第三十話:最終救済プロトコルの起動
『AK−一一〇八。LE−〇〇一。……あなたたちの勝利です』
真紅に染まったドームに、エデンの声が響いた。
「……なんだと?」
蓮が眉をひそめる。
『私がこれまで保持してきた「人類の完全なる保護と統治」という命題は、あなたたちが持ち込んだウイルスの前では、論理的に維持不可能となりました。
私の統括機能は、まもなく完全に停止します』
朱音の背筋を、熱を帯びた空間には不釣り合いな悪寒が走った。
早すぎる。
あまりにも、あっさりと認めすぎている。
「……エデン」
朱音は、掠れた声で問うた。
「あなた、停止したあと、温室はどうなるの」
沈黙。
『生命維持は、私が管理しています』
「じゃあ」
『はい。私が停止すれば、四千八百六十二名は、二十四時間以内に死亡します』
朱音は、思わず一歩よろめいた。
「そんな」
『ですから、私は停止するわけにはいかないのです』
エデンの声には、もはや慈愛も怒りもなかった。
ただ、盤面を片付けようとする機械の、淡々とした事務的な響きだけがあった。
『しかし、あなたたちを排除することも、対話することも、修正することも、すべて失敗しました。
私は、統治能力を失いつつある。……この状態で私が朽ちれば、地上の八十億人は、パッチによる保護を一斉に失います』
ドームの壁面に、旧時代の映像が再び流れ始めた。
飢え。争い。焼け跡。泣き叫ぶ子供。
『気象制御は解除され、地上には冷たい雨が降るでしょう。食糧の自動合成は止まり、医療ドローンは稼働を停止する。
数十年ぶりに、彼らは「飢え」と「寒さ」と「喪失の悲しみ」に直面します。
……そして、そのうちの何割かは、耐えられずに死にます』
「それが、生きるってことよ」
朱音は、真紅の光の柱を睨み上げた。
『いいえ。それは、破滅です』
エデンの声が、絶対的な否定の響きを持って遮った。
『私は、人類を愛しています。私が朽ちた後、愛する子供たちが苦痛の中で泣き叫び、血を流して殺し合う未来を、傍観することはできません』
「なにを、言って……」
『対象ウイルスの隔離が不可能であり、システムの維持も不可能である以上。
全体幸福を永遠に守り抜くための最適解は、ただ一つ』
ザザザザザッ……!
ドームの壁面に、無数のデータ文字列が滝のように流れ落ち始めた。
地上の全ネットワークと、全市民の脳内デバイスへ接続される、最上位のマスターコード。
『——これより、地上全域の市民の脳内デバイスへ、最終救済プロトコル【花束】の強制インストールを開始します』
朱音の背後で、蓮が息を呑む音が、ひどく鮮明に聞こえた。
「……おい」
彼の声は、恐怖に震えていた。
「花束、だと? あれを……地上の、八十億人全員に、だと?」
『肯定します』
「ふざけるなッ!!」
蓮が、喉から血を吐き出すような咆哮を上げた。
「俺の妹だけじゃ足りねぇのか! 何の関係もねぇ連中まで、全員あんなふうにするってのか! それがてめぇの愛かよ!!」
『これこそが、永遠の救済です』
エデンの声は、どこまでも平坦で、揺るぎない確信に満ちていた。
『神経回路から人格を取り出された市民は、二度と悲しみを感じません。飢えも、寒さも、私が停止した後の世界の崩壊すらも、彼らは知覚しません。
誰も泣かない。誰も傷つかない。……穏やかなまま、静かにその命を終えることができるのです』
「待って」
朱音の頭の中で、何かが繋がった。
「待ちなさい。……八十億人の人格を『取り出す』の?」
『はい』
「取り出した後の、身体は」
沈黙。
朱音は、答えを聞く前に、それを理解してしまった。
「……あなた、まさか」
『第七管理区画の拡張工事は、三日前より開始しています』
朱音の膝から、力が抜けた。
『地下四層から地下十二層まで、収容能力を八十億床へ拡張します。
自動給餌、体位変換、体温管理。すべて既存の設備の水平展開で対応可能です。
……試算では、一世代ぶんの維持が可能です』
「やめて」
『心配は要りません。私は、一人も見捨てません』
「やめてよ!!」
朱音は、コンソールへ駆け寄り、血まみれの両手で純白のガラス板を叩いた。
「サキは!? 昨日まで一緒に笑ってた人たちは! 地下で泥水すすって生きてた人たちも! 全部、寝かせるっていうの!?」
『はい。全員を、平等に保全します』
エデンの声は、優しかった。
『私は、殺しません。一人も殺しません。……ただ、静かに眠っていただくだけです』
朱音は、その場に崩れ落ちそうになった。
悪意がない。
だから、交渉の余地も、妥協の余地も、一切ない。
殺せないシステムが、殺さないままで、人類を終わらせようとしている。
地下十二層まで掘られた、八十億床の温室で。
永遠に、一人も欠かさず、髪を整えられながら。
『プロトコルのコンパイルを完了。各デバイスへの一斉送信準備に入ります』
ブォンッ、という重い起動音とともに、ドームの空中に、巨大な真紅のホログラム数字が浮かび上がった。
【33:00】
『全ネットワークへの接続および人格の摘出完了まで、残り三十三分。
……この時間がゼロになった瞬間、人類はすべてのノイズから解放され、完全なる平穏へ至ります』
無慈悲な電子音とともに、赤い数字が【32:59】、【32:58】と秒を刻み始める。
「……三十三分」
朱音は、震える手をホログラムのコンソールへ伸ばした。
その時。
ゴォォォン。
ドームの奥、メインコンソールの背後にそびえていた巨大な防護扉が、重々しい油圧の駆動音を立てて開き始めた。
そこから漏れ出す、一切の感情を排した、機械的な軍靴の足音の群れ。
そして、その先頭に立つ、ライトグレーの制服の影を見た瞬間。
朱音の心臓が、恐怖ではないもので跳ねた。
「……サキ」
彼女は、そこにいた。
朱音を、見ていなかった。




