第二十四話:絶対零度の墓標
完全な無菌。
生命の気配が一ミクロンも混じっていない、無機物の海。
鏡のように磨き上げられた床が、シアンブルーの光を不気味なほど完璧に反射している。ホコリ一つ、チリ一つ落ちていない。
スクラップ・タウンとは、すべてが正反対だった。あそこにはカビの匂いがあり、焚き火の煙があり、人間の体臭があった。ここには、匂いというものが存在しない。
「……エデンの連中は、自分たちの神様をこんな冷凍庫に閉じ込めてたのかよ」
蓮が、痛む肩を押さえながら吐き捨てた。
彼の唇は紫色に変色し、全身が小刻みに震えている。
「蓮くん、血が」
朱音は、蓮の背中から黒い液体が滴り落ちているのに気づいた。ダクトを滑り落ちた際に、朱音を庇って負った傷が開いている。
「気にすんな」
「気にするわ。この気温で出血が続いたら、二十分もたないわよ」
朱音は自分の衣服の裾を歯で裂き、彼の肩に巻きつけた。
不格好で、きつすぎる結び目になった。
「……下手くそだな」
「あなたに教わったのよ」
蓮が、小さく笑った。
「行くぞ。この冷気の中にいれば、五分で手足が壊死し始める。……メインコンソールは、この奥だ」
二人は、冷え切った床へ足を踏み出した。
靴音が、巨大な空間に冷たく反響する。
左右対称に並ぶサーバータワーの群れは、巨大な迷路のようだった。どこまで歩いても同じ景色が続く。
朱音は、握られた蓮の掌の熱だけを頼りに歩いた。
やがて、二人は歩みを止めた。
「……朱音」
「ええ」
サーバー群の谷間。
左手の壁面に、一枚の分厚い強化ガラスが嵌め込まれていた。
その向こう側は、暖かい色をしていた。
冷凍庫のような周囲とは違う。柔らかなアイボリーの照明。適切な湿度で曇ったガラス。
そして、その奥に。
整然と並ぶ、白い寝台の列。
「……あ」
朱音の喉から、声にならない音が漏れた。
数えきれなかった。
視界の奥まで、白い寝台が、規則正しく、どこまでも並んでいる。
その一つ一つに、人が横たわっていた。
清潔なシーツ。丁寧に整えられた髪。栄養チューブ。心電図の緑の波形。
誰もが穏やかな表情で、天井を見上げている。
瞬きをしていた。
胸が、上下していた。
だが、誰一人として、隣の寝台を見ていなかった。
「……温室」
朱音は、ガラスに手をついた。
指先が、暖かかった。ガラス一枚を隔てた向こう側は、快適な二十四度に保たれている。
視界の隅に、小さなプレートがあった。
『第七管理区画 地下四層 生存保全区画
収容個体数:四八六二
全個体、生命兆候良好』
良好。
朱音は、その二文字を見つめた。
「四千八百六十二人が」
彼女の声が震えた。
「みんな、良好なんですって」
背後で、蓮が動く気配がした。
彼は、ガラスに近づいた。
そして、寝台の列を、端から順番に見ていった。
一列目。二列目。三列目。
朱音は、その背中を見ていられなかった。
「……蓮くん。この距離じゃ、顔までは」
「わかってる」
蓮は、ガラスに額を押し当てた。
「わかってるけど、探させてくれ」
彼は、そこから動かなかった。
極寒の中で、彼の吐く息だけが白く広がり、ガラスを曇らせては消えた。
やがて、蓮はガラスから離れた。
「……いた」
朱音が振り返る。
「嘘。この距離で」
「三十七列目の、右から四つ目だ」
蓮は、震える指でガラスの一点を指した。
「髪の分け目が逆なんだよ。あいつ、右利きなのに左に分けるんだ。四歳の時からずっとそうだ」
朱音は、目を凝らした。
遠すぎて、顔は見えない。ただ、小さな身体が一つ、そこに横たわっているのが分かるだけだった。
「美緒さん」
「あぁ」
蓮は、ガラスを掌で叩いた。一度。二度。
音は、向こう側へ届かなかった。分厚い遮音構造だった。
寝台の少女は、瞬きをした。
こちらを、見なかった。
「……美緒」
蓮の声が、割れた。
「兄ちゃんだ。おい。……こっち見ろよ」
少女は、天井を見ていた。
蓮は、額をガラスに押し当てたまま、ずるずるとその場に膝をついた。
彼は泣かなかった。声も上げなかった。
ただ、ガラスに押し当てた手が、白くなるほど強く握りしめられていた。
朱音は、彼の隣に膝をついた。
何を言えばいいのか分からなかった。だから、何も言わなかった。
代わりに、彼の背中に手を置いた。あの空白のある場所に。
「……朱音」
「はい」
「あいつを、出せるか」
朱音は、正直に答えた。
「分からない。……でも、方法があるとしたら、この奥にしかないわ」
蓮は、頷いた。
そして、ガラスに手をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「あと、どのくらいだ」
「あと、三百メートルくらい」
二人は、歩き出した。
朱音は、一度だけ振り返った。
暖かい光の中で、四千八百六十二人が、静かに呼吸をしていた。
誰も、彼女たちを見送らなかった。




