第二十三話:囮の決断と、深淵へ
サキの手からインジェクターが落ちた。
カラン、と乾いた音が坑道に響く。
彼女は、それを拾わなかった。
代わりに、腰から白磁の特殊警棒を引き抜いた。青白い高圧電流が、火花を散らす。
『対象ウイルス、AK−一一〇八。およびLE−〇〇一を確認。これより物理的排除を実行します』
「……サキちゃん?」
朱音は、その声の変化に気づいた。
抑揚がない。呼吸の揺らぎがない。声帯だけがそこにあって、中身が抜けている。
サキの背後から、市民部隊が雪崩れ込んできた。
そして、天井の亀裂から、白い機体が次々と滑り込んでくる。
「散れ! 東の枝坑へ!」
ヒロの怒号が飛んだ。
二百七十四人が、一斉に動いた。
叫び声。踏み鳴らされる岩。子供を抱えて走る母親。担架を担ぐ男たち。
朱音は、蓮に腕を掴まれた。
「こっちだ!」
二人は、坑道の奥へ走った。
背後で、レーザーが岩を焼く音。
やがて、行き止まりに突き当たった。
いや、行き止まりではなかった。
足元に、巨大な鉄格子が嵌め込まれている。
その下は、底の見えない縦穴だった。
「……ここか」
蓮が、鉄格子の隙間を覗き込んだ。
冷たい風が吹き上げてくる。それは地下水のものではない、機械の排熱の匂いがした。
「中央搬入用シャフト。旧時代に、エデンのメインサーバーを地殻の奥まで掘削するために使われた穴よ」
朱音は、息を切らしながら言った。
「深さは、およそ八百メートル」
「八百」
「途中に排気ダクトの分岐がいくつもあるわ。運が良ければ、途中で減速できる」
「運が悪けりゃ?」
「ミンチね」
蓮は、短く笑った。
「上等だ」
彼は、落ちていた鉄パイプを拾い上げ、鉄格子のストッパーに叩きつけようと構えた。
その時。
「待ちな」
背後から、声がした。
ヒロだった。
肩から血を流し、片手に工具箱を提げている。彼の後ろに、五、六人の男たちが立っていた。
「そのストッパー、パイプじゃ割れねぇよ。溶接されてる」
ヒロは、工具箱からガス切断機を取り出した。
「三分だ。三分やる」
「ヒロさん、あなたたちは」
「決まってんだろ」
ヒロは、切断機に火を点けた。青白い炎が、彼の顔を照らす。
「時間を稼ぐ」
「駄目よ。あの数は——」
「管理官さん」
ヒロが、朱音を見た。
「俺は三日前、あんたに『何を持ってきた』って聞いた。……あんたは答えなかったな」
「……はい」
「今なら答えられるか」
朱音は、彼を見返した。
「四千八百六十二人が生きてます。……そのうちの何人かは、あなたたちの家族です」
ヒロの手が、一瞬止まった。
「……そうか」
彼は、それだけ言った。
そして、火花を散らしながらストッパーを焼き始めた。
「タケの野郎はよ」
ヒロは、作業をしながら言った。
「娘が死んだ日、俺んとこに来て、一晩中泣いてたんだ。……あいつは、泣くのが下手だった」
金属が赤熱していく。
「三日前、あいつは笑って街を出た。……あんな笑い方する男じゃなかったんだよ、あいつは」
「ヒロさん」
「行け。……あんたら二人しか、あの穴を降りられねぇ」
ストッパーが、赤く溶け落ちた。
ガコンッ、と重い音を立てて、鉄格子が下へ跳ね開く。
八百メートルの闇が、口を開けた。
その時、坑道の入り口から光が差し込んだ。
市民部隊の隊列。その先頭に、サキが立っていた。
『排除を実行します』
「行けェェッ!!」
ヒロが、切断機を投げ捨てて叫んだ。
男たちが、一斉に岩陰から飛び出す。
朱音は、蓮の手を掴んだ。
「一つだけ聞いていい」
「なんだ」
「怖い?」
「めちゃくちゃな」
二人は、闇へ身を躍らせた。
落ちる直前、朱音の耳に届いたのは、ヒロの声だった。
「おい、タケ! てめぇの娘の名前はミナだ! ミナだよ、覚えとけ!」
その声は、すぐに轟音に飲まれた。
◇
落下。
視覚が完全に奪われた縦穴を、恐ろしい速度で落ちていく。
重力が内臓を喉まで押し上げ、耳元では空気を引き裂く暴風の轟音が鳴り響いた。
どこまで落ちるのか、いつ底に激突するのか、まったく予測できない。
だが、朱音の意識は、研ぎ澄まされた刃のように冴えていた。
風圧で息もできず、恐怖で眼球が凍りつきそうになっても、彼女の右腕だけは確かな重みと熱を捉え続けていた。
蓮の手だ。
どんなに激しく落下しても、彼の掌は朱音の指を折れんばかりの力で握りしめ、決して離さなかった。
ドンッ!!
背中に、強烈な衝撃が走った。
二人の身体が、斜めに傾斜した巨大な金属の筒に叩きつけられる。旧時代に掘削された排気ダクトだ。
摩擦で衣服が焦げる匂い。背中の肉が削れる激痛。速度を殺しきれないまま、二人は暗闇の中を何度も転がり、打ち付けられ、さらに深くへ滑落していく。
「——っ、がっ!」
「朱音、顔を庇え!!」
蓮が空中で身をよじり、朱音を背後から抱き込んだ。
金属の継ぎ目にぶつかるたび、彼の口から苦悶の呻きが漏れる。
やがて、傾斜が緩やかになり、二人の身体は冷たく硬い平面へ放り出された。
「……はぁっ……はっ……」
朱音は、仰向けのまま荒い息を吐いた。
全身の骨が軋み、かすり傷から血が滲んでいる。
痛い。強烈に痛む。
まだ、神経が肉体と繋がっている。
「……生きてるか」
すぐ耳元で、掠れた声がした。
蓮だ。庇ったせいで、彼の肩と背中の衣服はボロボロに裂けていた。それでも彼は、朱音の手を握ったままだった。
「ええ。痛いけど」
「上出来だ」
蓮がゆっくりと上体を起こす。
朱音も、痛む身体に鞭を打って立ち上がった。
そして、眼前に広がる光景を見た瞬間、肺から空気が抜け落ちるのを感じた。
果てしなく広大な空間だった。
見上げるほどの高さの天井まで、黒いモノリスのような巨大な塔が、数千、数万という単位で整然と立ち並んでいる。
塔の表面では、シアンブルーのLEDが、血管を流れる血液のように規則正しく明滅していた。
ゴォォォォォォ……という、鼓膜の奥を直接揺さぶる重低音。
そして、白い息が凍りついた。
「……くっ、寒い」
量子サーバーを熱暴走から守るために充満させられた、氷点下の冷却ガス。
まつ毛が一瞬で白く凍り始める。
「ここが」
朱音は、震える唇で呟いた。
「エデンの、心臓部」




