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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第一部 無痛の箱庭と、反逆の産声
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第二話:噛み応えのない世界

 口の中に、まだあの不純物の泥臭い味が残っている気がした。

 朱音は無意識のうちに、自席で奥歯を強く噛み締めていた。しかし当然ながら、そこにはもうあの硬い異物の軋む感触はない。あるのは、完璧にメンテナンスされた自身の歯の、無機質なエナメル質の感触だけだ。


 市役所十五階、『住民感情管理課』。

 その巨大なフロアは、空間そのものが氷点下で凍りついているかのような静寂に支配されていた。

 天井の端から端まで敷き詰められた均一な面発光パネルからは、影という影をすべて白く飛ばしてしまう冷酷な光が降り注いでいる。数百人もの職員が等間隔に並んだ白いデスクに向かっているのに、打鍵音も、話し声も、足音さえも存在しなかった。フロアを満たしているのは、空調の低い駆動音だけだ。


 午前十時。

 朱音のデスクの向かい、透明なアクリルパーティションで仕切られたブースへ、一人の男性市民が案内されてきた。

 年齢は四十代半ばだろうか。グレーの市民服の肩のラインが不自然に強張っており、シャツの第一ボタンは引き千切るように外されている。首元には薄っすらと脂汗が浮かび、瞬きの回数が異常に多い。椅子に浅く腰掛けるなり、机の下で微かに、しかし一定のリズムで貧乏ゆすりを始めた。

 コツ、コツ、コツ。


「おはようございます。個体識別番号、C-319様」

 朱音は、マニュアル通りの柔らかい微笑みを顔に貼り付けた。

「本日はどのようなご相談でしょうか」


 男性は、充血して細い血管が浮かんだ目をぎょろりと動かし、朱音の顔を食い入るように見つめた。そして、両手の指をせわしなく絡ませたり解いたりしながら、ひどく掠れた声で話し始めた。


「……飯だ。毎朝、毎晩出てくるあのペースト食。エデンが俺の生体データに合わせて計算してくれているんだ、栄養が完璧なのは分かってる。味だって悪くない、いや、むしろ甘くて美味いんだろうよ。でも、俺はもうウンザリなんだ」

「味覚の調整をご希望ですか? 今週の推奨フレーバーのリストには、旧時代のローストビーフの旨味を再現した新しいデータが追加されておりますが――」

「違う! 味の話なんかしてない!」


 ドンッ!

 男性が突然声を荒らげ、身を乗り出してアクリル板を乱暴に叩いた。

 周囲の職員たちは誰一人として振り向かない。


「噛みたいんだよ……!」

 男性は、両手で自分の頭を抱え込むようにして、胃の底から絞り出すような声で呻いた。


「バリボリと、頭蓋骨の芯にビリビリ響くような硬いものを、自分のこの歯で噛み砕きたいんだ! 腹はパンパンに膨れるのに、口の中が、顎の筋肉が、ずっと寂しくてしょうがないんだ! その得体の知れないイライラが頭の中でずっと渦巻いていて、昨日の夜は一睡もできなかった。なあ、俺は、狂っちまったのか……?」


 今朝の私と、同じだ。

 朱音の口内に、あの石礫を噛み砕いた時の感触が蘇った。


 ピリッ、と。

 視界の隅で、エデンの管理コンソールが冷酷な緑色の明滅を始めた。


『診断結果:口腔内の物理刺激不足による、軽度のドーパミン分泌低下』

『特記事項:対象者は無意識に心拍を制御し、生体データの異常検知を回避していた形跡あり。慢性的な「飢え」の長期間にわたる潜伏を認める』


 朱音の指先が、氷のように冷たくなる。

 この男は、この飢えを、システムに奪われまいと心の奥底で必死に隠し続けてきたのだ。自分の身体に嘘をつき、心拍数を偽装してまで。

 視界の中央に、『最適化パッチを実行しますか?』という最終確認ウィンドウが浮かび上がる。


(待って。彼からそれを奪わないで)


 朱音は視線を激しく泳がせ、実行キーの承認をためらった。

 しかし、私がここで遅らせれば。

 朱音自身の躊躇いが重篤なバグとして検知され、二人まとめて「花束」の対象として処理される。

 逃げ場など、最初からどこにもなかった。


「C-319様……」

 朱音は、罪悪感をマニュアルの微笑みの裏に隠し、微かに震える声で告げた。

「どうかご安心ください。あなたは決して狂ってなどいません。エデンより、あなたの不満を完全に解消する救済が届きました。これを受け入れれば、あなたのイライラはすぐに治まります」

「……救済? 俺に、硬いものを食わせてくれるのか?」

「はい。目を閉じて、少しだけ顎の力を抜いて、リラックスしてください。……すぐに終わりますから」


 男性がすがるような顔で、半信半疑のまま目を閉じる。

 朱音は絶望と共に、コンソールの実行キーを視線で打ち抜いた。


 変化は、あまりにも劇的で、そして身の毛のよだつほど不気味だった。

 数秒前まで苛立ち、苦悩に顔をしかめていた男性の肩から、風船がしぼむようにスゥッと力が抜けた。閉ざされた瞼の下で眼球が小刻みに痙攣するように動き、強張っていた口元が、だらしなく緩んでいく。

 そして、彼は何も入っていない空っぽの口を、ゆっくりと上下に動かし始めた。


「あ……」

 ガチ、ガチ。

 上下の歯が不器用にぶつかる、乾いた音がブース内に響く。


「ああ……硬い。いい音だ。頭の芯まで響く……美味いな……塩気が、たまらない……」

 男性の顔に、強烈な恍惚が広がっていく。頬が異常に紅潮し、荒かった呼吸が甘い吐息へと変わる。


「……処置、完了です。いかがですか」

 十五秒後。朱音が無機質な声で告げる。

 男性はゆっくりと目を開けた。

 先ほどの生々しい苦悩は、もう微塵も残っていない。感情の抜け落ちた穏やかな灰色の笑顔だけが、彼の顔に不自然に張り付いていた。


「……素晴らしい。とても満足しました。自分がなぜあんな下らないことでイライラしていたのか、今では不思議なくらいです。やはりエデンの導きは正しい。感謝します」


 深く、機械的な一礼を残し、男性は足取りも軽くブースを去っていった。

 朱音は、白く発光するコンソール越しに、彼の背中が無音のフロアの奥へと消えていくのを見送った。


 私は今、彼を救ったのではない。システムの手足として、彼の魂を殺したのだ。


 朱音は、デスクの下で、無意識のうちに自分の左手首を右手で強く握りしめていた。

 爪が衣服越しに皮膚へ深く食い込み、今朝と同じ、微かで生々しい痛みが走る。

 エデンのアラートは鳴らない。続けてい

 完璧に温度管理された白亜のフロアの真ん中で、朱音はその痛みだけを、自分がまだ操り人形になっていない唯一の証明として、強く手首を握りしめた。

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