第三十二話:猟犬と手負いの獣
【24:50】
蓮は、詰んでいた。
空中を立体的に浮遊する数十機の軍用ドローンに対し、生身の人間が物理的に防御するなど、計算上あり得ない。
ましてや、彼には体重がなかった。
大人の男なら、鉄パイプで熱線を弾いても踏みとどまれる。
だが、十九歳の、まだ肉の付ききっていない身体では、一撃ごとに姿勢を崩される。腕が痺れる。踏ん張った足が滑る。
そして何より、エデンは彼の動きを完全に予測していた。
筋肉のわずかな収縮。視線の動き。血中酸素濃度。
巨大な演算回路は、それらから彼が次に取る行動を、九十九パーセントの精度で先読みしている。
(——クソが)
蓮は、血反吐を吐き捨てながら思った。
(相手は八十億人の脳みそを束ねたバケモンだぞ。……喧嘩の駆け引きなんか、通用するかよ)
そして、彼は理解した。
予測されるのは、彼が「合理的に動く」からだ。
人間は痛みを避ける。危険から逃げる。急所を庇う。
その生物としての大前提が、エデンの予測モデルの土台になっている。
なら。
「……なあ、エデン」
蓮は、口の端から血を垂らしたまま、嗤った。
「てめぇの計算は、お行儀が良すぎるんだよ」
三機のドローンが、彼の左側へ照準を集中させた。
安全な回避方向だ。エデンは、彼が左へ跳ぶと予測した。
蓮は、右へ跳んだ。
照準の、真正面へ。
『……!?』
ジュッ、と音がして、熱線が彼の右肩を抉った。
激痛。肉が炭化する匂い。
だが、彼は止まらなかった。
自ら熱線に飛び込んだことで、ドローンの照準補正が追いつかない。その一瞬の空白で、蓮は最も近い一機の懐へ潜り込んでいた。
ガシャァァンッ!!
鉄パイプが、機体の光学センサーを叩き割る。
火花を散らして、白い猟犬が床に激突した。
「一機」
蓮は、右肩から噴き出した自分の血が、足元に溜まっているのを見た。
そして、それをブーツの爪先で蹴り上げた。
バシャッ!!
生温かい血の飛沫が、頭上に展開していた数機のドローンの光学センサーへ、べっとりと降りかかった。
『エラー。光学視界の喪失。対象の捕捉に失敗……再計算……』
視界を塞がれたドローンたちが、不規則に宙を迷走し始める。
「二機。三機」
蓮は、血に濡れたパイプを乱舞させた。
彼の戦い方には、防御という概念がなかった。
躱さない。庇わない。急所を守らない。
当たる場所を、自分で選んで、当たりに行く。
肉を焼かれるたびに、エデンの予測は一秒遅れた。
その一秒で、彼は一機を落とした。
『……対象の行動原理、理解不能』
サキの口から、エデンの混乱した音声が漏れた。
『なぜ、自ら肉体の損壊を伴う軌道を選択するのですか。生存確率が著しく低下します』
「あぁ、下がってるだろうな」
蓮は、肩で息をしながら答えた。
立っているのが不思議なほどの状態だった。左太ももは貫通し、右肩は炭化し、口からは絶えず血が流れている。
「けどな」
彼は、真紅に光る少女の瞳を睨みつけた。
「てめぇらは、痛みを『避けるべきバグ』として計算してる。……だから甘ぇんだよ」
蓮は、パイプを肩に担ぎ直した。
「俺たちは、その痛みを燃料にして、限界を超えちまう生き物なんだ」
◇
【21:33】
残ったドローンは、五機。
だが、蓮の身体も、もう保たなかった。
視界の端が黒く欠け始めている。失血で脳に酸素が回っていない。
指先の感覚は消え、パイプを握っているのかどうかも分からない。
(あと、どのくらいだ)
彼は、背後を見なかった。
見れば、朱音がこちらを見てしまう。
(……もう少しだ。もう少し、持たせろ)
その時、白い蒸気の靄を切り裂いて、音もなく「それ」が懐へ潜り込んだ。
サキだった。
彼女の小柄な身体は、エデンの完璧な重心制御下にあった。
人間が攻撃を繰り出す時に必ず生じる肩の予備動作も、呼吸の力みも、完全に消失している。まるで重力が彼女だけを特別扱いしているような、滑らかな挙動。
右手に握られた白磁のスタン・バトンが、青白い火花を散らして、蓮の脇腹めがけて振り抜かれた。
「くっ……!」
蓮は咄嗟にパイプを盾にした。
小柄な少女の一撃とは思えない、油圧プレスのような質量。
人間の筋力リミッターを完全に解除された、システムによる最適化打撃。
メキリ、と肋骨が嫌な音を立てた。
さらに、金属を伝った数万ボルトが腕を駆け上がり、全身の神経を焼き切る。
「がはっ……!」
蓮の身体が、紙屑のように吹き飛ばされた。
床を転がり、咳き込むたびに大量の血が吐き出される。
三機のドローンが頭上に展開し、照準を合わせた。
サキもまた、無表情のまま音もなく距離を詰めてくる。
蓮は、床に這いつくばったまま、笑った。
「……サキ」
彼は、掠れた声で呼んだ。
「お前、今日、朱音の顔見たか」
サキの足が、止まらなかった。
「見てねぇよな。ずっと目を逸らしてる」
彼は、震える腕で上体を起こした。
「お前、あいつの顔を見ると、なんか出てくるんだろ。……だから見ねぇんだ」
『音声入力による論理干渉を検知。無意味です』
「そうかい」
蓮は、鉄パイプを支えにして、立ち上がった。
膝が笑っている。目の焦点が合っていない。
それでも、立った。
「なら、いくらでも喋ってやるよ」
彼は、口の中の血を吐き捨てた。
「後ろで泣きながらキーボード叩いてんのは、お前が世界で一番好きだった女だ。……お前、あいつと毎日メシ食ってたんだろ。ペーストの味に文句言い合って」
サキの歩みが、一瞬、ほんの一瞬だけ、乱れた。
蓮は、それを見逃さなかった。
(……いる)
彼は、確信した。
(まだ、こいつの中にいる)
【19:02】
蓮は、鉄パイプを両手で握り直した。
もう、勝つためではなかった。
こじ開けるためだった。




