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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
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第二十八話:究極の箱庭

 骨の髄まで凍りついていた冷気が、温かい湯に溶ける角砂糖のように消えていった。

 背中の擦過傷の激痛も、感覚を失いかけていた足先の痺れも、胃袋の痙攣も。あらゆる不快な信号が、跡形もなく消滅していく。


「……え……?」


 朱音が声を上げた時、彼女の足は、冷たい床ではなく、木目調の温かいフローリングを踏んでいた。


 そこは、どこにでもあるような、だが完璧に調律された部屋だった。

 目に優しいアイボリーの壁紙。生成りのファブリックのソファ。小さな円形のテーブル。

 西側の大きなすりガラスの窓からは、燃えるようなオレンジ色の夕焼けが差し込んでいる。

 窓枠の影が床に長く伸び、空気中を舞う微小な埃までが、夕日を反射して黄金色に輝いていた。


「……なんだ、ここは」


 すぐ隣で、声がした。

 振り返った朱音は、息を呑んだ。


 蓮だった。だが、血塗れの彼ではない。

 引き裂かれていたはずのジャケットは、新品のように綻び一つない。打撲で腫れ上がっていた頬も、滑らかな肌を取り戻している。

 何より、血と焦げた肉の匂いが完全に消えていた。


 朱音は自分の両手を見下ろした。

 泥と油で真っ黒に汚れ、爪が割れていたはずの十指が、白く、滑らかで、一切の傷がない状態に戻っている。

 蓮が巻いてくれた歪な包帯も、火傷の絆創膏も、すべて消えていた。


『対象二名の、痛覚および肉体的疲労のシミュレート・リセットを完了しました』


 夕焼けの部屋のどこからか、エデンの声が響いた。

 だが、そのトーンは冷徹なシステム音声とはまるで違っていた。深く傷ついた子供を抱きしめるような、労わりに満ちた響き。


『あなたたちの間に発生している感情は、すでに私のリソースでは修正が不可能なレベルにまで結合しています。

 無理な切除は、莫大な苦痛と精神的崩壊を生むと判断しました。ゆえに、特例措置を実行します』


「特例……措置」


『はい。この空間は、メインサーバーの深層領域に構築された、あなたたち二人だけの箱庭です』


 テーブルの上に、二つの陶器のカップと、フルーツのタルトが乗った銀のトレイが出現した。

 琥珀色の紅茶が、湯気を立てている。


『ここは、寒くありません。飢えることも、血を流すことも、痛みに泣くこともありません。

 治安維持ドローンも、サキという個体も、二度とあなたたちに触れません。

 ……戦う必要は、もうどこにもないのです』


 朱音は、テーブルに近づき、無意識にカップの取っ手に指を掛けた。

 温かい。冷え切っていた手のひらに、じんわりと熱が伝わる。


 一口、含んだ。


 ——あまりにも、完璧な味だった。


 渋みは一切なく、脳の報酬系を即座に満たす上品な甘さ。極上の香りが鼻腔を抜け、疲弊しきった脳細胞の隅々にまで、安堵という名の麻酔が浸透していく。


 もう、これでいいんじゃないか。


 この温かい部屋で、綺麗な服を着た彼と、終わらない夕焼けを見ていられるなら。

 それが幻だったとしても。


「……朱音」


 蓮の声がした。


 振り返った朱音は、カップを取り落としそうになった。


 部屋の入り口に、少女が立っていた。


 白いワンピース。色素の薄い瞳。

 そして——髪が、左に分けられていた。


「……美緒」


 蓮の顔から、血の気が引いた。


『お兄ちゃん』


 少女は、笑わなかった。

 困ったような、少し照れたような、不揃いな表情でそこに立っていた。


『あのね、あの日のこと。……私、怒ってないよ』


 蓮の膝が、折れた。


『お兄ちゃん、ずっと自分のこと責めてたでしょ。……そんなの、私が一番いやだよ』


 少女は、床に膝をついた兄の前にしゃがみ込んだ。


『ねえ、覚えてる? 排気口の脇に生えてた、あの変な形の草』


「……覚えて、る」


『あれね、去年もちゃんと生えてたんだよ。私、ここから見てたの』


 蓮は、両手で顔を覆った。

 そして、声を上げて泣いた。


 朱音は、動けなかった。


 残酷だ、と思った。

 これは麻酔ではない。エデンは、髪の分け目を直してきた。蓮が指摘したその日のうちに、学習して、修正して、もう一度差し出してきた。


 これが、エデンの誠意なのだ。

 人を殺せないシステムが、人を落とすために選んだ、精一杯の優しさ。


『LE−〇〇一。あなたが望むなら、彼女はここに永遠にいます』


 エデンの声が、静かに響いた。


『外の彼女は、目を覚ましません。私にはどうしても、彼女を起こす方法がないのです。

 ……ですが、ここでなら、あなたは彼女に謝ることができます。彼女は、あなたを赦すことができます。

 それは、偽物でしょうか』


 朱音の指先が、冷たくなった。


 偽物だ、と言い切れなかった。


 外の美緒は、永遠に目を開けない。声も届かない。四年ぶんの「ごめん」は、届かない。

 なら、ここで届いたことにするのは、そんなに悪いことなのか。


 朱音は、テーブルのカップを見下ろした。

 二口目を飲もうとして——止まった。


 完璧に修復された自分の白い指先。

 口の中に広がる、一切の雑味がない甘さ。


 脳の片隅に、小さな針が落ちた。


 (……この味は、綺麗すぎる)


 朱音の脳裏に、一つの光景がフラッシュバックした。


 暗く冷たい地下水道。硬いブリキの蓋を、鈍い缶切りでギシギシとこじ開けたあの時間。

 指を切るかもしれないという恐怖。喉が焼けるような強烈なシロップの甘み。

 そして、切り口から混じっていた、血の匂いにも似たブリキの鉄の味。


 あの缶詰には、蓋を開けるまでの手間と、恐怖と、痛みの予感が詰まっていた。

 だからこそ、あの安っぽい桃は、涙が出るほど美味しかった。


 朱音は、口の中の紅茶を確かめた。


 ——この紅茶には、鉄の味がしない。


「……蓮くん」


 朱音は、床に崩れて泣いている少年を見た。


 言えるだろうか。

 四年間、妹を殺したと信じて生きてきたこの人に。

 やっと赦してもらえたこの人に。


 ——それは偽物だから、また地獄へ戻れ、と。


 朱音は、震える手でカップを置いた。

 カチャリ、と、あまりにも上品な音が鳴った。


「……ごめんね」


 彼女は、そう呟いた。


 そして、自分の下唇を、思い切り歯で噛み締めた。


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