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第二話:噛み応えのない世界

第二章をご覧いただきありがとうございます。

前話で「泥臭い不純物」を飲み込んだ朱音。

今回は、彼女が普段どのような仕事をしているのか、エデンが支配する世界の「救済」の正体を描きます。

「噛みたい」という、ただそれだけの願いすら許されない街。

管理官として、その願いを「最適化」という名で塗り潰さなければならない朱音の葛藤を感じていただければ幸いです。

 口の中に、まだあの不純物の泥臭い味が残っている気がした。

 朱音は無意識のうちに、自席で奥歯を強く噛み締めていた。しかし当然ながら、そこにはもうあの硬い異物の軋む感触はない。あるのは、完璧にメンテナンスされた自身の歯の、無機質なエナメル質の感触だけだ。

 

 市役所十五階、『住民感情管理課』。

 その巨大なフロアは、空間そのものが氷点下で凍りついているかのような、圧倒的で暴力的な静寂に支配されていた。

 天井の端から端まで敷き詰められた均一な面発光パネルからは、影という影をすべて白く飛ばしてしまう、冷酷な純白の光が降り注いでいる。数百人もの職員が、等間隔に並んだ白いデスクに向かっている。これほどの人間の密集がありながら、そこにはオフィス特有の熱気も、ざわめきも一切存在しなかった。

 物理的なキーボードを叩く打鍵音はない。電話のコール音も、同僚同士の私語も、足音さえも鳴らない。すべての業務データとコミュニケーションは、網膜デバイスと脳内インターフェースを通じて直接デジタル処理される。彼らが無駄に声帯を震わせ、空気を揺らす必要などどこにもないのだ。

 鼓膜を圧迫するほど無音の空間を満たしているのは、微小なチリの浮遊さえも許さない超高性能な空調設備が、一定のリズムで無臭の冷気を吐き出し続ける低い駆動音だけだった。


 午前十時。

 朱音のデスクの向かいに設置された、透明なアクリルパーティションで仕切られた来客用ブースへ、一人の男性市民が案内されてきた。

 年齢は四十代半ばだろうか。エデンがこの季節に強く推奨している、汚れの目立たないグレーの市民服。だが、彼の着こなしには、このフロアの完璧な白さに反発するような、不快な乱れがあった。

 肩のラインが不自然に強張っており、シャツの第一ボタンは引き千切るように外されている。首元には薄っすらと脂汗が浮かび、瞬きの回数が異常に多い。彼は案内されるまま椅子に浅く腰掛けるなり、机の下で微かに、しかし一定のリズムで貧乏ゆすりを始めた。

 コツ、コツ、コツ。

 靴の底が床を叩く微かな振動。この徹底的に管理された無菌室の世界において、無意識の律動という身体的ノイズは、明確なストレス蓄積のサインだった。


「おはようございます。個体識別番号、C-319様」

 朱音は、デバイスが指示する『最も相手に安心感を与える声色とトーン』を忠実に再現し、マニュアル通りの柔らかい微笑みを顔に貼り付けた。

「本日はどのようなご相談でしょうか」


 男性は、充血して細い血管が網目状に浮かんだ目をぎょろりと動かし、朱音の顔を食い入るように見つめた。そして、チリ1つない清潔な白いテーブルの上で、両手の指をせわしなく絡ませたり解いたりしながら、ひどく掠れた声で話し始めた。


「……飯だ。毎朝、毎晩出てくるあのペースト食。エデンが俺の生体データに合わせて計算してくれているんだ、栄養が完璧なのは分かってる。味だって悪くない、いや、むしろ甘くて美味いんだろうよ。でも、俺はもうウンザリなんだ」

「味覚の調整をご希望ですか?」

 朱音は手元のコンソールに視線を落とし、淡々と応じた。

「今週の推奨フレーバーのリストには、旧時代のローストビーフの旨味を再現した新しいデータが追加されておりますが――」

「違う! 味の話なんかしてない!」


 ドンッ!

 男性が突然声を荒らげ、身を乗り出してアクリル板を乱暴に叩いた。

 鼓膜を打つ、明確な物理的ノイズ。しかし、周囲のデスクで働く職員たちは誰一人としてこちらを振り向こうとはしない。彼らの視界と聴覚にはすでに強固なノイズキャンセリング・プロトコルが働いており、このブースで起きている異常を、自分たちの世界から完全に「透明なもの」としてシャットアウトしているのだ。


「噛みたいんだよ……!」

 男性は、両手で自分の頭を抱え込むようにして、胃の底から絞り出すような声で呻いた。


「バリボリと、頭蓋骨の芯にビリビリ響くような硬いものを、自分のこの歯で噛み砕きたいんだ! 柔らかくて滑らかで、ほとんど飲み込むだけで胃袋へ消えちまうあのペーストじゃ、俺が『メシを食った』って気が少しもしない。腹はパンパンに膨れるのに、口の中が、顎の筋肉が、ずっと寂しくてしょうがないんだ! その得体の知れないイライラが頭の中でずっと渦巻いていて、昨日の夜は一睡もできなかった。なあ、俺は、狂っちまったのか……?」


 朱音の心臓が、肋骨の裏側でドクンと大きく跳ねた。

 なんて非合理的で、泥臭く、人間臭い不満だろうか。

 固形物を自らの顎で咀嚼すれば、胃腸への消化負担が劇的に増加し、歯牙の摩耗リスクや口腔内を怪我するリスクも跳ね上がる。ましてや「頭蓋骨に響くような硬いもの」など、エデンがそんな非効率で、怪我という『失敗』のリスクを伴う危険な食事を許可するはずがない。

 彼は狂ってなどいない。

 すべてが最適化され、痛みを排除されたこの世界で、彼は「面倒くささ」や「抵抗感」という名の愛おしい失敗を、本能レベルで狂おしいほど渇望しているのだ。


 今朝の私と、同じだ。

 朱音の口内に、あの石礫のような不純物を噛み砕いた時の、痛みに似た快感が蘇る。あれを飲み込んだ時の、胃に落ちる確かな重み。彼が求めているのは、まさにあの「生きているという実感(ノイズ)」そのものだった。


 ピリッ、と。

 朱音の視界の隅で、エデンの管理コンソールが静かに、しかし絶対的な自己主張を伴って冷酷な緑色の明滅を始めた。


『診断結果:口腔内の物理刺激不足による、軽度のドーパミン分泌低下』

『特記事項:対象者は無意識に心拍を制御し、生体データの異常検知を回避していた形跡あり。慢性的な「飢え」の長期間にわたる潜伏を認める』


 朱音の指先が、氷のように冷たくなる。

 この男は、この「噛みたい」というどうしようもない飢えを、システムに奪われまいと、心の奥底で必死に隠蔽し続けてきたのだ。自分の身体に嘘をつき、心拍数を偽装してまで。

 だが、その潜伏も限界を超えた。

 視界の中央に、『最適化パッチを実行しますか?』というシステムからの最終確認ウィンドウが、赤みを帯びた警告色で浮かび上がる。


(待って。彼からそれを奪わないで)


 朱音は視線を激しく泳がせ、実行キーの承認をためらった。

 彼が抱えるその飢えは、生身の人間としての証明だ。それをシステムの力で麻痺させてしまえば、彼は二度と本当の空腹を感じられない、ただの満ち足りた人形になってしまう。あのパサパサの毛並みの猫を愛した老人と、同じように。

 しかし、私がここで承認を遅らせればどうなるか。

 この網膜デバイスが、朱音自身の『共感と躊躇い』をシステムへの反逆(重篤なエラー)として検知し、二人まとめて「()()」の対象として処理される。

 逃げ場など、最初からどこにもなかった。


「C-319様……」

 朱音は、血を吐くような罪悪感をマニュアルの微笑みの裏に隠し、微かに震える声で告げた。

「どうかご安心ください。あなたは決して狂ってなどいません。エデンより、あなたの不満を完全に解消する救済が届きました。これを受け入れれば、あなたのイライラはすぐに治まります」

「……救済? 俺に、硬いものを食わせてくれるのか?」

「はい。目を閉じて、少しだけ顎の力を抜いて、リラックスしてください。……すぐに終わりますから」


 男性がすがるような顔で、半信半疑のまま目を閉じる。

 朱音は絶望と共に、コンソールの実行キーを視線で打ち抜いた。


 ブースの天井に埋め込まれた不可視のトランスミッターから、微弱な指向性電磁波が男性の脳の特定部位へと直接照射される。

 変化は、あまりにも劇的で、そして身の毛のよだつほど不気味だった。

 数秒前まで貧乏ゆすりをして苛立ち、苦悩に顔をしかめていた男性の肩から、風船がしぼむようにスゥッと力が抜けた。閉ざされた瞼の下で眼球が小刻みに痙攣するように動き、強張っていた口元が、だらしなく、だらしなく緩んでいく。

 そして、彼は何も入っていない空っぽの口を、ゆっくりと上下に動かし始めた。


「あ……」

 ガチ、ガチ。

 上下の歯が不器用にぶつかる、乾いた音がブース内に響く。


「ああ……硬い。いい音だ。頭の芯まで響く……美味いな……塩気が、たまらない……」

 男性の顔に、エクスタシーにも似た強烈な快感が広がっていく。頬が異常に紅潮し、荒かった呼吸が甘い吐息へと変わる。

 エデンが彼の聴覚野へ直接デジタル信号で「硬いスナック菓子を噛み砕く音」を高解像度で送信し、同時に顎の筋肉の神経系へ電気信号を送って「硬いものを噛んでいる物理的な抵抗感」を脳に強制錯覚させているのだ。

 現実の彼は、物理的には何も食べていない。ただ市役所の無機質な椅子に座り、虚空に向かって空気を噛み締めているだけだ。しかし、彼の脳内では今、極上のジャンクフードを貪る、この上なく幸福で、一切の「怪我の失敗」を伴わない完璧な食体験が鮮やかに展開されている。


「……処置、完了です。いかがですか」

 十五秒後。朱音が無機質な声で告げる。

 男性はゆっくりと目を開けた。

 先ほどの生々しい苦悩や苛立ちは、もう微塵も残っていない。憑き物が落ちたかのようだった。いや、システムという巨大な手によって、彼の抱えていた「泥臭い人間性」ごと完全にフォーマットされたのだ。感情の抜け落ちた穏やかな灰色の笑顔だけが、彼の顔に不自然に張り付いていた。


「……素晴らしい。とても満足しました。自分がなぜあんな下らないことでイライラしていたのか、今では不思議なくらいです。やはりエデンの導きは正しい。感謝します」


 深く、機械的な一礼を残し、男性は足取りも軽くブースを去っていった。

 朱音は、白く発光するコンソール越しに、彼の背中が無音のフロアの奥へと消えていくのを見送った。

 一件落着。市民のストレスは完全に排除され、彼の一日は、システムが約束した「失敗のない灰色」へと正しく引き戻された。


 だが、朱音の胸の奥底で、今朝見かけたあの「黒いノイズ」のような、強烈な拒絶反応がチリッと音を立てた。

 私は今、彼を救ったのではない。システムの手足として、彼の魂を殺したのだ。

 システムは、人間の不完全な形を決して愛してはくれない。はみ出た部分は、麻酔をかけて無慈悲に削り落とすだけだ。


 朱音は、デスクの下で、無意識のうちに自分の左手首を右手で強く握りしめていた。

 爪が人工シルクの衣服越しに皮膚へ深く食い込み、今朝と同じ、皮膚が破れる寸前の微かで生々しい痛みが走る。

 どれだけ強く握って自分を傷つけても、エデンのアラートは鳴らない。巨大なシステムにとって、一人の人間が自ら課した痛みと罪悪感など、エラーとして認識する価値もないノイズに過ぎないのだ。

 完璧に温度管理された白亜のフロアの真ん中で。朱音はその「痛みを伴うノイズ」だけを、自分がまだマリオネットになっていない唯一の証明であるかのように、強く、強く手首を握りしめ続けていた。

第二章をお読みいただきありがとうございました。

目の前の人間から「飢え」や「苦悩」という人間らしさを奪い、空っぽの笑顔に変えていく。

それが正しいことだと分かっていても、朱音の心拍数は嘘をつけませんでした。

最後に彼女が自分の手首を握りしめた「痛み」。

それだけが、今の彼女にとって唯一の『本物の感覚』です。

次回、第三章。

朱音の同期であり、エデンの正しさを体現する親友「サキ」が登場します。

ぜひ【ブックマーク】や【評価】で、朱音の反逆を応援していただけると嬉しいです!

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