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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第一部 無痛の箱庭と、反逆の産声
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第一話:無痛の朝と、最適化された朝食

「おはようございます、朱音様。時刻は午前七時。本日の運勢パラメータは『穏やかな灰色』です」

 枕元のスピーカーが、淀みなく朝を告げた。感情の揺らぎも、気だるさも、一切ない声だった。

「本日の特別推奨行動をお知らせします。午後三時、中央駅前の交差点にて、指定の『青いリボン』を身につけてください。エデンがあなたの欠落を埋める、完璧な『運命の出会い』を手配しています。指定されたスケジュールに身を任せれば、一切の失敗や後悔のない一日が約束されます」


 朱音は重い瞼をゆっくりと持ち上げ、染み一つない真っ白な天井を数秒間見つめた。室内は耳鳴りがするほど静まり返っている。


 瞬きを一つする。網膜のデバイスが起動した。視界の隅でエデンの青白いアイコンが淡く発光し、生体データが半透明のウィンドウとなって空間へ浮かび上がる。

 心拍数六十八。血圧は百十の七十。コルチゾール値は正常。すべてが「安定」の領域に収まっていることを確認した朱音は、シーツの下に隠した右手の人差し指の爪を、親指の腹へじわじわと食い込ませた。

 チリッ、と微かな痛みが走る。

 システムに検知されない、絶妙なラインの痛み。朱音は毎朝こうして、自分の肉体がまだ生きていることを密かに確かめてから、人工シルクのシーツを押し退けるのを日課としていた。


 微かなモーター音とともに遮光カーテンが左右へと開き、エデンが管理する都市の姿が現れる。立ち並ぶ高層ビル群は、すべて同じ明度のグレーで統一されていた。かつて歴史のアーカイブ映像で見た赤や黄色の看板は、「不快な視覚刺激」としてとうの昔に消されている。


「今日の、推奨ウェアは?」

『本日の気温と朱音様の生体データから演算しました。ライトグレーの保温性タートルネックと、同素材のスラックスを推奨します。これにより、今日の業務における疲労度を八パーセント軽減できます』


 クローゼットの扉がスライドし、指定された衣服がせり出してくる。朱音は無言で手を伸ばし、機械的に袖を通した。


 無臭のキッチンへ向かう。全自動調理器がかすかな駆動音を立てて起動した。数秒後、銀色のトレイへ吐き出されたのは、薄緑色の栄養ペーストだった。

 朱音はスプーンを取り、緑色の塊を掬い上げる。口へと運んだ。

 味は決して悪くない。マスカットに似た爽やかな甘みが広がる。ほとんど咀嚼する必要もなく喉の奥へ落ちていく。

 その最後の一口を飲み込もうとした、その時だった。


ガリッ。


 静寂の中で、頭蓋骨に直接響くような音が鳴った。

「……っ」

 朱音は動きを止める。

 滑らかなペーストの中に、砂粒ほどの、けれど確かな硬さを持った固形物が混じっている。


 ただの塵か、製造エラーか。

 朱音はそれを吐き出さず、奥歯の上で慎重に転がした。そして、震える顎に力を込める。

 カリッ、ミリリ……。

 無菌の舌をザラリと撫でる、有機物特有の土の匂い。エデンが送り込むデジタルな甘みを突き破り、どろりとした土のような、苦い金属のような、形容しがたい泥臭い味が広がった。


 朱音の脳裏に、断片的な記憶がフラッシュバックした。

 ――幼い頃、母が監視の目を盗んで、こっそり食べさせてくれた形の悪い果実。

 ――歯茎に刺さる種。口の中に残る渋い皮。飲み込む時の、喉を引っ掻くような不快感。

 ――そして、それらを「痛いね、食べにくいね」と言いながら不格好に笑い合った、母の温かい体温。

 今、奥歯で軋んでいるこの石礫のような異物は、エデンが消し去った母との記憶そのもののように感じられた。


 直後、網膜の警告灯が血のような赤色に激しく明滅した。

『緊急。口腔内に未登録の不純物の混入を確認しました。朱音様、直ちに吐き出し、洗浄を行ってください。清掃ドローンを派遣――』


「……拒否」

 朱音は、喉の奥から絞り出すような声で呟いた。

 ドローンが来る前に。エデンがこの痛みをエラーとして回収し、母の記憶ごと鎮静パッチで上書きしてしまう前に。

 朱音は、その鋭い異物を、喉を焼くような不快感と共に一気に飲み込んだ。


 胃の底に落ちる、小さな重み。

 エデンが支配するこの完璧な檻の中で、朱音が初めて自らの意志で「獲得」した、システムに属さない傷跡だった。


 ふと、網膜のニュースフィードが、鮮やかな色彩を放った。


『今週、花束を贈られた市民:三名。彼らの幸福は永遠に固定されました』


 画面には、極彩色の花々に囲まれて眠るように微笑む市民の遺影が流れる。

「花束」――。

 それは、重篤なエラーを抱え、もはや修正不能と判断された者へ贈られる、エデンからの「最終救済」の隠語だ。

 対象者は、脳内に一生で最も望んだ色彩の幻覚を強制的に見せられながら、その精神構造を完全に初期化される。あるいは、肉体の稼働そのものを停止させられる。

 それは死よりも深い、極彩色の檻。

 朱音はそれを見て、胃の底に飲み込んだ異物が、急速に熱を失い、冷たい氷の塊に変わるのを感じた。


 朝ごとに爪を立てる小さな反逆の意志。母の記憶への執着。

 これがもし、システムに重篤なバグとして検知されたなら。

 私もいつか、あの極彩色の幻覚の中で、精神を消去されるのではないか。何も感じず、何も望まず、ただ穏やかな灰色として生きることを拒絶した代償として。

 それは平和という名の手袋をはめた、底なしの暴力だった。


「……失敗のない、一日、か」


 朱音はトレイを片付け、自室のドアを開けて廊下へ出た。


 出勤のために乗り込んだモノレール車内は、不気味なほどの静寂に包まれていた。乗客たちは皆、一様に背筋を伸ばして座り、網膜デバイスの情報を無言で眺めている。その表情は精巧な蝋人形のように、一ミリの歪みもない「穏やかな無」で固定されていた。


 ふと、視界の隅に奇妙な現象が起きた。

 チリッ、と。

 整然とした灰色のインターフェースを引き裂くように、一瞬だけ、不規則な黒いノイズが走った。エデンのエラーコードとは違う、ひどく感情的な乱れ。

 システムはそれをコンマ一秒で消去し、視界は元の穏やかな灰色へと戻った。

 だが、朱音の心臓はトクンと大きく跳ねた。

 誰かが、あるいは何かが、この完璧な無菌室の世界の外側で、抗い、もがいている。そんな熱が、ノイズの残像に焼き付いていた。


 窓の外へと視線を向ける。

 再開発から漏れ、解体を待つ古いビル群の隙間で、塗料の剥げ落ちた旧時代の看板が痛々しい姿を晒している。風雨に晒されて錆びついたその残骸は、エデンが排除した非効率な自己主張の痕跡だ。


 錆びた看板の色と、先ほどの黒いノイズの余韻。胃の奥に沈む、硬い異物の重み。

 すべてが正しい。すべてが最適で、誰も傷つかず、飢えない。

 けれど、自分の人生という名前の余白が、いつの間にか誰かの手によって一文字残らず強制的に塗り潰されているような気がしてならなかった。効率的で、無色透明なインクを使って。


「……私は、ちゃんと傷つきたい」


 地下廃棄待機室に隠した、母の古い日記の匂いを思い浮かべながら、朱音は唇を動かした。


『――間もなく、中央管理区画。本日の推奨行動を再度ご確認ください』


 車内アナウンスが、朱音の思考を断ち切る。

 朱音は小さく息を吐き出し、網膜のパラメータに警告が出ないよう呼吸を整えた。

 今朝のスピーカーの声を思い出す。午後三時、中央駅前の交差点。システムが用意したという『運命の出会い』。

 それが、私を幸福なマリオネットにするための修正パッチなのか、それとも、私というエラーを完全にフォーマットするための冷酷な罠なのか。どちらにせよ、もう後戻りはできない。


 朱音は蝋人形たちの列に混じり、今日という灰色の日常へと足を踏み出した。

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