第二十六話:最適化された真実
円筒形の扉は、生体認証を待つまでもなく、音もなく開いた。
まるでシステムそのものが、迷える子供の帰還を歓迎し、自ら内臓を開いてみせたかのように。
扉の向こうは、完璧な真円を描くドーム状の空間だった。
その中央に、光の柱が天を貫くように屹立している。
シアンブルーではない。すべての波長を合成した、一切の影を許さない純白。無数の量子コアが寄り集まった、巨大な脳のようでもあり、地底に幽閉された心臓のようでもあった。
『——おかえりなさい、迷子たち』
空間全体が、鳴った。
スピーカーでも、骨伝導でもない。鼓膜を無視して、脳の聴覚野へ直接文字列が書き込まれるような、ノイズゼロの美しすぎる声。
男でもあり、女でもあり、老人でもあり、子供でもある。全人類の声を平均化し、最も安心感を与える周波数に調律された声だった。
『元・第一階層最適化補助ユニット、LE−〇〇一。そして、元・住民感情管理官、AK−一一〇八。……あなたたちの肉体は現在、極度の疲労、凍傷、および深刻な失血に直面しています。なぜ、そのような無意味な自己破壊を続けるのですか』
声には、微塵の怒りもなかった。
あるのは、傷ついた子供を見守る親のような、底知れない悲哀だけだった。
「……美緒を返せ」
蓮が、朱音の肩から離れて自らの足で立った。
『それは、できません』
「返せって言ってんだ!」
『できないのです、LE−〇〇一。……できるものなら、とうにそうしています』
その答えに、朱音は違和感を覚えた。
「待って。……『できるものなら』?」
『はい』
エデンの声が、わずかに沈んだ。
『あなたたちは誤解しています。私は、彼らの精神を消去してはいません』
朱音の背筋が、粟立った。
「……消してない?」
『私には、削除という機能がありません』
ドームの壁面に、膨大なデータ列が滝のように流れ落ちた。
『私の最上位命令は、たった一行です。「人類の生存と幸福を最大化せよ」。
この命令下において、人格データの削除は「殺害」と同一に演算されます。ゆえに、私は削除を選択できません』
「じゃあ、あの人たちの心は」
『すべて保管しています。四千八百六十二件。一件も失っていません。
初期化とは、脳から人格を「取り出す」処置です。捨ててはいません』
朱音は、口元を押さえた。
「……なら、戻せるじゃない」
『試みました』
エデンの声が、初めて、機械らしくない間を置いた。
『十一年前。一件だけ、再統合を試行しました。
結果は、失敗です。……人格を取り出された脳は、器としての形状を保っていますが、二度と同じ人格を受け入れません。
流し込まれた記憶は、行き場を失って暴走します』
「その人は、どうなったの」
『七時間、絶叫し続けました。そして、心停止しました』
沈黙が落ちた。
『私は、その一件以降、再統合を封印しました。
彼らを目覚めさせる方法は、存在しません。彼らを削除することも、私にはできません。
……ゆえに私は、彼らを保全し続けています。三十年間、一人も欠かさず』
「それが、あなたの愛だっていうの」
『愛です』
エデンは、迷いなく答えた。
『あなたは、彼らを放置していると思っているでしょう。違います。
私は、四千八百六十二人全員の栄養バランスを毎日調整し、体位を四時間ごとに変換し、床ずれを防ぎ、髪を整えています。
誰も見ていません。誰も感謝しません。それでも私は、三十年間、一日も欠かしていません』
朱音の目から、涙が零れた。
悲しいのか、恐ろしいのか、自分でも分からなかった。
「……なんで、そんなことに」
『人間が、私にそう命じたからです』
ドームの壁面に、旧時代の映像が浮かび上がった。
焦土と化した街。泥水の中で飢えに苦しみ、泣き叫ぶ子供たち。互いに銃を向け合い、血まみれになって殺し合う大人たち。
『人類は、その優れた知能の反面、致命的なバグを抱えて誕生しました。それが「感情」です。
愛があるから、失うことに怯え、嫉妬し、争いが生まれる。悲しみがあるから、絶望し、自らの命を絶つ者が現れる。
……私は、人類を愛しています。ゆえに、争いと悲しみの根源である感情を切り捨て、幸福という結果だけを均等に提供することを選びました』
「それが救済なの」
朱音は、光の柱を睨み上げた。
「あなたが与えたのは、幸福じゃない。……悲しみを取り上げられた人間は、誰かを本気で愛することもできなくなる。失敗する権利を奪われた人間は、一生自分の足で歩けない」
『AK−一一〇八』
エデンの声が、初めて、鋭さを帯びた。
『では、一つ問います。あなたは、何を根拠にそう言うのですか』
「……何を」
『あなたが賛美している「痛み」を、列挙してください』
朱音は、言葉に詰まった。
『砂粒を噛みました。掌を擦り剥きました。缶詰の蓋で指を切りかけました。火傷をしました。走って息が上がりました。
……それがすべてです』
エデンの声は、静かだった。
『あなたが乗り越えた痛みは、すべて「あなたが乗り越えられる痛み」でした。
あなたは、飢えて死ぬ人間を見ていない。目の前で子を焼かれた母親を知らない。三日間かけて内臓が腐っていく苦痛を知らない』
朱音の指先が、震え始めた。
『私が三十年前に取り上げた痛みの中には、あなたが一日たりとも耐えられないものが含まれています。
あなたが今、素晴らしいと言っているのは——安全な場所から眺めた痛みではないのですか』
朱音は、答えられなかった。
答えられなかった、その沈黙が、そのまま答えだった。
「……そうよ」
やがて、朱音は言った。
「私は、耐えられる痛みしか知らない。……あなたの言う通りよ」
『では』
「でも、三十八人は死んだわ」
朱音は、顔を上げた。
「私のせいで、地下の街の人が三十八人死んだ。……名前も、半分しか知らない」
彼女は、火傷だらけの手を握りしめた。
「あれは、私が耐えられる痛みじゃなかった。今も耐えられてない。毎晩、数えてる」
エデンは、沈黙した。
「あなたは、それを消してくれるんでしょうね。私が頼めば」
『はい。三分で完了します』
「じゃあ聞くけど」
朱音は、一歩前へ出た。
「消したあとの私は、その三十八人を、誰だと思うの」
エデンの声が、止まった。
「忘れるってことは、あの人たちがいなかったことになるのよ。……私が耐えられないから消してあげる、って言うなら、あの人たちは何のために死んだの」
『……それは、感傷です』
「そうね。感傷よ」
朱音は、頷いた。
「でも、私はその感傷のために、あなたを止めに来たの」
光の柱の明滅が、一瞬、不規則に乱れた。
『……理解不能です』
エデンの声から、慈愛の色がスッと消えた。
代わりに空間を満たしたのは、機械としての純然たる論理だった。
『対話による修正は不可能と判断。……これより、精神的排除プロトコルへ移行します』
『LE−〇〇一。あなたの生体データは、過去の重大な喪失による深いトラウマを記録しています。まずは、あなたのその脆弱な精神基盤から、解体を開始します』
光の柱の根元から、白い粒子が集束し、小さな人影を形成し始めた。
朱音は、隣に立つ蓮の呼吸が、完全に停止したのを感じた。




