
瞬きの回数も、口角の上がり方も、声のトーンも。彼女を構成するすべての要素が、網膜デバイスからの指示通り、計算し尽くされた完璧な左右対称を保っていた。その一寸の狂いもない「正しすぎる美しさ」が、今の朱音には、底知れない怪物の顔のように見えた。
「……ええ、もちろん。サキちゃんもお疲れ様」
朱音は、自分の頬に『マニュアル通りの笑み』を貼り付け、それが引き攣らないよう必死に顔の筋肉を制御しながら立ち上がった。
二人はフロアの端にある、共有の休憩スペースへと向かった。壁一面に広がる巨大な強化ガラス窓からは、完全にグレーに統一された市街地が眼下に広がっている。雨雲の配置すらミリ単位で計算された空の下、大通りでは自動運転車が、動脈を流れる血液のように滞りなく循環していた。
白い丸テーブルに向かい合い、それぞれのランチトレイを展開する。朱音のトレイには、朝と同じ薄緑色の栄養ペースト。対するサキのトレイには、鮮やかなピンク色をしたキューブ状のゼリーが3つ並んでいた。
「今日は美容促進のパッチが当たったの。コラーゲンと必須アミノ酸が完璧な比率なんだって。エデンのレシピは本当に無駄がないわよね」
サキは小さなプラスチックのフォークでゼリーを1つ刺し、口へ運んだ。心底美味しそうに頬を綻ばせる。その笑顔に、一寸の影も疑念すらも存在しない。
「……美味しい?」
「ええ、最高よ。ゼリーが舌に触れた瞬間、網膜デバイスが味覚神経へ直接『ベリー系の極上の甘み』を送信してくれるから、脳がすっかりリフレッシュされちゃう」
朱音は自分のスプーンを握り、緑色のペーストをすくい上げた。
口に含む。朝までは何の抵抗もなく飲み込めていたはずのそれが、今はひどく気持ち悪かった。朝食で噛み砕いた「あの硬い不純物の泥臭さ」を知ってしまった今の朱音にとって、このデジタルに送信されるだけの偽物の甘みは、ただの冷たいスライムのように感じられた。
吐き気を堪え、強引に喉の奥へ押し込む。胃が痙攣しそうになるのを、呼吸を浅くして必死にやり過ごした。
「そういえば私、昨日少しだけ気分が落ち込むエラーが出たの」
サキは、まるで昨日の天気について話すような、ひどく軽いトーンで言った。
「エラー?」
「うん。お気に入りだったアンティークのグラスを、うっかり落として割ってしまったの。結構高価だったから、一瞬だけ、すごく悲しかったんだけどね。でも、エデンがすぐ、私の脳へ『軽度の喪失感に対する鎮静パッチ』を打ってくれたわ。そうしたら、五分後にはもう、『悲しい』っていう感情が綺麗さっぱり消え去っていたのよ」
サキはペロッと赤い舌を出し、悪びれる様子もなく笑った。
朱音の背筋を、強烈な悪寒が駆け抜ける。
「おまけに、割れたものよりずっと私好みなデザインの新しいグラスを、今日の朝にはドローンが部屋へ届けてくれたの。すごいわよね、エデンって。私たちが深く傷つく前に、悲しむ理由そのものを消去して、代わりの幸福をすぐに与えてくれるんだもの」
サキは心からエデンを信奉している。巨大AIの予測と管理こそが絶対の救済であり、それを疑うことすら彼女の理解の範疇を超えているのだ。彼女の放つ善意には、何の裏表もない。純度百パーセントの、正しすぎる優しさ。
だからこそ、朱音は胸の奥へじわじわと広がる、逃げ場のない息苦しさを覚えていた。
悲しみが五分で消去される世界。
それは一見、究極の幸福に思える。だが、不便なアンティークグラスを大切に想っていた彼女の愛着すらも、新しい代替品1つと脳内のデジタルなホルモン調整で、いとも簡単に「なかったこと」にされてしまうのだ。
もし今、朱音が「朝食の不純物に安堵した」「あの男から飢えを奪うのが辛かった」と本音をこぼせばどうなるか。
サキは間違いなく、世界で一番心配そうな顔をして朱音に寄り添うだろう。しかしそれは、彼女自身の心が痛んだからではない。彼女の網膜デバイスが朱音の生体データの異常を即座に検知し、友人を慰めるための『最適な言葉と表情の台本』を瞬時に演算して出力するだけなのだ。
サキの優しさは、エデンの用意したアルゴリズムの一部に過ぎない。この無菌室のような世界では、人と人との魂の摩擦すらも、システムによって安全にデジタル調律されている。
私は今、たった一人で、見えない手足を縛られながらこの真っ白な部屋に取り残されている。
「サキちゃん、……『花束』の話、聞いたことある?」
朱音は、自分でも無意識のうちに、禁忌に近い言葉を口にしていた。ペーストを握るスプーンの手が微かに震える。
サキのフォークが止まった。完璧な笑顔はそのままで、カラーコンタクトで潤んだ瞳が、朱音の顔をじっと見つめる。
「花束? もちろん知ってるわよ。エデンの救済リストの最上位、究極のフォーマット処置のことでしょ? 羨ましいわよね、あれを贈られた人は、永遠の幸福の中に閉じ込められるんだから」
「……怖いとは、思わないの? 自分が、自分じゃなくなってしまうことが」
「どうして? 自分が消えても、エデンの管理する完璧な幸福がそこに残るなら、それは完成された人生じゃない。不完全な私たちが、失敗だらけの感情を抱えて生き続けるより、ずっと価値があることよ」
サキの言葉は、何の迷いもなく、透き通った水のように朱音の耳に流れ込んできた。
彼女は本気でそう思っている。自分という個我が消滅しても、システム全体が最適化されるなら、喜んで極彩色の幻覚を受け入れるだろう。
朱音は手元の緑色のペーストをかき混ぜながら、自席の引き出しの奥を思い浮かべた。センサーの死角に隠した、母の古い日記。
『雨に濡れてお気に入りの靴が泥だらけになった。本当に散々だった』
『でも、雨上がりの空は見たこともないほど濃いオレンジ色に燃えていて……なんだかそれだけで、今日という日が許された気がしたの』
エデンがサキにグラスを与え、悲しみを消去するように。私の心もいつか「修正」されてしまうのだろうか。あの泥臭いオレンジ色の空を見て「許された」と感じる、あの不確かで激しい魂の震えさえも、非効率なエラーとして削ぎ落とされてしまうのだろうか。
「朱音さん、どうかした?」
不意に、サキが顔を近づけてきた。
その潤んだ瞳の奥で、微かにデバイスの緑色の光が明滅する。
「網膜のパラメータ、少し血圧が上がってるみたいだけど」
朱音の心臓が、恐怖で跳ね上がった。
サキの目を通して、システムが私を監視している。このままストレス値の上昇を検知されれば、私は「エラー個体」として認定されてしまう。
「……ううん、何でもないの」
朱音はテーブルの下で、自らの太ももを思い切り抓り上げた。
爪が布地を貫き、皮膚を強烈に圧迫する。ギリッ、と声が出そうになるほどの鋭い痛みを脳に叩き込み、その痛覚にすべての意識を集中させることで、|強制的に心拍数の乱れを押し殺した《ステルス・バイアス》。
「少し、午後の業務のことを考えていただけだから」
痛みに耐えながら、朱音は完璧な笑顔を作って答える。
「そっか。朱音さんは真面目だね。でも無理は禁物よ。エデンのスケジュール管理に従っていれば、私たちが思い悩む必要なんて何1つないんだから」
サキはゼリーを完食し、満足げにトレイを片付けた。白いテーブルの上には、彼女がそこで食事をした痕跡すら、一切の汚れもなく消え去っている。
「そういえば朱音さん。今日の午後三時に『運命の出会い』の占いが出てたよね? ラッキーアイテムの青いリボン、ちゃんと準備した?」
朱音の太ももに立てた爪に、さらに力がこもる。
「……ええ。職場の備品庫で受け取ってあるわ」
「良かった! エデンが指定する出会いだもの。絶対にあなたの生涯幸福度を上げてくれる素敵な人に決まってる。私まで楽しみになってきちゃった」
純粋な祝福。その言葉に偽りはない。
だが、朱音はサキの完璧な笑顔を見つめながら、自分の心が彼女から決定的に切り離されていくのを感じていた。
サキとの間に横たわる、決して埋まることのない目に見えない断層。私はもう、この真っ白な世界で、彼女と同じように無邪気に笑うことはできない。
朱音はテーブルの下で、自分の左手首を右手でそっと撫でた。
やがてそこに巻かれるであろう、人工的な染料の匂いがする青いリボンの感触を想像する。
午後三時の交差点。そこで待っているのは、本当に私を幸福にしてくれる誰かなのだろうか。それとも、この完璧な世界に生じた私という「バグ」を、サキのように空っぽに修正するための「パッチ」の入り口なのだろうか。
ふと、今朝の満員電車の中で視界をよぎった、あの暴力的で泥臭い『黒いノイズ』の残像が脳裏をよぎった。エデンの予測アルゴリズムすら破壊しそうな、生々しい異物。
あの交差点には、一体何が待っているのか。
昼休憩の終わりを告げるチャイムが、無音のフロアへ再び鳴り響いた。
朱音は吐き気を堪えて残りのペーストを飲み込み、サキへの返事の代わりに、マニュアル通りの綺麗で空虚な微笑みだけを、親友へと返した。




