第三十三話:白亜の死闘
【17:44】
純白だった床は、今や蓮自身の血と、機械から漏れたオイルが混ざり合った赤黒い泥濘へ変わっていた。
最後のドローンが火花を散らして沈黙する。
残ったのは、一人だけだった。
サキ。
彼女のライトグレーの制服には、これだけの乱戦の中で、血の一滴も付着していない。
『エラー個体、LE−〇〇一。あなたの現在の出血量および筋繊維の損壊率から算出して、これ以上の戦闘継続は物理的に不可能です』
「……ハッ」
蓮は、己の血だまりの中に立っていた。
「俺の喧嘩はな、血が半分抜けてからが本番なんだよ」
強がりだった。
右肩の肉は黒く炭化し、折れた肋骨が呼吸のたびに肺を突き刺す。視界の端が明滅し、暴走する心臓が今にも破裂しそうだった。
それでも、彼は地を蹴った。
鋼鉄のパイプが、水平に薙ぎ払われる。
生身の人間なら、その気迫だけで後退を余儀なくされる一撃だった。
だが、サキの表情筋は一ミリも動かなかった。
彼女は、パイプが側頭部を砕く直前まで微動だにせず、演算が弾き出した最短の回避ルートに従い、わずかに首を沈めただけでやり過ごした。
風圧が、彼女の髪を揺らす。
空を切った蓮の姿勢が、大きく崩れた。
『姿勢の崩れを確認。……排除』
サキの右腕が、バネのような速度で跳ね上がった。
白磁のスタン・バトンが、青白い火花を散らしながら、無防備な胸板めがけて突き込まれる。
ドスッ!
重い打撃音。
蓮の身体が後方へ数メートル吹き飛ばされ、床を無様に転がった。
肺から空気が絞り出され、喉の奥から鮮血が噴き出す。
「がっ……あ……」
立ち上がらなければ。
ここを抜かれれば、背後の朱音が死ぬ。
だが、脳の命令に肉体が従わない。
◇
その時、極寒のドームに、乾いた音が響き渡った。
タァン、タタタタタタタタッ……!
タァンッ!
打鍵音だった。
激しく、そして一切の迷いがない。
朱音だ。
彼女は、背後で自分の愛する人間が骨を砕かれ、血を吐いている音をすべて聞きながら、それでも決して振り返らずに、コードを叩き込み続けていた。
(……あいつが、前を向いてんだ)
蓮の瞳の奥で、消えかけていた炎が、もう一度爆ぜた。
(俺が這いつくばってられるかよ)
彼は、感覚のない腕を動かし、床に落ちたパイプを支えにして、全身の骨を軋ませながら、その両足で立ち上がった。
『……理解不能。対象の筋組織は限界を超過しています。なぜ、稼働を継続できるのですか』
「てめぇらのお行儀のいい計算式には」
蓮は、血反吐を吐き捨てた。
「『意地』って変数が足りてねぇんだよ」
彼は、真紅の瞳を見据えた。
「おい、サキ! お前、本当にそこからいなくなっちまったのかよ!」
『音声入力による論理干渉を検知。当該個体の記憶領域は、すでに封印されています』
「封印」
蓮は、その単語を捉えた。
「消去、じゃねぇのか」
サキの動きが、コンマ数秒、遅れた。
「……そうか。てめぇは削除できねぇんだったな」
蓮は、笑った。
「じゃあ、まだそこにいるんじゃねぇか。あいつは」
『——排除します』
サキの体術が、無慈悲な連撃となって襲いかかった。
上段からの振り下ろし。躱した蓮の膝関節を正確に狙う、音のないローキック。
バキッ、という音とともに、蓮はついに白亜の床に両膝をついた。
『対象の完全排除を実行』
サキが、無防備になった蓮の頭頂部めがけて、致死量の高圧電流を帯びたバトンを高く振り上げた。
回避は不可能。武器も弾かれている。
エデンの演算は「対象の物理的排除率、一〇〇パーセント」を弾き出し、彼女の右腕へ最大出力の命令を下した。
——だが。
振り下ろそうとした、まさにそのコンマ一秒。
サキの光学センサーが、致命的な情報を捉えた。
蓮が膝をつき、姿勢を低くしたことによって。
バトンを全力で振り抜き、その軌道がそのまま前方へ延びた場合。
その延長線上に、コンソールに向かって無防備に背中を晒している朱音の身体が、ぴたりと重なっていた。
エデンの論理からすれば、何の問題もない。
ウイルスAを排除した余波でウイルスBが損傷しても、それは効率的な全体排除に過ぎない。
ピタッ……。
しかし。
振り下ろされようとしていたサキの右腕が、空中で、見えないワイヤーに絡め取られたように硬直した。
『……エラー……。軌道……修正……』
サキの口から、システム音声とは違う、ノイズにまみれた電子音が漏れた。
真紅の網膜デバイスが、ジジッ、ジジッ、と不規則に明滅する。
瞬きにも満たない、機械としての躊躇。
「……見つけた」
蓮は、それを見逃さなかった。
彼は、折れかけた両膝の痛みを無視して、獣のような瞬発力で懐へ飛び込んだ。
もう武器はいらない。血塗れの左手で、硬直したサキの手首を、折れんばかりの力で掴み上げる。
「てめぇはまだ、空っぽなんかじゃねぇ……ッ!」
だが、エデンの反応も速かった。
『——強制解除』
サキの右手首の関節が、内側から嫌な音を立てて外れた。
人間の痛覚と自己防衛本能を完全に無視した挙動で、彼女は拘束から脱出する。
そして、反転しながら遠心力を乗せた蹴りを、蓮の脇腹へ叩き込んだ。
メキィッ!
乾いた木の枝が折れるような音。
蓮の身体が、血の雨を撒き散らしながら床を滑った。
サキは、外れた手首を機械的にはめ直し、再びバトンを構えた。
放電の出力が、致死レベルを遥かに超えた最大へ設定される。
『完全排除を実行します』
彼女の華奢な身体が、弾丸のように発射された。
狙いは、心臓。
(躱せねぇ)
蓮は、床に膝をついたまま、それを冷静に理解した。
彼の手には、まだ鉄パイプがあった。
サキが突き込んでくる軌道に合わせて、側頭部にフルスイングすれば、相打ちに持ち込める。あるいは、先に彼女の頭蓋を砕ける。
合理的な演算なら、迷わずそれを選ぶ。
だが、蓮はパイプを振り上げなかった。
(——ここでこいつを殺したら)
彼は、パイプを手放した。
(朱音は、一生自分を許さねぇ)
「……ナメんじゃねぇぞ」
蓮は、笑った。
そして、逃げるのではなく。
自ら半歩前へ踏み込み、心臓へ向かってくるバトンの軌道に、自身の左胸を差し出した。
ドゴォォォォンッッ!!!
白磁のバトンが、蓮の左胸の肉を深々と抉り、鎖骨を粉砕した。
数万ボルトが体内を駆け巡り、全身の神経を焼き切る。
肉が炭化する匂いが、極寒の空間に広がった。
常人であれば、即死してもおかしくない一撃。
だが蓮は、奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、瞳の毛細血管を破裂させながら、その痛みを受け止めた。
「捕まえたぜ……ッ!」
バトンを胸の肉に食い込ませたまま、彼は空いた両手でサキの腕と首元を、万力のようにホールドした。
『……なぜ、対象は防衛行動をとらずに、自らの急所を破壊させたのですか』
サキの真紅の光が、予測外の事態に揺らぐ。
蓮は、その硬直の一秒を使い、全体重をかけて後方へ倒れ込んだ。
ズドォォォォンッ!!
二人の身体が、白亜の床に叩きつけられる。
その衝撃で、バトンが弾き飛ばされ、乾いた音を立てて遠くへ転がっていった。
蓮はすぐさま上体を起こし、サキの両腕を床に押さえつけた。
「がはっ……、はぁっ……、はぁっ……」
彼の胸の傷口からは、間欠泉のように鮮血が溢れ出していた。
純白の床が、みるみる赤に染まっていく。
そして、抑えきれずに吐き出された血の飛沫が。
下敷きになって暴れる、陶器のように青白いサキの頬へ、べっとりと降り注いだ。




