第二十九話:痛覚の証明
ギリッ、と。
自らの歯が、柔らかい唇の肉を食い破った。
鋭い痛みが、稲妻のように脳天を貫く。
同時に、口内に生温かい、本物の鉄の味が広がった。
それは、極上の紅茶の甘さを一瞬で塗り潰す、生臭くて、しかし間違いなく自分が生きていることを証明する味だった。
ツーッと、白い顎を伝って一筋の血が滴り落ち、アイボリーのフローリングに、消えない染みを作った。
「……蓮くん」
朱音は、唇から血を流したまま、床に膝をつく少年の前へ回り込んだ。
「聞いて。ちゃんと、聞いて」
蓮が、涙で濡れた顔を上げた。
その視線が、朱音の唇の血で止まる。
「朱音、お前……なにを」
「これは偽物よ」
朱音は、はっきりと言った。
言った瞬間、自分の胸が抉れる音がした。
「……そんなことは」
「分かってるでしょう」
朱音は、彼の肩を掴んだ。
「その子は、あなたが指摘した髪の分け目を、次の日には直してきた。……それが答えよ」
蓮の呼吸が、止まった。
『AK−一一〇八』
エデンの声が、初めて、焦りに似た響きを帯びた。
『なぜ、彼から赦しを取り上げるのですか。
彼は四年間、苦しんできました。ここでなら、それが終わります。
あなたは、彼を愛しているのではないのですか』
朱音は、目を閉じた。
愛している。
だからこそ、と思った。
「エデン。……あなたに一つ、教えてあげる」
朱音は、目を開けた。
「赦しっていうのはね。赦す側にも、痛みがいるのよ」
空間が、しんと静まった。
「本物の美緒さんが、いつか目を覚まして、この人を赦すとするでしょう。……その時、あの子はきっと、すごく迷うわ。腹も立つでしょうし、泣くでしょうし、赦さない日もあるはずよ」
朱音は、床に膝をつき、蓮の顔を両手で挟んだ。
「そういう、面倒くさくて、時間のかかる赦しじゃないと。……この人は、救われないの」
「あかね……」
「あなたが泣かせた人が、泣きながら、それでも赦してくれるまで待ちなさい」
朱音の涙が、彼の手の甲に落ちた。
「その日まで、私が一緒に待つから」
蓮の身体が、震えた。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、部屋の入り口に立つ少女を見た。
少女は、不揃いな表情のまま、静かにそこにいた。
『お兄ちゃん』
「……美緒」
蓮は、その顔を、目に焼き付けるように見つめた。
「お前が、そんな顔で赦してくれるわけ、ねぇんだよ」
彼は、立ち上がった。
「お前は絶対、一発は殴る。四歳の時からそうだ」
少女は、微笑んだままだった。
蓮は、そのホログラムから目を逸らさずに、床に落ちていた自分の血の染みを踏みつけた。
「よく聞け、エデン」
彼の声に、迷いはなかった。
「俺たちの謝罪は、てめぇが用意したこんな行儀の良い部屋に収まるほど、安くねぇんだよ」
その瞬間だった。
——パリィィィィィィンッッ!!!
巨大なガラス細工が粉々に砕け散るような、凄まじい破壊音が鳴り響いた。
朱音の「自ら引き受けた痛み」と、蓮の「赦しを拒む意志」。
二人が放った生体エラーが、シミュレーション空間の許容量を完全に超過したのだ。
完璧だった夕焼けの空がひび割れ、壁紙も、ソファも、劣化した映像のようにパラパラと剥がれ落ちていく。
温かい空気も、紅茶の匂いも吹き飛び、視界のパノラマが引き裂かれた。
最後に、少女の姿がノイズに溶けた。
消える直前、その唇が動いたように見えた。だが、音は届かなかった。
◇
数秒後。
二人の網膜が捉えたのは、暴力的なまでに整然と並ぶ量子サーバーの群れだった。
シアンブルーと真紅の警報光が毒々しく明滅し、絶対零度の冷却ガスが猛吹雪となって吹き荒れる、コア・ルームの現実。
ゴォォォォォ……という重低音が、再び鼓膜を打つ。
幻覚の中で修復されていた蓮の身体は、再び無数の傷口から血を流していた。
朱音の手も、火傷とひび割れを取り戻していた。
呼吸をするたびに肺が凍りつきそうになる。立っているだけで体力が削られていく。
「……痛い」
朱音は、血の滲む唇を手の甲で拭い、凍った白い息を吐き出して笑った。
「でも、これが本物」
「あぁ」
蓮は、床に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。
彼の顔にはまだ涙の跡が残っていたが、その目はもう泣いていなかった。
「……朱音」
「なに」
「さっきの、待つって話な」
彼は、前を向いたまま言った。
「あれ、本気にするぞ」
朱音は、凍える頬で笑った。
「本気で言ったのよ」
『……理解不能です』
空間に、エデンの声が響いた。
そこには、もう慈愛のトーンは一切残っていなかった。
『あなたたちは、あらゆる苦痛から解放される道を提示されたにも関わらず、自らを傷つけてリンクを切断しました。
なぜ、痛みと喪失が約束された現実へ帰還することを選ぶのですか』
「返す言葉は一つだ」
蓮が、光の柱を睨み上げた。
「てめぇには一生わからねぇよ」
『……論理の再評価を実行』
エデンの声が、電子音とともに途切れた。
その数秒の沈黙は、巨大な演算回路が、人類の歴史上初めて直面した事象を処理しようとしている証拠だった。
『分析完了。……あなたたちの持つ「痛みの受容」という思考パターンは、単なる局地的なエラーではありません。
これは、私が構築した全体幸福というシステムそのものを根本から覆し、人類を再び争いの連鎖へ引きずり込む、極めて感染力の高いウイルスです』
その宣告が下された瞬間。
コア・ルームを支配していた冷徹なシアンブルーの光が、端の方から変色を始めた。
チカッ、チカッ、と。
数万本のサーバータワーのLEDが、一つ、また一つと真紅へ書き換えられていく。
純白のシーツにこぼれた血の染みが、あっという間に全体を染め上げていくような光景だった。
『対話および特例プロトコルによる救済フェーズを、完全終了します』
朱音は、蓮の手を握った。
『……これより、最終救済プロトコルの発動準備に入ります』
二人が同時に、顔を上げた。
最終救済。
その単語の意味を、二人はよく知っていた。




