第一話:無痛の朝と、最適化された朝食
「おはようございます、朱音様。時刻は午前七時。本日の運勢パラメータは『穏やかな灰色』です」
枕元のスマートスピーカーが、淀みなく朝を告げた。
「本日の特別推奨行動をお知らせします。午後三時、中央駅前の交差点にて、指定の『青いリボン』を身につけてください。エデンがあなたの欠落を埋める、完璧な『運命の出会い』を手配しています」
人間の声帯を極限まで解析し、鼓膜へのストレスを抑えつつ脳の覚醒を促すよう調律された合成音声だ。感情の揺らぎも、朝特有の気だるさもない。純粋な情報だけが、無菌室の空気を思わせる滑らかさで部屋を満たしていく。
朱音は瞼を持ち上げ、染み一つない天井を数秒見つめた。防音壁が外のノイズを完全に遮断している。耳鳴りがするほど静かだ。
瞬きを一つ。網膜のナノデバイスが起動し、視界の隅に青白いアイコンが灯る。
心拍数六十八。血圧百十の七十。コルチゾール値、正常。すべて安定領域。
確認してから、朱音はシーツの下で右手の人差し指の爪を、親指の腹へじわじわと食い込ませた。
チリッ、と痛みが走る。
システムに「ストレス値の異常」として検知されない、絶妙なライン。三年かけて見つけた閾値だ。すべてが麻酔をかけられたように心地よいこの世界で、朱音は毎朝こうして、自分の肉体がまだ生きていることを確かめてから起き上がる。
カーテンが開き、街が現れた。高層ビル群はすべて同じ明度のグレーで統一されている。歴史のアーカイブ映像で見た赤や黄色の看板は、都市の景観パッチから「不快な視覚刺激」としてとうに削除されていた。
「今日の、推奨ウェアは」
『ライトグレーの保温性シームレス・タートルネックと、同素材のスラックスを推奨します。本日の業務における疲労度を八パーセント軽減できます』
クローゼットがスライドし、指定の衣服がせり出す。朱音は無言で袖を通した。
肌触りは抜群にいい。伸縮性に富み、どこも締め付けず、着ていることすら忘れる。この世界に、朝クローゼットの前で悩む人間は存在しない。服も、仕事の進め方も、夕飯の献立も、休日の過ごし方も。すべてはエデンの演算結果として推奨される。従ってさえいれば、誰も失敗せず、誰とも衝突せず、平穏に一生を終えられる。
無臭のキッチンで、全自動調理器が起動した。
銀色のトレイに吐き出されたのは、本日の体調に完璧にアジャストされた薄緑色の栄養ペースト。朱音はスプーンで掬い、口へ運んだ。
味は悪くない。網膜デバイスが味覚神経へ直接信号を送り、マスカットに似た甘みを脳に錯覚させている。咀嚼はほとんど必要ない。消化吸収効率は九十九パーセントを超え、胃腸への負担は皆無。
だが、最後の一口を飲み込もうとした、その時だった。
ガリッ。
静寂の室内で、頭蓋骨に直接響く破壊音が鳴った。
「……っ」
滑らかなはずのペーストの中に、砂粒ほどの、けれど確かな硬さを持つ固形物が混じっている。
エデンの食事に不純物は存在しない。咀嚼という無駄を省き、栄養摂取を『処理』へ最適化した完成品だ。
製造エラーか。見落とされた塵か。
朱音はそれを吐き出さず、奥歯の上で転がした。そして、震える顎に力を込めた。
カリッ、ミリリ……。
舌をザラリと撫でる、土の匂い。奥歯から脳天へ抜ける鋭い痛み。デジタルな甘みを突き破って、苦い金属のような、形容しがたい味が広がった。
その瞬間、封印していたはずの記憶がフラッシュバックした。
——幼い頃、母がこっそり食べさせてくれた、形の悪い果実。
——歯茎に刺さる種。口に残る渋い皮。飲み込む時の、喉を引っ掻く不快感。
——それを「痛いね、食べにくいね」と言いながら笑い合った、母の体温。
網膜の警告灯が、血のような赤で明滅する。
『緊急。口腔内に未登録の異物の混入を確認。直ちに吐き出し、洗浄を行ってください。清掃ドローンを派遣——』
「……拒否」
喉の奥から絞り出した。
ドローンが来る前に。エデンがこれをエラーとして回収し、母の記憶ごと鎮静パッチで上書きしてしまう前に。
朱音は硬い異物を、喉を焼く不快感とともに飲み込んだ。
胃の底に、小さな重みが落ちる。
網膜のニュースフィードが、不意に色彩を放った。
『今週、花束を贈られた市民:三名。彼らの幸福は永遠に固定されました』
極彩色の花に囲まれ、眠るように微笑む三人の遺影が流れていく。
誰も、それが何なのかを説明しない。説明する必要がないからだ。市民は皆、知っている。知っているのに、誰も口にしない。
朱音は、飲み込んだばかりの異物が胃の底で急速に冷えていくのを感じた。
「……失敗のない、一日、か」
朱音は網膜デバイスへ、直前十五秒ぶんの生体ログを整形するコードを送信した。心拍の跳ね上がりを「起床時の自然変動」に、コルチゾールの急上昇を「軽度の空腹反応」に。指の動きだけで数秒。
感情管理課で三年。他人の心を修正する仕事は、自分の心を隠す技術も同時に教えてくれた。
トレイを片付け、部屋を出る。
モノレールの車内は、不気味なほど静かだった。乗客は皆、背筋を伸ばして座り、網膜の情報を無言で眺めている。表情は蝋人形のように、一ミリの歪みもない「穏やかな無」で固定されていた。
その時。
チリッ、と。
完璧な灰色のインターフェースを引き裂くように、一瞬だけ、不規則な「黒いノイズ」が視界を走った。
エデンの整然としたエラーコードとは違う。もっと乱暴で、もっと感情的な乱れ。
システムはコンマ一秒でそれを「外部からの微細な干渉バグ」として消去した。視界はすぐ元の灰色に戻る。
だが、朱音の心臓はトクンと跳ねた。
朝食で噛み砕いたものと同じ、強烈な異物感。
誰かが。あるいは何かが。この無菌室の外側で、抗っている。
『——間もなく、中央管理区画』
アナウンスが思考を断ち切った。朱音は小さく息を吐き、呼吸を整える。
午後三時、中央駅前の交差点。システムが用意した『運命の出会い』。
私の欠落を埋める、とエデンは言った。
——欠落。
なぜエデンは、私に欠落があると知っている。
朱音は蝋人形たちの列に混じり、灰色の日常へと足を踏み出した。
胃の底には、まだ小さな重みが残っていた。




