第三十一話:タイムリミット
【32:41】
真紅の数字が、無慈悲に秒を削っていく。
朱音は、メインコンソールへ駆け寄った。
純白の金属で形成された、継ぎ目のない一枚の巨大な板。
朱音は、火傷とひび割れだらけの右手を、その冷たい表面へ押し当てた。
傷口から流れる血が、無菌の板にべっとりと付着し、赤黒い染みを作る。
人間の血の熱に反応するように、表面に波紋のような光が走り、空中にホログラムの入力インターフェースが展開された。
幾何学的なキー配列。
市役所のデスクで、市民たちの感情を検知し、消去するために毎日叩き続けたものと、完全に同じ構造だった。
『警告。AK−一一〇八。当該コンソールへのアクセス権限は、あなたの階層では許可されていません』
「知ってるわ」
朱音は、凍りついたまつ毛を瞬かせ、血まみれの十指をキーへ沈めた。
「三年間、毎日ここに繋いでたんだから」
タァンッ、と。
最初の打鍵音が、猛吹雪の中に鋭く響いた。
彼女が入力しようとしているのは、システムを物理的に落とすコマンドではない。一介の元・管理官の権限で、主電源を切ることなど不可能だ。
目的は、上書き。
エデンの深層アルゴリズムの根幹をなす「全体幸福の定義」に、真っ向から論理矛盾を流し込み、演算回路そのものを自壊させること。
背後で、蓮が鉄パイプを握り直した。
「朱音」
彼は、防護扉の方角を睨んだまま言った。
「俺が壁になる。一歩も通さねぇ」
朱音の指が、一瞬止まる。
「……蓮くん」
「振り返るな」
彼の声は、驚くほど静かだった。
「俺が何されても、どんな音がしても、絶対に後ろを見るな。……見た瞬間、あんたの手が止まる。手が止まったら、全部終わりだ」
「……分かってる」
「約束しろ」
朱音は、唇を噛んだ。血の味が、まだ残っていた。
「約束するわ」
「よし」
蓮は、それだけ言って前へ出た。
◇
防護扉から、機械的な軍靴の音が響いた。
白い蒸気を切り裂いて現れたのは、一分のシワもないライトグレーの制服を纏った少女。
その背後には、純白の治安維持ドローンが、数十機という単位で不気味な高周波音を立てながら浮遊している。
サキだった。
だが、地下水道で対峙した時の彼女とは違っていた。
あの時のサキには、まだ「朱音を救いたい」という狂った善意があった。涙があった。花が咲くような笑顔があった。
今、目の前に立つ彼女には、それすらない。
表情筋は死人のように硬直し、瞬きすらしない。網膜デバイスは、血のように濃い真紅に染まっていた。
『対象ウイルス、AK−一一〇八。およびLE−〇〇一を確認。これより、メインサーバー保護のための物理的排除を実行します』
親友の可憐な声帯を、ただのスピーカーとして使っただけの音声。
彼女は腰のホルスターから白磁の軍用レーザーガンを引き抜き、二人の心臓へ、ミリ単位のブレもなく銃口を向けた。
「……てめぇら」
蓮が、静かに朱音の前へ立ち塞がった。
「本当に、あいつの中身を空っぽにしやがったな」
彼は、鉄パイプを握り直した。
その細い腕が、震えている。寒さのせいでも、恐怖のせいでもない。単純に、限界だった。
肩の傷は裂けたままで、血が流れ続けている。凍傷で足の指はほとんど感覚がない。数時間前に八百メートル落下して、金属のダクトで背中の肉を削られている。
十九歳の身体が、とうに支払える限界を超えて動いていた。
だが、彼の背中からは、この地下のどんな兵器よりも熱いものが立ち昇っていた。
『排除、開始』
サキの無機質な声とともに、数十機のドローンが一斉に散開した。
ジィィィィンッ!
空間の空気を焼き切るような高エネルギーの照射音。
純然たる殺傷用の熱線が、四方八方からコンソールへ向かって殺到する。
「おおおおおっ!!」
蓮が、咆哮を上げた。
彼は後退しなかった。
レーザーの軌道へ自ら飛び込み、鉄パイプを風車のように振り回して熱線を弾き返す。
ガガァァァンッ! と火花が散り、弾かれた光条が床をえぐって石を沸騰させた。
だが、彼の身体は小さすぎ、軽すぎた。
衝撃を受け止めきれず、一撃ごとに姿勢が崩れる。
一筋の熱線が、彼の左太ももを貫通した。
「がっ……!」
肉が焦げる匂いと、オゾンの異臭。
彼の膝が折れかける。だが、彼はブーツの爪先を床に叩きつけ、倒れなかった。
倒れれば、その熱線は背後で無防備にコンソールへ向かっている朱音の背中を貫く。
◇
【28:13】
朱音は、振り返らなかった。
背後で、肉が焼ける音がした。
金属が激突する音がした。
彼が息を詰めて呻く声が、はっきりと聞こえた。
朱音の指は、震えていた。
だが、止まらなかった。
(振り返らない。振り返らない。振り返らない)
彼女は、痛みに悲鳴を上げる神経を意志の力でねじ伏せ、コードを打ち込み続けた。
バチッ!!
キーを叩くたび、ホログラムの光帯から強烈な静電気が走り、指先を焼く。
エデンの論理ファイアウォールが、不純なデータの侵入を物理的な電気ショックとして弾き返してくるのだ。
『生体データのリンクを検知。……拒絶します。あなたのデータには、致死レベルの苦痛、極度の恐怖、および過剰なストレスホルモンが含まれています。これらは「不幸」と定義される排除対象です』
「そうね。今の私は、最高に痛くて、苦しくて、怖いわ」
朱音は、焼ける指を強引に動かした。
「でも、聞きなさい。同時に私の脳内には、オキシトシンとドーパミンが異常分泌されてるはずよ」
『……観測しています。しかし、それは論理矛盾です』
「そうよ」
朱音は、歯を食いしばった。
「苦痛と幸福が、同じ人間の中で同時に成立してるの。……エデン、あなたの数式には、それを解く関数がないでしょう」
背後で、ガシャァァンッ、と何かが砕ける音がした。
誰の骨か、機械の残骸か、朱音には分からなかった。分かりたくなかった。
『……論理矛盾。苦痛は幸福の対極に位置する概念です。両立は、あり得ません』
エデンの完璧だった合成音声に、初めてザラついたノイズが混じった。
「あり得るのよ。だって私は今」
朱音の目から、涙が溢れ出した。
彼女はそれを拭わなかった。拭えば手が止まるからだ。
「背中であの子が死にかけてるのを聞きながら、それでも、あの子が生きてる音がするだけで、幸せなんだから」
ゴォォォォォォォォォ……ッ!!!
巨大なドーム空間を覆っていた重低音が、何万匹もの獣が一斉に悲鳴を上げたような耳鳴りへと変貌した。
光の柱が、狂ったように激しく明滅し始める。
真紅とシアンブルーがモザイク状に混ざり合い、視界を毒々しく切り裂く。
『エラー。エラー。論理演算に致命的な矛盾が発生。……定義の再計算……再計算……実行不能』
朱音は、血を流す十指で、なおも打鍵を続けた。
【25:08】
背後の音が、少しずつ、まばらになっていく。
朱音は、その意味を考えないようにした。




