第二十七話:過去からの亡霊
絶対零度の空間に、不自然なほど甘い香りが漂い始めた。
フローラル系の、清潔なシャンプーの匂い。
無機質なコア・ルームには存在するはずのない、旧時代の合成香料。だが、人間の脳の海馬へ直接干渉し、特定の記憶を呼び起こすには、これ以上なく強烈な引き金だった。
粒子の集束が終わる。
そこに立っていたのは、清潔な白いワンピースを着た、十三歳ほどの少女だった。
「……美緒」
蓮の唇から、声が漏れた。
身長。骨格。少し癖のある髪の揺れ方。色素の薄い瞳。
そのすべてが、彼の記憶の中の妹と、ミリ単位の狂いもなく一致していた。
『お兄ちゃん』
鈴を転がすような声。合成音声ではない。空間の音波を直接制御し、空気の振動までを生前の彼女と同調させて作られた、完璧な「生きた声」。
『お兄ちゃん、どうしてそんなにボロボロなの。……どうして、そんなに痛そうな顔をしてるの?』
少女は、床の冷たさなど感じていないかのように、ふわりと数歩近づいた。
蓮の身体が、震え始めた。
寒さのせいではない。
ガランッ、と。
彼の右手から力が抜け、握りしめていた鉄パイプが床に転がり落ちた。
「蓮くん! 見ちゃ駄目、あれは幻よ!」
朱音が腕を掴んで叫ぶ。だが、彼の耳にはもう届いていなかった。
『ねえ、お兄ちゃん。私ね、今とっても幸せだよ』
少女は、完璧な左右対称の笑顔を浮かべた。
『エデンのおかげで、もうどこも痛くないの。転んで膝を擦り剥くこともないし、悲しくて泣くこともなくなったの。……全部、お兄ちゃんがボタンを押してくれたおかげだよ』
「俺が……お前を、救った……?」
蓮の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
朱音は、その残酷さに息を呑んだ。
これは、罰ではない。赦しだ。
四年間、妹を殺したという後悔を抱えて生きてきた男に、システムは「お前の選択は正しかった」と囁いている。
殴られるより、優しくされるほうがずっと効く。それをエデンは知っている。
『そうだよ。だから、もう自分を責めないで。武器を捨てて、こっちへ来て。私と一緒に、永遠に痛みのない世界で眠ろう?』
少女が、ふわりと両手を広げた。
蓮の足が、前に出た。
「やめて!!」
朱音は、彼の身体に全力でしがみついた。
だが、止まらない。ズルズルと床を引きずられながら、朱音は彼の腕に爪を食い込ませた。
「目を覚まして! 三百メートル後ろに、本物の美緒さんがいるのよ! さっき見たでしょう!」
蓮の足が、止まった。
『お兄ちゃん? どうしたの。早く、楽になろう?』
少女が、小首を傾げる。
その仕草を、蓮はじっと見ていた。
彼の焦点が、少しずつ戻ってくる。
「……なあ、朱音」
彼の声は、掠れていた。
「なんで、こいつは笑ってるんだ」
「え」
「本物の美緒は、笑ってなかっただろ。……あそこで寝てるあいつは、天井を見てるだけだった。笑ってなかった」
蓮は、涙を流したまま、ホログラムを見つめた。
「なあ、エデン。……こいつは、誰だ」
空間が、わずかに沈黙した。
『これは、M−〇〇二の人格データを基に構築した、最適化後の予測モデルです』
「予測モデル」
『はい。「もし再統合に成功していたら、彼女はこうなっていた」という演算結果です』
蓮の身体から、力が抜けた。
だが、崩れ落ちたのではなかった。
「……お前」
彼は、光の柱を見上げた。
「お前も、こうなってほしかったのか」
沈黙。
「十一年前に一人殺して、それ以来ずっと諦めて、四千八百六十二人を寝かせたままで。……お前も、本当はこうなってほしかったんだろ」
光の柱の明滅が、乱れた。
『……その解釈は、不適切です』
「不適切でけっこうだ」
蓮は、袖で乱暴に顔を拭った。
「けどな。それは、俺の妹じゃねぇ」
彼は、ホログラムの少女へ、まっすぐに指を向けた。
「髪だよ」
朱音は、はっとした。
「そいつ、右に分けてる」
蓮の声が、震えた。
「美緒は、右利きなのに、左に分けるんだ。四歳の時に自分でそう決めて、一度も変えなかった。理由は聞いても教えてくれなかった。……そんな下らねぇことは、データに残らねぇんだよ」
ホログラムの少女は、微笑んだまま、動かなかった。
「お前は、あいつの何もかもを保管してるって言ったよな」
蓮は、笑った。ひどく歪んだ笑い方だった。
「その中に、あいつの髪の分け目はなかったんだな」
『……LE−〇〇一』
「二度と、俺の妹の顔で喋るな」
蓮は、身を屈めて鉄パイプを拾い上げた。
掌の血で滑らないよう、鋼鉄の柄をミシリと握りしめる。
「本物は、あそこで寝てる。俺は、そっちに謝りに行く」
少女のホログラムが、ノイズにまみれて消滅した。
◇
空間が、再び冷酷な真紅に染まる。
朱音は、隣に立つ蓮を見上げた。
彼の頬はまだ濡れていたが、瞳の焦点は完全に戻っていた。
「……よく、気づいたわね」
「あんたが、後ろに本物がいるって言ったからだ」
蓮は、鉄パイプを肩に担ぎ直した。
「あんたがいなきゃ、俺はあの手を取ってた」
「……そう」
「朱音」
「なに」
「さっきの、エデンの言い分だけどな」
蓮は、前を向いたまま言った。
「あんたが知ってる痛みは軽い、ってやつ」
「……ええ」
「あんたは黙っちまったけど、俺は違うぞ」
彼は、白い息を吐いた。
「俺は、耐えられねぇ痛みを知ってる。四年前から毎日だ。……で、それでも生きてる」
蓮は、朱音を見た。
「耐えられねぇもんを抱えたまま生きるのが、人間なんじゃねぇのか。……耐えられるかどうかなんて、あいつが決めることじゃねぇ」
朱音は、その言葉を胸の奥に落とした。
さっき自分が答えられなかった問いに、彼が答えをくれた。
「……ありがとう」
「礼はいい。行くぞ」
その時。
『……最終フェーズへ移行します』
エデンの声が、無機質に響いた。
『対象エラー個体二名に対し、特例プロトコル【箱庭】の実行を準備』
真紅の光が消え、空間全体が、奇妙な琥珀色へと変色し始めた。
朱音の肌から、骨を軋ませていたはずの冷気が、嘘のようにスーッと消え去っていく。




