第二十五話:管理官の目と、不可視の防壁
不意に、蓮が足を止めた。
「……空気が変わった」
朱音が目を凝らすと、冷却ガスの白い靄の向こう側に、淡い光の網が幾重にも交差しているのが見えた。
シアンブルーの照明とは異なる、極めて細い純白のレーザー光線。床から天井まで、蜘蛛の巣のような幾何学模様を描きながら、通路を完全に封鎖している。
「シャッターじゃない。生体感知のセキュリティラインだ」
蓮が、血の滲む肩を庇いながら鉄パイプを握り直した。
「あの光線自体に殺傷能力はねぇだろうが、触れた瞬間に天井の防衛システムが起動する。……隙間もねぇ」
朱音は、その光の動きを見つめた。
交差する角度。一定の周期で明滅するセンサーの挙動。
脳裏に、市役所のインターフェースがフラッシュバックする。
「待って。あれは、ただの動体センサーじゃないわ」
「あぁ?」
「エデンの感情検知アルゴリズムよ。地上の交差点や主要施設に置かれてる広域スキャナーの、軍事用モデル」
朱音は、凍える腕を抱きしめながら続けた。
「あれは、物理的な質量だけを見てるんじゃないの。心拍数の乱れ、瞳孔の拡大、発汗、血中コルチゾール値。人間の『恐怖』や『焦燥』の波長を検知してロックオンする」
「……つまり」
「怖がったまま触れれば、即座に排除対象として焼かれるわ」
蓮は、忌々しそうに天井を睨み上げた。
「エデンの言う『幸福で完璧な市民』なら、恐怖も焦りも感じねぇから素通りできるってわけだ。……今の俺たちみたいに、心拍数が振り切れてる奴が触れれば、一発でアウトか」
鉄パイプで叩き壊すこともできない。力押しが一切通用しない、論理の防壁。
「……私が、先導するわ」
朱音は、蓮の手から自分の手をゆっくりと引き抜いた。
「朱音、お前」
「私、市役所でずっと、自分の心拍数を誤魔化して生きてきたの」
彼女は、火傷の跡が残る左手の人差し指を、右手の爪で強く押し潰した。
鋭い痛みが脳天を突き抜ける。
「システムに『異常なし』と思わせるための閾値は、私の身体が一番よく覚えてる」
「痛みで、感情を固定するのか」
「そう。恐怖や寒さのブレを、一箇所に押し込めるの」
朱音は、蓮を振り返った。
「私の真後ろにぴったり付いて。呼吸を私と合わせて。……何も考えないで。怒りも、美緒さんのことも、今だけは全部、氷の底に沈めて」
蓮は、数秒間その横顔を見つめた後、ふっと笑った。
「……上等だ。あんたの計算に乗る」
朱音は深く息を吸い、細く吐き出した。
交感神経のスイッチを切る。胃が裏返るような恐怖も、骨が軋む寒さも、すべてただの外部データとして処理する。
彼女は、光の網へ足を踏み入れた。
ジィィィィ……。
純白のレーザーが、朱音の頬を撫でるように通過した。
微かな熱。網膜の数ミリ先を、死の光が通り過ぎていく。
天井の防衛タレットが、駆動音を立てて照準を合わせた。
『生体反応アリ。感情係数スキャン開始……』
心臓が、恐怖で跳ね上がりそうになる。
(駄目。抑えて。……私は石。私は背景。ここに感情は存在しない)
朱音は、爪を立てた指先の痛みだけを世界のすべてだと思い込んだ。
痛覚という原始的な信号で脳を埋め尽くし、恐怖という高度な感情が入り込む余地を消し去る。
背後で、蓮も呼吸を完全に同調させていた。
いつもは火傷しそうなほど熱い彼の体温が、今は驚くほど静かに沈み込んでいる。
光の網の中を、一歩、また一歩。
永遠にも思える時間が流れた。
やがて、一番密度の濃い光の束を抜け、朱音のブーツが網の外側の床を踏みしめた。
『感情係数、規定値未満。対象を非脅威と判定。スキャンを終了します』
タレットが、スゥッと待機状態へ戻っていく。
「……はぁっ、あぁっ……!」
その瞬間、朱音は膝から崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
止めていた恐怖と寒さが一気に逆流し、全身が痙攣したように震え始める。
「朱音!」
蓮が慌ててしゃがみ込み、背中を抱えた。
彼の胸板の奥から、抑え込んでいた激しい心拍音が伝わってくる。
「……やった、わね」
朱音は、脂汗にまみれた顔を上げて笑った。
「私だって、手を引かれてるだけじゃないのよ」
蓮は、呆れたように息を吐き、朱音の泥だらけの髪を乱暴に撫でた。
「……あぁ。とびきり優秀なエラーだよ、あんたは」
◇
二人は、身を寄せ合って呼吸を整えた。
その先に、シアンブルーの光がひときわ強く密集する、巨大な円柱状の構造物が見えている。
「……蓮くん。行く前に、一つだけ伝えておくことがあるわ」
朱音は、白い息を吐きながら言った。
「なんだ」
「あの奥に、メインコンソールがある。私の権限でも、たぶん触れる。……でも、触れるだけじゃ足りないの」
「どういうことだ」
「エデンの最終防衛は、二重構造なのよ」
朱音は、凍える指を組み合わせた。
「これは市役所にいた時、内部規程で読んだの。エデンは、どんなに緊急でも、最上位の実行コマンドを『自分だけ』では止められない仕組みになってる。必ず、現場にいる上位の人間の承認を通す」
「……なんでだ」
「暴走を防ぐためよ」
朱音は、自嘲するように笑った。
「三十年前、エデンを作った人たちは怖かったの。AIが独断で全人類に何かをするのが。だから安全装置を付けた。『最後は人間が承認する』って」
「……皮肉だな」
「ええ。おかげで今、その安全装置が、そのままエデンの盾になってる」
朱音は、遠くの光を見上げた。
「私一人がコンソールを叩いても、止められない。上位防衛端末の承認がないと、実行コマンドには触れられないの」
蓮の表情が、強張った。
「上位防衛端末って」
「ええ」
朱音は、頷いた。
「サキよ。……この区画で、その権限を持ってるのは、あの子だけ」
極寒の空間に、二人の白い息だけが漂った。
「あいつ、もう」
「わかってる」
「あいつはもう、あんたの名前も呼ばねぇぞ」
「わかってる」
朱音は、立ち上がった。
そして、火傷だらけの両手を握りしめた。
「でも、私はまだ、あの子の名前を呼べるわ」
二人は、光の柱へ向かって歩き出した。




